秋田県 Y.N
明主様お助け頂きまして有難うございました。私は半年は雪に埋もれた田舎町の鉱山に勤務致して居ります。昭和二五年一月入信させて頂き、いろいろ御守護の数々に安心した毎日を送らせて頂いて居ります。
朝の出勤がこの世の別れで、夕方の帰宅が再会の喜びという常に生死の境に生活する私共でございますが、おかげ様とその心配もなく働かせて頂いて居ります。又鉱山特有の珪肺と言う恐ろしい不治の病の心配さえもないのでございます。昨年もたしかに春でした。或る日出勤が五分後れた為に落盤の下敷きから救われました。私が後れた為に私の代りに行った人を始め、そこへ行った人々は全部やられてしまいました。その日に限ってなぜ後れたか考えてもわかりません。自分でも不思議に思って居ります。これこそ御守護にほかならぬと思います。「知らぬ間に救われにけり……」何と申しましょうか神力の偉大さを讃える言葉を知りません。
この度又大変な御守護を頂きましたが、どうも気持の万分の一も現わせないのが残念でございます。ありのままを申し上げさせて頂きます。
去る一月二九日午前一〇時頃でした。坑内作業中でした。下図の如く丸太が落ちているのを修理しようとして、若い助手一名をつれて上りました。助手が落ちた丸太の上の鉱石のクズを自分の足元へ掻き寄せた為に私の足元が崩れ「アッ」という間に落ちてしまいました。「アッ落ちた」と思う次の瞬間「助かった」と思いました。それは二〇尺下にたった一本横に入れてある丸太に左手がひっかかってぶらさがっているのです。が次の瞬間、一難去って又一難で、丸太が太い為に折角ひっかかった左の手がだんだん体の重味ではずれてゆくではありませんか。「アッ又落ちるのか竪坑はまだ七、十尺ある、だめだ」 真暗な中で何もわかりません。一秒の何分の一の時間です。夢中で足を泳がせました処、何やらに足がひっかかりました時、既に手がはずれてしまいましたが足をひっかけ、手がはずれると同時にようやく何やらにかじり付きました。それは通路へ通じる様子でした。すべては一瞬の出来事でした。やっと横ばいに通路に出ました。それまでは何も考える事が出来ませんでした。動悸は物凄く早鐘の様でした。ああ御守護だ、お助け頂いたのだと思えば、何とも言えない気持に打たれ、唯々有難いばかりでした。救われた喜びに世の一切を忘れて感激にひたりました。
暫くして頭に付けて居りましたライトをはずして見ますと、めったに割れる事のないライトのベークライトに大きな穴があいて居りました。これを見てぞっとしました。考えて見ま すとぶら下って居りましたわずかの時間ですが、鉱石クズが雨の如く落ちて頭や体にあたったのでありました。ライトには相当大きいのが当ったかと思います。もしこれが二、三寸の差で頭へ当ったらどうなったかわかりません。
巾三〇尺の間にたった一本あった丸太に左手がどうしてひっかかったでしょう。どう考えてもわからないのです。この時もしそのまま落ちれば命は絶対になかったと思います。一秒の何分の一の速さでお助け下さいました。なんと書いたらよいでしょうか、ペンが走りません。
明主様どうかお許し下さい、有難うございました。早速教会へ御守護の御礼にお参りさせて頂きました。有難うございました。
二度までも命の危機を救って頂きまして信仰の有難さをしみじみと感じさせられました。信仰の尊さは名誉、地位、財産では得られないものであり、唯一つ一つ御教え通り体験してゆく以外に幸福になる道はないと思います。私は本当に世界一の宝物を神様から頂いて居ります事を唯一の誇りとして乱筆乱文も省みず、嬉しさのあまり一筆御礼と御報告をかねましてペンを執らせて頂きました。
(昭和二七年三月二五日)
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福岡県 S・M
人生僅か五十年といいますが、五〇年にしろ仮令一〇年にしろ、人の一生の中には「なやみ」がございます。子供には子供としての「なやみ」があり、大人には大人としての「な やみ」がありましょう。この「なやみ」を幾らかでも少くし、その日その日を明朗な気持で過すことが出来る人、これこそ本当に幸福な人と言うべきだと思います。
人は誰しも心配事が生じた時、誰にともなく頼りたくなるものでございます。これは人間の弱さでもあり、こんな時こそ信仰の偉大さをつくづく感ぜられるものでございます。信仰に依って救われる・・・・・・これは実に綺麗な生き方でもあり、信仰こそ幸福の第一歩を摑み得たと同じだと思います。
もともと私は信仰の道に入るなんて夢にも考えていませんでした。最初すすめられるままに何心なく、何と言いますか、只、漠然とした気持単なる好奇心、といった軽い気持で入信しました。端的に申しまして、御守護を頂いてみたい ……………と言った方が正直な言い方かも知れません。暫くは何のこれと言った反映もなく、特筆すべき程の事も起りませんでした。最も時に触れ事に従い、何事にも手を翳してみました。ところが時日の進むに従い、不思議な事ばかり起りました。科学的な固い頭の父の口からも「それは不思議だ」と言う声さえ聞く様になりました。
病気に就いては多くの人々の体験談ですでに立証されてはいますが、お医者、鍼、灸でさえ見放された、長年の母の顔面麻痺神経がいつの間にか恢復し、私自身の急性盲腸炎も手を翳して治り、その他詳細書くまでもなく入信以来、全家族医者にかからなくて済む様になりました。それだけでもその御威光の偉大さを深く感謝していますが、忘れも致しません或る日の出来事です。「奇蹟」これこそ本当の「奇蹟」といえましょう。実に不思議な事が生じたのでございます。
私は郵便局に勤めていますが、私の担当課「保険」に今度新しい金庫が参りました。私は何気なしに鍵を掛けたり、開けたりしているうち、何うした加減か、ふと開かなくなりました。何うしても開きません。さあ大変な事になったと、私は懸命に開けようと努力しましたがやはり開きません。だんだん心配になってきました。近所に居合せた男の局員の人々にも応援を頼みましたが、依然として開きそうにありません。私は愈々心配が深まり、どうしよう……泣き出したくなりました。男の局員も入代り立代り色々と扱ってみましたが矢張頑として開きません。「仕方がない、壊すより外ないでしょう」と皆さんがいいます。今着いたばかりの金庫を壊すとは……私の責任上もう居ても立ってもいられません。局長さんに詫びようか? 弁償……次々と私の頭は混乱し、その時の気持は何に譬えようもなく、全く生きた心地とてもなく、心配で心配で不甲斐なくも悩みつづけながら走って家に帰りました。その晩は勿論なかなか眠れませんでした。一晩中どうしょうか?……こうしようかと心配し続けて、とうとう夜が明けました。元気もなく沈みながら足どりも鈍く出勤はしたものの、気が気でないので局に着くが早いか、今一度一生懸命開け様と努めてみました。矢張り駄目だ・・・・・・愈々観念の眼を閉ず、仕方ない、潔く局長さんに詫びよう、そして責任をとろう……と行きかけたとき、さっと心に閃きを感じました。昨日から今が今まで気が付かなかった。
「そうだ!」最後の頼み! 手を翳してみよう。そう思った途端、無我夢中で御守護を賜わりますよう……開くように……助けて・・・・・・と幾度か心に念じつつ、二分間位も一生懸命 手を翳しましたでしょうか。そしてこれでも駄目なら、と心に決して鍵を廻せば、実に不思議、昨日から数人の人々がどうしても開け得なかったこの金庫が、ガチャンという音と共にさっと開いたではありませんか。私は暫く茫然自失今開いたばかりの金庫を眺めるのみでした。鳴呼何と御威光の偉大なる事でしょう。
有難さは身に沁みとめどもなく感謝の涙は頬を伝わりました。そうだ一刻も早く母を安心させ様、私は我が身を忘れ嬉しさの余り飛んで家に着くが早いか「開いた」「開いた」「手を翳して」……と連呼しながら。
遠く遥か東の方に向い、御明主様に手を合わせて感謝暫し止みませんでした。全く浅薄な人智にては神力の偉大さは到底体験者でなくては分らない事を痛感し、今後益々地上天国建設に出来る限りの御用をさして頂きとう存じます。
(昭和二六年一〇月三〇日)
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富山県 F.Y
昭和二四年九月二二日正午頃、日頃本教に反対の群である学校長及び教官等三二名が吊橋から真逆様に落下し、濁流に呑まれた惨事を御報告申し上げます。
大の男が三三名も一度に通れば五〇〇貫にもなって重いには違いないが、御気の毒と思うと共に何か考えさせられるものが湧くのであります。
以下はN町の紡績工場に勤務、寮理事の役を持たれ、本教に熱心に御用されているD中教会のMさんから、S町B氏宅で光明如来様の御祭の際、御話して頂いたものであります。
婦負郡のH町にはG中教会の支部がありますので、一般は本数をよく知っている訳であります。
同教官諸公は学校でも常日頃生徒一同を講堂に集めて逆の宣伝して、「この土地に観音教(救世教以前の名称)という信仰が広がっていて、怪しげな事をして、人の病気を治すといっている。人間はあんな迷信にとらわれて非科学的な事で病気を治すものではありません。どこまでも科学的に、衛生学や、栄養学の知識でもって自分の身体を大切にし、お医者の仰言る事をよく守って健全な療養をしなければなりません。邪教を迷信しているのは恐ろしい事です。社会人心の混迷に乗じて信じさせられるから充分注意して、絶対にそんなものを信仰しないように、皆さんが家に帰ったらお父さんや、お母さんによくお話なさい」という調子で訓示をやり、本教に対し真向から否定した訳であります。
それが為この地区では非常に本教を警戒し、信徒も六、七十名程度であるし、又、紡績工場内でも女工二〇〇〇名の内、信徒は僅か五、六名という状態なのであります。十七、八歳の織姫にしろ一般の人達にしろ、かかる先入観による警戒が影響したものと見られます。
それから遭難のあった前に、この吊橋を農業会のダットサンが脱穀機を満載して通行したり、敷島紡績工場のキャンプ隊三〇名が重い荷を背負って、この吊橋を前日夕暮の出発の際と、二二日朝五時過ぎの帰りと往復しています。一時に一○○名も渡れるように設計が出来ていたのですが、教育者だけが落ちるとは余りにも不思議と思われます。
実は本県南部のH区域中、右教官一行は当日午前中に婦負郡A村T小学校で郷土社会学研究会を終り、午後は対岸に渡って断層、背斜向斜の実地見学をなさんものと記念写真まで撮って、午後零時四〇分頃、C峡の新しい吊橋(巾二米、長さ一四〇米)にさしかかった際、吊橋は突然バリバリと大音響を発し、橋諸共に一行は雪崩をうって真逆様に一七〇尺下の巖石重畳たるC川急流に吸い込まれました。現場は折からの増水で濁流いよいよ逆巻き、救出甚だ困難を極め、死亡二〇名(男一九名、女一名)行方不明九名、重傷二名、軽傷二名という惨憺たる光景に一変したのであります。学校長始め遭難者二〇名(死亡一五名、行方不明三名、重傷二名)と言われ、その家族は勿論のこと、教え子や一般各方面に惜しまれたり、教育道の本懐と謳われたりしています。これに付随して請負者、設計者の業務上過死容疑で逮捕、並びに工事完了検査前の渡橋禁止札の責任なすり合い、工事費補助打切の話で、工事者側への床払金に、頭を悩ます村側、労災補償費千数百万円の捻出に腰を抜かす県当局、一八日行った仮検査は事実上の正式検査で、二六日になすべき県認定検査は補助金請求の為の形式的のものであるとか何とか、全く近来流行のテンヤワンヤでありました。日頃うんと誹謗したH町では、一三名の殉職者を出しているのでありまして、G中教会々長I先生宅の両隣が校長で、それが今度二人共濁流に吞まれてしまったそうです。
本教を非科学的視して固く妨害し、神霊の厳存を敢えて認めず、人をして滅びゆく運命に追い込み、毫も省みる事ない唯物教育者の受くべき審判とさえ言う人もあります。
この悲惨事に対し、吾々は何かはっきり教えられたような気が致します。
私達は一層の敬虔な心をもって、神の御旨に副わねばならないと心を新にいたすのであります。
(昭和二四年一〇月二五日)
(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)