病気とは何ぞや

愈々之から病気に就ての一切を解説する順序となったが、抑々病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中溌剌たる元気を以て活動が出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は膿化した不潔物である。では何故其様な病気の原因となる処の薬剤を使用しはじめたかといふと、之には大いに理由があるから詳しくかいてみるが、抑々人類は未開時代は兎も角、漸次人口が増へるに従って、食物が不足になって来た。そこで人間は食物を探し求め、手当り放題に採っては食った。勿論農作法も漁獲法も幼稚の事とて、山野、河川至る処で木の実、草の実、虫類、貝類、小魚等を漁ったが、其良否など見分ける術もないので、矢鱈に食欲を満たそうとしたので、毒物に中(ア)てられ、其苦痛を名付けて病気と謂ったのである。

そこで何とかして其苦痛を脱れやうとし、草根木皮を試みた処、偶々苦痛が軽くなるものもあるので、之を薬と称して有難がったのである。其中での薬の発見者としての有名なのが、中国漢時代に現はれた盤古氏で、別名神農といふ漢方薬の始祖人であるのは余りにも有名である。右の如くであるから、食物中毒の苦痛も勿論其浄化の為であり、薬効とは其毒物の排泄停止によって苦痛が緩和されるので、已に其頃から浄化停止を以て病を治す手段と思ったので、此迷盲が二千有余年も続いて来たのであるから驚くの外はない。そうして西洋に於ても草根木皮以外凡ゆる物から薬を採ったのは現在と雖もそうである。従って薬で病気を治す考え方は、之程開けた今日でも原始時代の人智と些かも変ってゐないのは不思議といっていい。

偖て愈々之から実際の病気に就て徹底的に解説してみるが、抑々人間として誰でも必ず罹る病としては感冒であらうから、之から解説するとしやう。先づ感冒に罹るや発熱が先駆となり、次で頭痛、咳嗽、喀痰、盗汗、節々の痛み、懈さ等、其内の幾つかの症状は必ず出るが、此原因は何かといふと、体内保有毒素に浄化作用が発り、其排除に伴ふ現象である。処が其理を知らない医療は、それを停めやうとするので、之が大変な誤りである。今其理由を詳しく説明してみると斯うである。即ち人間が体内に毒素があると、機能の活動を妨げるので、自然は或程度を越ゆる場合、其排除作用を起すのである。排除作用とは固まった毒素を熱によって溶解し、喀痰、鼻汁、汗、尿、下痢等の排泄物にして体外へ出すのであるから、其間の僅かの苦痛さへ我慢すれば、順調に浄化作用が行はれるから毒素は減り、それだけ健康は増すのである。

処が医学は逆に解して、苦痛は体内機能を毀損させる現象として悪い意味に解釈する結果、極力停めやうとするのであるから、全く恐るべき誤謬である。そうして元来浄化作用とは、活力旺盛であればある程起り易いのであるから、弱らせるに限るから、茲に弱らせる方法として生れたのが医療である。勿論弱っただけは症状が減るから之も無理はないが、実際は無智以外の何物でもないのである。其弱らせる方法として最も効果あるものが薬である。つまり薬と称する毒を使って弱らせるのである。人体の方は熱によって毒素を溶かし、液体にして排泄しやうとして神経を刺戟する。それが痛み苦しみであるのを、何時どう間違へたものか、それを悪化と解して溶けないやう元通りに固めやうとする。それが氷冷、湿布、解熱剤等であるから、実に驚くべき程の無智で、之では病気を治すのではなく、治さないやうにする事であり、一時の苦痛緩和を治る過程と思ひ誤ったのである。処が前記の如く苦痛緩和手段其ものが病気を作る原因となるのであるから由々しき問題である。つまり天与の病気といふ健康増進の恩恵を逆解して阻止排撃手段に出る。其方法が医学であるから、其無智なる評する言葉はないのである。近来よく言はれる闘病といふ言葉も、右の意味から出たのであらう。

右の如く感冒に罹るや、排泄されやうとする毒素を停めると共に、薬毒をも追加するので、一時は固まって苦痛は解消するから、之で治ったと思ふが、之こそ飛んでもない話で、却って最初出やうとした毒素を出ないやうにして後から追加するのであるから、其結果として今度は前より強い浄化が起るのは当然である。其証拠には一旦風邪を引いて一回で治り切りになる人は殆んどあるまい。又陽気の変り目には大抵な人は風邪を引くし、風邪が持病のやうになる人も少なくないので、そういふ人が之を読んだら成程と肯くであらう。此様に人間にとって感冒程簡単な体内清潔作用はないのであるから、風邪程有難いものはないのである。処が昔から風邪は万病の基などといってゐるが、之程間違った話はない。何よりも近来の如く結核患者が増えるのも風邪を引かないやうにし、偶々引いても固めて毒素を出さないやうにする。従って結核予防は風邪引きを大いに奨励する事である。そうすれば結核問題など訳なく解決するのである。それを知らないから反対の方法を採るので、益々増へるのは当然である。

そうして右の如く病原としての毒素固結であるが、此原因は先天性と後天性と両方ある。先天性は勿論遺伝薬毒であり、後天性は生れた後入れた薬毒である。処が其両毒は人間が神経を使ふ局部へ集中固結する。人間が最も神経を使ふ処としては、上半身特に頭脳を中心とした眼、耳、鼻、口等であるから、毒素は其処を目掛けて集中せんとし、一旦頸部附近に固結するのである。誰でも首の周り、肩の附近を探ればよく分る。其処に固結のない人は殆んどないといっていい。而も必ず微熱があるのは軽微な浄化が起ってゐるからで、頭痛、頭重、首肩の凝り、耳鳴、眼脂、鼻汁、喀痰、歯槽膿漏等は其為である。処が毒結が或程度を越ゆると自然浄化が発生するし、其他運動によって体力が活溌となったり、気候の激変によって自然順応作用が起ったりする等の諸原因によって風邪を引くやうになる。よく肩が張ると風邪を引くといふのは之である。又咳嗽は液体化した毒結排除の為のポンプ作用であるが、之は首の附近とは限らない。各部の毒結もそうである。次に嚏であるが、之は恰度鼻の裏側、延髄附近の毒素が液体となったのを出すポンプ作用であるから、此理を知れば実際とよく合ふ事が分るのである。

右の如く頭脳を中心とした上半身の強烈な浄化作用が感冒であるから、此理屈さへ分れば、仮令感冒に罹っても安心して、自然に委せておけばいいので、体内は清浄となり、順調に割合早く治るのであるから、此事を知っただけでも、其幸福の大なる事は言ふ迄もない。

(文明の創造 昭和二十七年)

現代医学論

此著を編纂するに当って、私は非常な決心をした。といふのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。之程進歩したと思ひ、世界万民が謳歌し、信頼してゐる現代医学に対し、私は真向から鉄槌を下すのであるから、人類救済の為とは言ひ乍ら、洵に忍び難いものがある。併し乍ら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私と雖も絶対者の命に従はざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬にある以上、到底晏如たるを得ないのである。故に若し現在のままの迷蒙を続けるとしたら、人類の将来は果して如何になりゆくや、思ふさへ慄然とするのである。

そうして之をかくに当っては、先づその根本から明らかにせねばならないが、それには先づ現代人の科学至上観念である。序論にもある通り科学さへ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造と雖も、既成学理に合はない限り拒否して取上げないとする偏見であって、之が文化的と思ってゐるのであるから困ったものであるが、寧ろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇なくそれを取上げる、茲に文化の進歩があるのである。処がそれを頭から否認するといふ丁髷思想であって、この代表ともいふべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはない筈の新しい封建である。といふ訳で此著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、然し事実が何よりの證拠である。それは今日の如く医学が進歩したに拘はらず、至る所病人の氾濫である。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞く処で、現代人残らずといひたい程何等かの病気を有ってをり、真の健康者は殆んど皆無といってもよからう。之等にみても分る如く、若し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者の悉くは失業者とならねばならない筈であるにも拘はらず、事実はその反対であるとしたら、茲に疑問が生ずべきだが、一向そういふ気振はみへない処か、益々迷路を驀進してゐる有様で、その危ふさは到底観ては居れないのである。従って私は之から徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添へてある以上、如何なる人でも飜然として目覚めない訳にはゆかないであらう。

そうして現代人の病気を恐れるの甚だしく、一度病に罹るや早速医師の診療を受ける。処が之が又意想外であって、治るやうにみえてもそれは或期間だけの事で、根治とはならない。その殆んどは慢性か再発かのどちらかである。之を常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのは之も迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴ふから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験する処であらう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさへ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決ってゐる。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屡々あるが、殆んどは泣寝入りである。処が手術も受け、凡ゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は費ひ果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さへ往々あるのは、よく新聞に出てゐるが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々な忌はしい問題を惹起するのは衆知の通りである。今日凡ゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言ひたい位である。それに引換へ我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、而も僅かの費用で快癒するので、之を医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶ってゐるからである。茲に於て如何なる無神論者と雖も、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかといふ事である。之こそ昔から誰もが最も知りたいと思ってゐる問題であらう。勿論人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違ひないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神の御目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きてゐる限り健康で活動出来るのが本来である。然るに何ぞや、病気に罹るといふ事は異変であって、其処に何等か真理に外れてゐる点があるからで、此点に気付き是正すれば治るのが当然である。処が之に盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れてゐるからである。

そうして今日迄の病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学に於ては、五臓の疲れ又は不調和の為であるとし、西洋医学に於ては黴菌感染によるとしてゐる。此どちらも洵に浅薄極まるものであって、些かも根本に触れてゐない迷論である。而も後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであらうが、それは事実が語ってゐる。今日医師は患者から訊かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めてゐるであらう。つまり病気の真因が分ってゐないからである。そうして医学に於ける誤謬の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損し、健康を破り、生命を脅すものとしてをり、苦痛さへ除れば病は治るものと解してゐる。此考へ方こそ大変な誤謬であって、今それを詳しくかいてみよう。

抑々病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。之を吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、此苦痛を称して病気といふのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、之が真理である以上、此著を読めば必ず納得される筈である。処が何時の頃どう間違えたものか、之を逆に解釈して出来たのが医学であるから、此逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、此考へ方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、之を停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考へ出したのが毒を服ませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論悉く毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るから、それを治ると錯覚したのであるから、世に之程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなく寧ろ治さない方法である。故に医師も治るとは言はない、固めるといふにみても明らかである。

右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるやうにし、排除を速かならしめ、無毒にする事であって、之が真の医術である。之なら再発の憂ひも罹病の心配もなくなり、真の健康体となるのである。処が一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、之が病原となるので、つまり病を追加する訳である。此證拠として医療を受け乍ら、余病といって病が増えるのが何よりの證拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減る筈ではないか。それがアベコベとしたら、之程理屈に合はない話はあるまい。知らぬ事とは言ひ乍ら、医学は如何に迷蒙であるかが分るであらう。

以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、服むと中毒する位の薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医の泰斗杉田玄白先生は“病に薬を用ひるのは、毒を以て毒を制するのだ”と曰ったのは蓋し至言である。従って熱、咳嗽、吐痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、悉くは排毒作用であり、腫物、湿疹、疵や火傷後の化膿等も同様であるから、実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行はれ、速かに而も確実に治るのである。

(医学革命の書 昭和二十八年)

病気を治す方法

以上によって病気なるものの実体は大体分ったであらうが、ではそれを治すにはどうすればいいかといふ事である。前項の如く放置してをけば治るのは間違ひないが、それでは非常に時日がかかる。というのは毒素が少量であれば速かに治るが、そういふ人は極く稀で、大抵な人は薬毒が充満してゐる。尤も政府も医師も小学校時代から薬を服めと教育し、奨励し、之が文化のあり方としてゐるのだから堪らない。今日薬剤特に新薬が如何に売れるかは、新聞広告欄を見ても分る通り、第一位を占めてゐる。搗て加えて先天性薬毒も保有してゐる以上、今日の人間は人間の形をした毒の塊りであるから、兎もすれば病気に罹り易く、その都度薬と来る。という訳で戦々兢々として日を送ってゐる。而もそういふ人に限って矢鱈に薬を服み、衛生にも充分注意してゐながら弱々しいのは、昔から養生家程弱いと言はれてゐる通りである。又当局は当局で医学の説を金科玉条と信奉してゐる。その為ヤレ帰宅したら手を洗へ、含嗽をしろ、風邪を引くな、暴飲暴食を慎め、無理をするな、睡眠を充分採れ、黴菌を恐れよなどと注意怠らず、結核検診、各種の予防注射は固より、子供は寝冷をするな、生水を飲むな、食物をよく噛め、よく睡れなどと、ザッとかいただけで此位だから、現在生活の煩雑さは生きてゐるのが嫌になる位である。之が文化的生活としたら、一種の牢獄であらう。

此最大原因こそ病なるものは、健康の為の神の恩恵である事を知らず、逆に病気を病魔と言ひ、闘病などといって敵視してゐるのを、吾々からみれば迷信地獄に陥ちて苦しんでゐる人々としか思へない。それに引換へ吾々の方では病を大いに歓迎してゐる。例えばお陰様でやっと風邪を引きました。先日は酷い下痢と嘔吐があって、それから迚も躰の工合が好くなりましたとか、やっと熱が出たからもう大丈夫だと、仕事に取掛るといふやうな有様を見たら腰を抜かすであらう。之こそ病の根本が分ってゐる為と、必ず治るといふ自信があるからで、此境地こそ文字通りの安心立命を得た幸福者である。故に此世界から薬剤全部を海へ投げ棄てるとしたら、その時を限りとして病は漸次此世界から消滅するのは、断言して憚らないのである。

以上は現代医学に対し、大胆卒直にその真相を暴露したのであるが、では此誤謬を是正するにはどうしたらいいかといふと、それは甚だ簡単である。即ち私の説に従ひ、病気に罹った場合自然療法か、又は浄霊療法を行へばそれで解決するのである。之に就て今迄の統計によるも、最も治り難いとされてゐる結核の治癒率が九十三パーセント、他の病気は九十七パーセントといふ好成績を挙げてゐる。而も右の少数失敗者の原因は、薬毒が余りに多量の為であるから、そうでないとしたら百パーセントは確実である。又浄霊法の最も誇るべき特長は、施術の場合医療と異って、肉体に一手も触れない事である。そうして浄霊の主眼は薬毒解消法であり、薬毒が減っただけは治るからよく分る。といっても医学迷信に固まってゐる現代人は、容易に信じられまいから、充分納得のゆくやう詳説すると共に、本人手記の百の実例をも添へてある以上、理解されない筈はないと思ふ。

(医学革命の書 昭和二十八年)

固め方法と溶かす方法

以上の如く現在迄の療法という療法は、悉く固め手段であるから、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事がよく分ったであらう。そうして薬剤以外の方法としては彼の電気、レントゲン、種々の光線療法等、何れも固め方法であり、氷冷、湿布、塗布薬等も同様であるが、只灸点、鍼、吸瓢(スイフクベ)だけは右と異ひ、刺戟によって浄化中の毒素を患部へ誘引し、一時的苦痛緩和を狙ったもので、勿論治るのではないから、灸など毎月というやうに定期的に据えるのは其為である。此様に今日迄の凡ゆる療法は浄化停止であるから、病を治すのではなく、結局治さない方法でしかないのである。

此理によって真の病を治す方法は、右とは反対に固結した毒素を溶かして体外へ排除させる事で、それ以外真の療法はないのである。それを理論と実際とによって、之から詳しく解説してみるが、それに就て前以て知ってをかねばならない事は、人間なるものの実体である。之を医学では一個の物質と見做してゐるが、勿論医学は唯物科学から生れたものである以上、そう見るのも当然であるが、此見方こそ誤謬の根本である。というのは人間が単に物質のみであるとすれば理屈に合はない事になる。何となれば人間には意志想念といふ目にも見へず、手にも触れないものであり乍ら、確かに存在してゐるからで、之ばかりは如何なる科学者と雖も否定は出来ないであらう。とすれば此無なるものが、実は人間を自由自在に操ってゐる本尊様といふ事になる。近来医学でも精神医学といって、精神的に治す方法を試みてゐるが、之が案外奏効するので、漸次関心を持たれて来たといふ話である。してみると医師の中にも、人間は物質のみでない事を認識された訳である。

以上の如く人間は肉体以外見えざる心があり、心を包んでゐるものを私は霊と名付けてゐる。従って霊と肉体との両者併合によって成立ってゐるのが人間である事は余りにも明かである。処が医学は右の如き人間の本体である霊を無視し、体のみを研究して来たのであるから、一方的跛行的であって、言ひ換へれば肝腎な主人公たる魂を無視して、其配下共を対象とした訳である。つまり肉体は外殻で中身ではない。中身とは見へざる霊であるから、之を主としてこそ真の医学は成立つのである。医学が凡ての病原を細胞のみに持ってゆくのもその為である。では何故科学は霊を認めなかったかといふ其原因こそ、霊は肉眼で見へず、機械でも測定出来なかったからである。というのは全く現代科学のレベルが低いにも拘はらず、それに盲目であった為科学を実価以上に信じ、科学で把握出来ないものは一切無と決めて了った。つまり科学過信の結果である。従って将来科学が幾層倍進歩した暁、霊の確認は勿論だが、只それ迄に如何に誤った医学による多数の犠牲者が出るかを想う時、一日も早く此迷盲を目覚めさせなければならないと痛感するのである。という訳で此発見が現在科学の水準より余りに進み過ぎてゐる為、容易に信じ難いのである。とはいうものの此説こそ不滅の真理である以上、遅速はあらうが必ずや、全人類理解の時の来るのは、さまで遠くはないと思うのである。

茲で後へ戻るが、病の根本である霊の病とは何かといふと、之こそ霊へ発生した曇りであって、之を除去する方法を浄霊といふのである。即ち霊の曇りがなくなれば、体へ映って濁血は浄血となり、最も濃厚な分だけ種々の排泄物となって体外へ出て病は治るのである。そうして濁血の古くなったものが膿であるから、彼の排泄物には膿と濁血と、両者混合のものとの三種あるのもそういう理由である。以上の如く濁血が霊の曇りの原因としたら、一体濁血は何によって作られるかといふと、意外も意外之こそ薬剤であるから、初めて知った人は開いた口が窄(スボマ)らぬであらう。処が今日迄それを知らないが為、薬剤を可いものとして使用して来たのである。然し薬毒は医学でも或程度認めてはゐたが徹底しなかった。即ち医学では自然に排除されるとしてゐた事である。

それに就て次に説明してみるが、本来人間の食物としては五穀、野菜、魚鳥、獣肉等悉くは、人間の嗜好に適するやうに出来てをり、その味を楽しんで食へばそれで必要なだけの栄養が摂れ、生が養はれるので、之が自然である。此点生殖と同様で、子を造る目的ではなく、他の目的によって自然に出来るのである。此様に食うべき物は自ら決ってをり、体内の消化器能もそれだけを完全に処理するやうになってゐるので、他の如何なる物も処理されないのは勿論であるから、薬は異物である以上処理されず、大部分は残って了ふ。而も浄化を停止するだけの強い毒である以上、其毒分は残り血液中に吸収される。之が濁血である。

此理を知って医師も患者も既往を顧みれば必ず分る。此病気は何年前、何十年前に、アノ病気の時服んだアノ薬、アノ注射の為であったと気が付くのである。というのは薬毒の執拗なる容易に解消するものではないからで、此例として私が五十二年前肋膜炎を患った時の薬毒が今も残ってをり、数年前から私自身毎日のやうに溶かしてをり、近頃は大分減ったが、それでも少しはまだ残ってゐる。今一つは三十七年前歯痛の為約一ケ年間、毎日のやうに薬を塗けた為の痛みも今尚残ってをり、之も毎日浄霊してゐる位であるから、薬毒の恐ろしさは到底想像すらつかないものである。此様に薬毒は一生涯の悩みの原因となるばかりか、全部の解消は先づ困難といえよう。此理によって我浄霊法とは薬毒溶解排除の方法であって、現に薬毒が減っただけは快方に向ふにみても判るであらう。

(医学革命の書 昭和二十八年)

病気とは何ぞや

古来、病気なるものは、その原因として、仏説には四大調和の破綻とか仏罰、漢方医学に於ては五臓六腑の不均衡、西洋医学に於ては、ウィルヒョウの細胞衰滅説、コッホの黴菌による伝染説等、幾多の理論学説等あるが、何れもが病気なるものを災厄とし、悪い意味に解せざるものはないのである。然るに私が発見した所によると、右とは全く反対であって、病気とは、造物主が人間に与へた最大な恩恵であって、人間は病気に罹るが為に健康を保持し、長寿を保ち得るのであって、此真諦が判れば、神に感謝せずにはおれないのである。斯の如き事をいへば、世人は狂人と思ふかもしれない。それは、コペルニクスやガリレオの地動説もニュートンの引力説も、狂人扱ひにされたと同じやうに。然し、真理は飽迄真理である。従而、此書を読む方々は、先入的観念をかなぐり捨てて、全くの白紙になって熟読せられたい事である。(医学試稿昭和十四年)

病気の真因

病気といふものを一言にしていへば、『生の為の浄化作用なり』である。元来、人間が健康を保持し、生命を営みゐる条件としては、或程度全身が清浄でなければならないのである。何となれば、血液を初め、新陳代謝の完全に行はれるには、汚濁があってはならないからである。であるから、自然は、飽迄その汚濁を排泄せんとして、浄化作用がおこるのである。そうして、浄化作用の表れが発熱となり、痛みとなり、不快となる。嘔吐、下痢、咳嗽、喀痰、鼻汁、出血等、凡て痛苦は伴ふものである。この浄化作用へ対して、今日迄悪い意味に解釈し、是等痛苦作用緩和又は停止せんとして、発達して来たのが医術を初め、各般の療病法である。従而、言を換へていへば、既存療法は“浄化作用の停止”が目的であって、汚濁の排泄をとどめんとするものである。その最も世人の熟知せる事実は“病気を固める”といふ言葉-、それは汚濁の排泄を留め、固結せしめる方法である。再発とは、右の如く一旦固結した汚濁-即ち病毒は、再び浄化作用発現によって、病的症状を呈する-それをいふのである。之に就ての実際と理論を次に述べる事にする。(医学試稿 昭和十四年)

病気の根本原因と真の治療

抑々、病気の根本原因とは何か。それは、一言にして言へば精霊の曇である。本来、人体は精霊と肉体から成立ってゐるのであって、肉体ばかりであるならば、それは単に物質でしかないのである。
そうして、精霊の中心に支配者としての魂がある。其魂こそ実に生命其ものであるから、生命を演繹したものが精霊である、とも言へるのである。そうして、精霊を物質化したものが肉体である。従而、肉体を動かす場合、生命である魂が意志を生じ、間髪を容れず精霊を動かし、又、間髪を容れず肉体を動かすのである。別言すれば、生命即魂であり、魂即精霊であり、精霊即肉体である。猶今一歩約めて言へば、生命即肉体であり肉体即生命である。
故に、肉体の毀損が生命の断絶となり、生命の断絶が肉体の死となるのである。此理に由って、肉体と魂との中間体の存在である両者の媒介者としてのそれが精霊である。
故に、病気の根元は魂其ものから出発するのである。然し乍ら、先づ病原を二大別する事が出来る。一は外部的即ち肉体から病原を作る事もある。それは例へば、飲酒、不純な性的行為、服薬、注射、種痘、肉食過度等であって、今日迄の病原としての解釈は、此肉体的方面ばかりである。(尤も右の中、服薬、注射、肉食等は、現代医学の解釈に於ては可とするが、本療法にては不可とする)
故に、治療の研究も、此肉体的方面のみを主としてゐる事それが誤謬である。実は真の病原は魂にあって、肉体は従であるのが真相である。何となれば、肉体はそれ自身に発言権も、命令権もないので、一切は魂の命ずるままに動いてゐるからである。謂はば、魂の衣である。人間が其衣服を着用する場合、意志のままにするのと等しいのである。従而、衣服が余りに毀損し、余りに汚醜した場合脱却するのが普通である。それと同じで、肉体が余りに毀損して、使用に堪へない場合、魂はそれを脱却して霊界へ赴く。それを称して死といふのである。
此理によって、病気が先づ魂に発生する場合、それは魂の全体、又は一部に曇を生ずるのである。それが精霊に移写し、又、それが肉体へ移写する。其場合精霊の曇は、血液の溷濁となり、それが膿汁と化するのである。其膿汁が滞溜し、固結する。それの排除作用が、肉体的に言へば病気と称するのである。故に病気を治癒する真の方法としては、精霊の曇を払拭する、それ以外には絶対に無いのである。故に、曇の残存する以上、肉体の方を如何に治癒しても、再発するのは当然である。医療に於る再発の多いのは、此理に由るからである。
本療法は、神秘光波によって、此曇を拭払する。それが為即時浄血し、即時痛みは去るのである。其際誰しも奇蹟とするが、決して奇蹟でも不思議でもなく、右の如く洵に合理的方法である。
斯の如く、一切の病原は肉体からと魂からの両方面である。然し、茲に自然法則を知らなくてはならない。それは物質は凡て無形の霊に支配されるといふ事である。それ故、肉体的原因に由る疾患と雖も、精霊の浄化にあらざれば根治しないのである。又、別の意味から言っても、肉体的病原を作る其根原は結局魂にあるのであるから、魂とそれによる精霊の正純化こそ、実に病気治療の原則であって、それ以外真の治療法は無いといふ事を、断言し得らるるのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気の原因と罪穢

病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、其汚血と水膿は精霊の曇の移写であるといふ事は、既に述べた通りであるが、然らば、其曇は何れから発生流転して来たかといふと、それが罪穢なのである。而して、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。
先づ第一の祖先の罪穢を、悉しく述べてみよう。今、現在生きてゐる吾々個人は、突然と涌いた処の、何れにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、其尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言へば、親と子を繋ぐ楔子(クサビ)でもある。
祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、輒(スナワ)ち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。
人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体といふ衣を脱ぎ棄てるのである。人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属してゐるものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。そうして、霊界に於て再び現世に出生する準備をしなければならない事になってゐる。其準備とは浄霊作用である。然るに大部分の人間は、生存中に於る罪の行為に由る穢が相当に多いので、霊界に於ての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、其際罪穢の浄化による、残渣とも言ふべき霊的汚素が、現世に生を営みつつある其子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するといふ、一種の因果律的贖罪法である。之は万物構成に於る主神の神律である以上、如何ともし難いものであって、人間は之に服従する以外、何事も出来得ないのである。それは此霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、其汚素が人間の精霊に入るや、忽ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。之が凡ゆる病原となるのである。
第二の個人の罪穢を説いてみるが、之は誰しもよく判るのである。如何なる人間と雖も、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくといふ事は、出来得べからざる事である。然し罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。亦行為に表はれる肉体的の罪もあり、心で思ふ丈の精神的罪悪もある。基督が曰った、女を見て妙な心を起した丈でも、姦淫の罪を犯す事になるといふ戒めは、厳し過ぎるとは思ふが、間違ってはゐないのである。斯様に、縦令、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやり度いとか、姦淫したいとか想ふのは、誰しも罪とは思はない程の微細な事ではあるが、是等も長い間積り積れば、相当なものになるのである。又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、兎に角優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。之等も其恨に依って一種の罪となるのである。又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違へるとか、嘘言を吐くとか、いふ様な事も不知不識侵す一種の罪である。斯の様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。然し、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであらふと思ふが、決してそうではない。すべて人間は、親の膝下(シッカ)を離れて、一本立になれば兎も角、親によって養はれてる間は、親の罪穢も分担する事になってゐるのである。恰度、樹木に例えてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、其又枝が孫である。幹である処の親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。
此後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(ミ)よふ。人の眼を晦(クラ)ました結果、盲になった二つの例がある。以前浅草の千束町に、経銀といふ表具師の名人があった。彼は贋物を作るのに天才的技術を有ってをり、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。今一つは、矢張浅草の花川戸に花亀といふ道具屋があって、或年静岡地方の某寺の住職が、其寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。処が、失敗して帰郷の旅費に困り、其御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。其後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払って了ったので、彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。そこで其僧侶は進退谷り、遂に花亀の軒下で首を縊って死んで了った。処が、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、其後トントン拍子に成功して、其頃数万の財産家になったのであるが、晩年に至って盲目となり、而も、其跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、終には見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれ乍ら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、其謂れを父から聞かされたのであった。之は全く僧侶の怨念が祟ったのに違ひはないのである。今一つは親の罪が子に酬った話であるが、それは以前私が傭ってゐた十七、八の下女であるが、此女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊いてみた所が、以前奉公してゐた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。猶訊いて試ると、其下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、其贋玉を高く売附けられた人の怨みが大変なものであったらふと思ふ。全く其罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。而も其女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたらふにと、惜しくも思ったのであった。今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。十日以上も治療したが、なかなか良くならない。不思議に思って、其老人の信仰を訊いてみた処、○○様を廿年以上も信仰してゐると言ふのである。そこで私は其為であるから、それを拝むのを罷(ヤ)めさしたのであった。処が拝むのを罷めた日から、少し宛良くなって、一週間程で全快したのであったが、之に似た話は時々あるのである。正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでゐると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、之は全く間違った神仏を拝んだ、其罪に因るものである。
是等の例によって察るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、病気や災難で苦しみつつある人は、此後天的罪穢をよくよく省みて過ってゐる事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。今一つは別項種痘の記事にある如く、陰性化せる天然痘の毒素である。故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、此三つが主なるものであると思えば、間違ひないのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)