私は前項迄に、医学の誤謬を大体かいたつもりであるが、尚進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗する考へは毫末もない。只誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心担懐になって読まれたいのである。それには先づ事実によって、説明してみる方が早かろう。先づ何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧模糊御座なり的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就ても言ひ切る事が出来ない。貴方の病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此療法が効果ありとされてゐる。此療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的言葉である。又予想と実際と外れる事の、如何に多いかも医家は知ってゐるであらう。
そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈である。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或は両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮に治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆んどは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈である。此例として主治医といふ言葉があるが、若し本当に治るものなら、それで済んで了ふから主治医などの必要はなくなる訳である。
右によっても判る如く、若し病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈であるのに、事実は凡そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベットが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処かに、一大欠陥がなくてはならない筈であるに拘はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。 そうして、診断に就て其科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆んど区々である。といふのは茲にも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若し一定の科学的規準がありとすれば、其様な事はあり得る訳があるまい。若し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈である。処が事実は一般人と同様処か、反って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而も医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論であるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委せる事など出来ない訳である。それに就てよく斯ういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異う数は、一寸口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯ういふ場合どう説明したら、患者も其家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ屡々あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。
此様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍ら診断と結果が、実際と余りに喰違ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼の有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服ませし薬吾服む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(ジッコン)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直に治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其夫人は大いに感激して、医師を廃め、本療法に転向させるべく極力勧めたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以て其儘になってゐる人もある。今一つ斯ういう面白い事があった、十数年前或大実業家の夫人で、顔面神経麻痺の為、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往った事がある。其時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿いので、某大病院へ診察だけに行ったが其際懇意である其病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰く“その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処の病院でも奨めやしないか”と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ケ月程で全快したのである。
偖て、愈々医学の誤謬に就て、解説に取りかからう。
(文明の創造 昭和二十七年)
病気を悪化させる医療
現代医療は、病気治癒でなくて病気遅延であり、病勢を悪化さすのであるといふ事は前述の通りである。其点に就て、今一層徹底的に説いてみよふ。
人が先づ病気に罹るとする。そこで、医者にかかる。此場合医療は発熱に対しては解熱療法をし、咳嗽は止めやふとし、腫物は散らさうとし、痛みには薬剤を塗布し、患部へは湿布又は氷冷法等を行ふのである。
是等は何れも苦痛緩和の方法ではあるが、実は病気治癒の妨害である。浄化作用であるべき病気現象を軽減せんとするのは、取不直治癒の妨害をする訳である。
それ所ではない。もう一層大いなる誤りがある。それは、病気に対する抵抗力を強めよふとして、滋養物と唱え、獣性食餌を摂らせよふとするが、之は血液を溷濁させるので、即ち毒血増加法である。毒血は殺菌力弱く抗病力が薄弱であるから、結果としては病気を悪化させる事になるのである。
又、薬剤の注射及服用は、之亦非常に血液を溷濁させるのである。特に、注射に於ては如何なる注射と雖も、血液に入る時、血液から言へば、不純物の侵入であるから、不純物侵入に遇った血液は、其血液本来の使命である浄化力が弱まるのは当然である。浄化力が弱まる結果、病気現象が一時引込むので、宛(サナガ)ら治癒されるやうに見えるのである。之は後段、毒素療法の項に詳説してあるから、茲では略する事とするが、ともあれ、前述の如く、獣肉営養及び薬剤に由る血液溷濁が病気悪化に拍車をかけるのであるから、今日一朝罹病するや、其治癒の遅々たる事、余病の発生する等、悉此理に由るのである。実に恐るべきは誤れる医術と、それに因る無智な療法である。(S・11・4・22)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)
現代医学は何処へ行く
現在、医学研究の為に、日本だけに見ても幾千の人と、一ケ年幾百万の費用を使って、研究に専心没頭しつつある事である。それは吾々から見れば、全く徒労のやうな気がしてならない。忌憚なくいへば、それ等は一小部分に溜めてをいて、今一層有意義なる事に転向したならばと常に思ふのである。
斯んな事を言えば、狂人の言葉とも見られるかも知れないが、以下の論旨によって、深く検討されたいと思ふのである。
一体、医学の目的とは何ぞやと言へば、言ふ迄もなく、人間病気の根絶である。それ以外に何物もあり得ない事である。故に、日本は固より、全世界文明国の医に携はる数多の学者権威が智能を絞り、日夜苦心惨澹、分析研究に努力しつつあるのは、終局の目的たる病気根絶の為である事は、言ふまでもないのである。故に、それ等は最終の目標たる病気根絶のそれ迄の研究でもあり、努力でもある訳である。
故に設し、今直ちに病気根絶の方法が発見され得たとしたら、最早、研究努力の要は無い訳である。然し乍ら、余りに意外な私の此説を、直ちに受入れるのは困難であらふ事は判ってゐる。どうしても綿密な実験以外に解りやふ筈が無いからである。 医学上最も難治とされる癌、結核、痔瘻、喘息、脳溢血、中風、癲癇、発狂、梅毒、脳膜炎等、凡ゆる疾患が、罹病後直ちに来れば、二、三回乃至十数回の治療に由って全治するので、治病率百パーセントの実績は決して過言ではないのである。現在凡ゆる治療に散々拗らされたる患者が大部分であるに係はらず、猶八十パーセンテージ以上の治病実績を挙げつつあるにみて、想像され得るであらふ。
事実に抗弁し得る力は絶対に有り得ない。繰返して私は言ふ。斯の如き完全療法が成立した以上、医術は之のみになる事は必然の理である。今日の薬剤、医療器械等、数十年の後には、博物館へ歴史の参考品として飾られるかも知れないとさへ想ふのである。
此療法あるを知らずして、それの恩恵に浴せない事程、不幸な人達はあるまい。否、それよりも最大級の不幸な人といふのは、此療法を眼にし、耳にし乍ら、信ずる得はずして、遂に貴重なる生命を失ふ事である。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)