前述の如く、私は反文明の原因としての、戦争と病気の二大苦を挙げたが、其外に今一つの貧困がある。然し之は戦争と病気とが解決出来れば、自然に解決さるるものであるからかかないが、先づ戦争の原因から説いてみると、之は勿論精神的欠陥即ち心の病気にあるので、之も肉体の病気さへ解決出来れば、共に解決さるべきものである。右の如く病気も、戦争も、貧困も同一原因であるとしたら、真の健康人即ち霊肉共に完全な人間を作ればいいのである。然し斯う言えば至極簡単のやうであるが、実は之が容易でない事は誰も想像されるであらう。然し私から言えば、決して不可能ではない。何となれば必ず解決出来得るだけの方法を、神から啓示されてゐるからで、之が私の使命でもあり、其一段階としての此著である。従って先づ病気なるものからかいてみるが、病と言っても前述の通り、肉体と精神との両方であるが、現代人は普通病とさへ言えば、肉体のみのものと思ってゐる処に誤りがあるので、此精神の不健康者こそ、戦争の原因となるのである。其様な訳でどうしても人間が肉体と精神と共に本当にならない限り、真の文明世界は生れないのは言う迄もない。ではどうすればそれが実現され得るかといふと、それには勿論其根本が解ると共に、可能の方法も発見せられなければならない。処が私はそれに関する根本義を発見し、而も絶対解決の方法迄も把握し得たので、茲に詳細徹底的にかくのである。
それに就ては先づ吾々が住んでゐる此地上の実相から解いてみるが、元来此地上の一切、今日迄の学問では物質のみの存在とされてをり、それ以外は無とされて来たのである。然し此考え方たるや非常な誤りであって、無処ではない。人類にとって之程重要なるものはない程のものが、確実に存在してゐる事である。にも拘はらずそれが何故今日迄分ってゐなかったかといふと、全く唯物科学にのみ依存して来た結果であるからで、即ち唯物科学に於ての理論は、見へざるものは無と決めてゐた以上、之程進歩したと思はれる唯物科学でも把握出来得なかったのである。右の如く唯物科学で知り得ないものは、悉く否定の闇に葬って了った其独断的観念こそ、学者の頭脳なるもののいとも頑な偏見さである。之に就ては多くをいふ必要はあるまい程、人類の幸福が文化の進歩に伴はない事実である。それを之から漸次説き進めてみよう。 以上説いた如く精神と肉体共に完全なる人間を作るのが真の医学であるとしたら、現代医学は果して其目的通り進んでゐるであらうかを茲で検討する時、それは余りにも背反してゐる事実である。それ処ではない。寧ろ病気を作り、病人を増やしてゐると言っても過言ではない程の誤りを犯してゐる事で、それを之から詳しくかいてみるが、先づ医学なるものの今日迄の根本的考へ方である。といふのは医学は病気の原因が全然分ってゐないから、凡べて反対に解釈してゐる。勿論唯物科学本位で進んで来たものとすれば致し方ないであらう。
右の結果医学は病気の場合外部に表はれたる苦痛を緩和するのみに専念してゐる。従って医学の進歩とは一時的苦痛緩和法の進歩したものであって、其方法として採られてゐるものが彼の薬剤、機械、放射能等の物質の応用である。成程之によって病気の苦痛は緩和されるので、之で病が治るものと誤認し、緩和法を続行するのであるが、事実は苦痛緩和と病気の治る事とは、根本的に異ふのである。即ち前者は一時的で、後者は永久的であるからである。而も其苦痛緩和の方法自体が病を作り、病を悪化させる結果なのであるから問題は大きいのである。何しろ唯物的医学であるから、人体も単なる物質と見るのみか、人間と人間以外の動物をも同一視するのである。それによって動物を研究資料として、病理の発見に努め、偶々何等かの成果を得るや、直ちに人間に応用するのであるが、之が非常な誤りである。何となれば人間と動物とは形も本質も内容も全く異ってゐる事で、之に気が付かないのである。此理によって人間の病気は、人間を対象として研究されなければならない事は余りにも明かであって、之以外人間を治す医学は確立される筈はないのである。そうして今一つ斯ういふ点も知らなければならない事は、動物には人間のやうな神経作用がないが、人間には大いにある。人間が神経作用の為に、どの位病気に影響するか分らない。例えば一度結核と宣告されるや、此一言で患者の神経は大打撃を受け、目に見えて憔悴する事実は、医家も一般人もよく知る処であらう。処が動物にはそういふ事が全然ないにみても肯れるであらう。
以上によって見る時、現代医学の欠陥は、霊と体で構成されてゐる人間を、霊を無視して体のみを対象とする事と、人間と動物を同一に視てゐる点で、之が主なるものである事を知らねばならないのである。
(文明の創造 昭和二十七年)
病気及絶対健康法の原理
此の講座は観音講座としては最も眼目である。又特に平時から講習してあるから重複するのもあるが、我慢して聞いてもらいたい。
西洋医学の間違い、之を一般に判らせねばならんが、当局者の方では警戒しております。西洋医学の外はなく、これ以外には何物も出ないと定まっているので、我々の主張を入れない。非常にこの点困難だが、そうかといってそれを見ておられない。世間には病気にかゝり財産をなくし家族一般餓(ウエ)に泣く有様が現在なのであるから何としてもやらねばならん。
是を捨てて他山の石として見通すことは断然出来ないのである。非常時どころの問題ではないのである。
政治問題や機関説等より何十層倍肝腎なことだか判らんのであります。然らば西洋医学はどうして間違っているか。西洋医学は絶対に癒らんと言うことを前提としてお話する。西洋医学では癒らん所か、癒るべき病気を悪くしているのであるから世界的の大問題である。
此の事についての例は沢山ある。
神田の滝川病院で三つの赤ちゃんを麻疹と判り切っているのに百回以上注射し、日限は百日以上たっても微熱が下らんので之は肺尖が悪いと言っているが全然違っている。是は薬の中毒であるのを知らないのである。
観音力ならば十日かそれ程かゝらずに治り、呑気な人ならば放って置いても十日か廿日位で治らんことはないのに、金を何程使ったか判らぬと言ふ有様である。世の中で是を知ったら非常な問題である。是を観音様から知らされたり又色々で知ったのである。世に知らせ、医者に知らせて根本的に修業の行り直しをさせねばならん。
何故西洋医学は間違いか、という問題になるが、是は体的療法であるからである。人間を構成しているものは二つから成る。それは霊と体である。昔から陰陽二つで何事も成立っている。天あらば地、火あらば水、神あらば仏。
人間は体ばかりではないことは判り切った事である。霊が脱出するから死ぬのだ。西洋医学は体を本位とし、日本医学は霊を本位としているから反対である。病気の元は霊にあるのである。それを知らずに体のみを治すのであるから癒らんのは当然の事である。
神=仏 心=物 霊=体。
上記の如く嫌な事は結果であって、元は悪心からである。悪心を直さねば之等の結果は永久に止まぬのであることは皆様既に御承知の通りである。枝葉末節も甚しいことである。肺病なれば肺病の起って来たものを研究している。それには何か必ず元がある。其の根本を研究せねば治らんのは当り前である。
(昭和十年九月十五日)
現代文化とは
之迄説いた事によって略々分ったであらうが、要するに医学誤謬の根本は、自然を無視した処にある。といふのは病気といふものは、曩にかいた如く体内機能の邪魔物である毒素を、病気といふ形によって排除する自然作用であって、そのやうに神が造られたものである以上、人間はそれに従ふのが本当である。此例としては、彼の風雨や雷火である。之は空気界及び霊気界に汚穢が溜り、之が濃厚となると、毒素が発生し、人蓄其他に害を及ぼすので、浄化作用が発生する。即ち風で吹き払ひ、雨水で洗ひ、天日で乾かし、特殊なものは雷火で焼尽する。之を小さくしたものが人間の病気であるから、此理を知ったなら病気を止める事が、如何に反自然であるかが分るであらう。
茲で病気と科学の関係に就ての誤りに就いて詳しくかかねばならないが、元来科学の役目は人間生存上人間の意欲を満たすべく、より便利に、より美しく智能を豊富にし、幸福を増進する為の学問であって、その分野は自ら定められてゐる。それは形而下的学問であるに対し、人間の生命は形而上的の存在であって、科学の分野には属してゐないのである。即ち科学は唯物的分野であり、人間生命は唯心的分野であるのが真理である。然るに近代に至って科学の驚くべき発達によって、人間はそれに幻惑され、科学を以てすれば如何なるものでも解決出来るとする科学過信に陥って了ったのである。それが為己れの分野を逸脱し、唯心分野の領域に侵入したので、その結果人間生命をも自由にして了った。此下剋上的考え方が医学を生んだのであるから、根本的に誤ってゐるのは今更言う迄もないのである。
以上の如く人間生命は、唯心分野にあり、唯心分野を握ってゐるのが神であるから、私が行う治病の素晴しい力も神から発現する以上、如何なる病気も治るのは当然であって、敢て不思議はないのである。処が現代人は之を見て不思議と思ひ、奇蹟としてゐるのは実は嗤ふべきであって、逆さになって見れば真直なものが逆さになってゐるのと同様である。という訳で私が行ふ神霊治病方法は、見た事も聞いた事もない破天荒的であるから、容易に受け入れる事は出来ないので、一時は戸惑ひするが、併し根本から判るに従ひ俄然として、長夜の夢が醒め、医学の迷蒙も分り、茲に安心立命者となるのである。従って此著を読んでも、尚躊躇逡巡目覚めないとしたら、その人は滅びの淵に臨んでゐる危険極まる人と言ってもいいであらう。
(医学革命の書 昭和二十八年)
抑々、医術とは何ぞやと言へば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟たない処である。故に、真の医術が完成さるるに従ひ、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、又、病気の種類も漸減し、其当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享けたる齢丈の年数を重ねて、苦痛のない眠るが如き自然死の人が増加してゆかなければならない筈である。
然るに、現在迄の事実は如何。右と余りに反対の経路を辿りつつあるではないか。視よ、罹病率は日に月に増すのみであって、一人も病者の無い家は殆んど稀である。今日、国民の健康を厳診するに於て、真の無病者は、果して幾人あるであらふ乎。恐らく十人に一人も難しいであらふ。壮丁の体格が年々低下するといふ報告や、乳児死亡率が、有難くもない世界第一の統計を示す如き、又、結核患者の撲滅に官民共に大童の努力を払ひ、多額の国費を使ひつつあるに拘はらず、更に減少せざるのみか、今尚、一ケ年百二十万人の患者と、十余万人の死亡者を出してゐるといふ状勢である。又、病気の種類に見ても、増加するとも減少しない事実は、何を物語ってゐるであらふ乎。今日男子にして、高等教育を受け、有為の才を抱きながら、病床に呻吟しつつある者、又は修業の半途に於て、病患の為に挫折し、可惜青春の身を以て、煩悶の日を送りつつある者、又は相当の地位や、成功を収めて、大いに国家社会に尽さんとする頃、病に斃るる者、又、婦女子にして、病弱の為に妻としての、母としての天賦の務を完ふし得ざる者、婚期を過す者、愛児の早折に由る悲嘆、其他不具、変質、発狂等、之等が原因となって、不幸逆境に沈淪(チンリン)する者の如何に多きかは、誰もが余りに知り過ぎてゐる事実である。今仮に、一家に一人の重患者を出すとすれば、長年汗した貯蓄は、忽ち費消されるべく、況んや二、三人の重患者、又は死亡者の生ずるに於ては、相当の資産をさへ、蕩尽されて了ふといふ悲惨事は、到処に見るのである。今日、社会の敗残者、無産者の其原因の病気に因る事の如何に多いかは、周知の事実である。故に、世人の病気を恐るる事、今日より甚しきは無く、其弱点に付け込まれ、効果疑問の売薬や滋養剤を、巧妙なる広告戦術に魅せられて、多くの病者の財嚢(サイフ)は相当搾られ、窮乏線に拍車を掛けられてゐる状態である。 そうして、一度重患に罹るや、驚くべき高価なる手術料や、多額の入院料を負担させられるに不拘、その治癒するの遅々たる、治病率の低き、実に当事者の言に徴するも、五十パーセントも難しいとの事である。
慶大の草間博士は、公開の席上に於て、明言して曰く、「現代医学では、病気は決して治らないのであるから、今後は病気に罹らない医学、即ち予防医学に依って各自の健康を保つより外に、最善の方法は無いのである」と。実に正直にして良心のある、真の学者の言であると思ふのである。
故に、賢明なる医師は、西洋医学での治病の無力を痛感して、止むなく漢方医術、灸治、其他の民間療法に着目し研究せんとする者、簇出しつつあるの実状である。
以上説く所の事実によって見るも、現代医学の真価は明かである。成程、黴菌発見や、基礎医学方面にては、多少の進歩の跡は見るけれども、治療方面に於ては、実に十年一日の如しと言ひ度い位である。然らば、此真因は何方に在るであらふ乎。その発見こそは、寔に如何なる政治よりも、経済よりも、発明よりも、緊要事であらふ事である。言ふ迄もなく、国民の不健康程、国家の損失はあるまい。今や、躍進日本の地位より観て、今後益々欧米人に伍して相競ふは固より、望むらくは、白人種を凌駕(リョウガ)する迄にならなければならない処の、重大使命を持つ日本人として、実に健康こそ何よりも最大根本問題であらねばならない事である。
然らば、現代医学の誤謬は、如何なる点に存するのであらふ乎。それは実に、其出発点に於て、重大なる錯誤がある事である。それが、此書中に詳述してあるから、熟読玩味するに於て、何人と雖も豁然として其蒙が啓け、病気の真因も、健康の要諦も、天日の下に晒さるるが如くで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。
実に此新日本医術であり、明日の医学とも言ふべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有って以来恐らく空前であらふ程の、一大福音である。又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、それは、例えば如何に食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。兎に角、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓ふものである。(S・11・2・8)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)
新日本医術と既存医学の誤謬
抑々、病気とは何ぞやと言へば、人体の浄化作用である。人間の健康は、病気有るが為に保ってゐる、と言っても可いのである。
人間が生を営みつつ諸々の行為による罪穢や、食物の毒素、其他近代生活に於る、種痘の為の陰性化天然痘毒素及薬剤中毒等、凡ゆる可避不可避、又は意識と無意識とによって、不知不識堆積する毒素は、或程度免るる事の出来ないものである。そうして、其堆積の量が、或程度を超ゆる時、それはどうしても排除されなければ、人体の健康は保ってゆけないのである。
それが人体に於ける自然浄化作用であって、其排除されなければならない余剰毒素は、身体の何れかの部分に集中し、其処から排出されやふとするのである。病気とは、右の排除されよふとして、或部分に集中した毒素が、尚も外部へ排出されやふとする其道程の苦痛である。
故に、自然浄化による血液中の毒素が、膿汁となって排泄する場合、排泄に有利ならしめん為、其膿を溶解する必要がある。元来、膿汁は人間の体温及び、それより低い温度では、凝結する性質があるので、それを溶解せんとするには、どうしても体温以上の温度を要するのである。それが為の発熱である。又、膿の排除作用の工作が、痛みであるから痛みと熱に因って、毒素排出の目的が達せられ、健康は持続されるのである。又、肺結核痔疾等にて、喀血や出血するといふ理由もそうである。排除されなければならない余剰毒血が、其排除器能である肺又は肛門を利用する訳である。故に、肺からの喀血は、多量であればある程、浄化作用が良く行はれるのであるから、何等恐るる事なく、寧ろ喜んで、放置してをけばよいのである。それの後は非常に、健康は増進される事実を、断言するのである。此理を知らない医学は、出血や発熱を以て病気悪化と誤解し、非常に恐れて、それを停止させよふとする。其為に、折角の浄化作用が完全に行はれないから、病気は長引き、健康は容易に恢復し難くなるのである。尚其上に、薬剤服用の為の毒血増加が、病気悪化に拍車を掛けるのである。 是等の理に由って、病気現象は決して健康を損ねるものでなく、反って浄化作用であるから、之を知ったならば、病気は恐るる所か、大いに喜んでいい訳である。 故に、今日迄の病気治療は、病気を治癒させるのではなく、治癒を遅延させ、病気を悪化させる結果に外ならなかったのである。(S・11・4・21)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)