著述編

栄光

糞の弁

糞の弁とは、詰めれば糞便と言ふ事になる。日本人は昔から、糞を田圃にまいて稲に吸はせ、其稲が吸った糞便を、又人間が吸ふのであるから、謂はば人間といふ万物の霊長は、糞溜といってもよからう。だから人間の体に虫が湧くのは当り前だ。赤ン坊によく湧く蟯...
栄光

正愛と邪愛

信仰は愛なりとは、よく言はれる言葉だが単に愛といっても色々ある。正なる愛、邪なる愛、大なる愛、小なる愛というやうに、多種多様である。此様な訳であるから、信仰者は愛に対しても正しい認識を失ってはならない。先づ、其例を挙げてみるが、正愛に属する...
栄光

迷信の定義

迷信の定義などとは、今日迄余り言はれない言葉だが、実は迷信にも定義があるのだから面白い。迷信でないものを迷信とみるのも一種の迷信である。善いと思ってする事が悪い結果になるのも迷信の為である。効かない薬を効くと思って服むのも、それを人に勧める...
栄光

新人たれ

人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思はれたり、旧人扱ひされたりする。成程在来の宗教信者は、そういふ傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否...
栄光

どちらが迷信だ

一口に迷信といふと、どうも宗教に附物のやうに思はれるが、実は迷信は宗教には限らない、如何なるものにも迷信はある。唯気が付かないだけである。勿論科学にも、政治にも、哲学、教育、芸術にも悉く迷信がある。否迷信が多すぎて困る位だ。之等幾多の迷信に...
栄光

天国は芸術の世界

私は常に天国は芸術の世界なりといふが、単に之だけでは余りに概念的である。成程美術、文学、芸能等が充実する事も、右の通りで大いに結構ではあるが、本当からいふと凡ゆる芸術が揃はなくてはならない。否芸術化されなければ真の天国とは言えないのである。...
栄光

祝詞

掛巻も、綾に尊くいと高き、五六七大御神の御前に、謹しみ敬(イヤマ)ひも白すらく、昭和二(フタ)廻り五歳(イツトセ)の、秋の佳(ヨ)き日の足(タ)る日を、選(エラ)み定めて予てより、深き経綸(シグミ)の大御心に、天国此土に写しまさんと、その...
栄光

展覧会を観て(下)

次の二科会を観て唖然とした。私の頭脳は憤慨と悲観と惑乱でゴチャゴチャになってしまった。美を追究するどころではない、美などはありはしない、只醜のみだ、観るのさへ私は苦しい。此暑いのに遠い処まで来て苦しむとは何の因果か、画を観て憤激するとは世に...
栄光

栄光71~80号

■栄光七十一号 昭和二十五年九月二十七日 ・展覧会を観て(下) ■栄光七十二号 昭和二十五年十月四日 ・祝詞 ・天国は芸術の世界 ■栄光七十三号 昭和二十五年十月十一日 ・どちらが迷信だ ・新人たれ ■栄光七十四号 昭和二十五年十月十八日 ...
栄光

私の目をひいた絵

唯今度の院展で兎も角私の目をひいた絵が一つあった。それは小倉遊亀女の瓶花の図である。ガーデニヤの八重三輪を眼目とし、呉須赤絵の瓶にさし、二三の他の花を遇った、そのポーズも色彩も賞めてよかろう。特に余白を淡墨でぼかし、静物を引立たせた意図は心...