阿呆文学(五) 貧乏追放

偖て、熟々と世の中を、見れば見る程ヤレ金詰り、ヤレ税金ヤレ足りないと、泣言ばかりの意気地なさ、先ず考えても見るがいい、昔からお足といって、お金には足が生えているんだから、気を弛したら逃げちまう。だから確かり財布の紐を、結んでおくより仕方ない。だが待てよ、稼ぐに追付く貧乏なしと、言うじゃないかとぬかすだろうが、それは昔の奴の世迷言、そんな生やさしい話じゃ追っ付かぬ。いくら稼げど稼げど貧乏神、追付き過ぎて足元に、絡みついてて離れない、と来ているんだからやりきれぬ。処がだ、馬鹿の一つ覚えのように又しても苦しい元は税金や、金詰りという奴だと、無暗に罪をナスリつけ見当違いの的外れに、御気が付かない明盲、よくよく考えてみるがいい、今の世の中で、一家揃って一年中、病気のないという家は、唯の一軒もありますまい。少し人数の多い家と来りゃ一人や二人の病人のない御家庭は、金と太鼓で探したとても御座んすまい。それだけならばまだいいが少々運の悪いのは、入院手術と来るんだから、やりきれぬ処かうっかりすると、彼の世とやらへ旅立と、くるんだからオッカナイ。散々パラお医者さんへ、いれあげ奉った其揚句葬式万端の払いから、お寺様への附届け、ヤレ法事だ、ヤレ御供養だ、などと金の要る事夥しい。長年掛って溜めといた、虎の子同様の貯金帳、残り少なの心細さ、斯んな訳だとしたならば、二三人も次々と、彼の世行となったなら、愈々以て大事だ。先祖代々の身上も、吹ッ飛んで了うのは知れた事、考えりゃ考える程、テモ恐ろしい世の中じゃ、之が本当の貧乏の、原因なんで御座んする。そこへ誰方も気が付かぬ明盲とは情ない。相も変らぬ懐の、御寒い御仁がそこら中、ウヨウヨしてる有様は見てはおれない拙者で御座る。只生きているだけの名ばかりの人間様が、愚痴や不平の言い続け、何処も同じ秋の夕暮。

そこで先ず、阿呆の拙者正直に、言ってみたなら斯様で御座る。右の通り凡そ見当違いの事ばかり、何でも悪い事柄は、みんなお上の所為(セイ)にする、自分の意気地なしを棚に上げ、文句タラタラ役人へ、打っつけるんだから堪らない。人民共を見下して、フンゾリ返って威張ってるお偉方でもこりゃならぬと、頭痛鉢巻の体タラク、洵に以てお気の毒と、大いに同情してあげるんだから、何と阿呆という奴は、感心なものじゃによって、之から阿呆の税金は、負けてやってもよかろうと、仰言る事はマァー御座んすまい。右の通りに貧乏の、元はと言えば、病い神だとしたならば何よりも、病気を退治しない限り、貧乏という化女に可愛がられて、金輪際離れっこないんだから、堪らない。だから有難いメシヤ教に、願えば変な化物は、早速、逃げて了うから、貧乏嫌いのお方なら、何を措いても早速に、メシヤ教へと御出でなされ。

処が今の人間と来ちゃ、病気は医者と薬より、外に治すものはないと、決めて了ってる安本丹、貧乏は税金が高い為、女は嫉妬を焼くもので、親父はイヤに威張るもの、アプレゲールは親不孝、新宗教はインチキで、御役人は賄賂とるもの、若い女優は裸を見せるものと、天から決めて了うんだから、何と始末の悪い世じゃ、という訳だから倖せになりたいお方なら、思い切って、物は試しと本教へ、入ったならば案の定、身体はピンピン若返り、年が年中薬要らずの無駄な金、一銭も出さない結構さ、懐具合はいつも満点、御札は溜り放題で、おまけに大黒様と来りゃ、普段から奉ってくれる御褒美と、木槌振り振り打出すは、小判ザクザク、オットドッコイ、札束バラバラ振らすは勿論で、ずっしり重たそうな大袋には、ありと凡ゆる宝物、運んで下さる有難さ、斯うなりゃ誰方も不足など、爪の垢程も申すまい。之が本当の彌勒の世、七福神の楽遊び、などと阿呆の一人よがり、太平楽を並べ立て此世智辛い世の中を、知らぬが仏の呑気者、などと言おうが言うまいが、それはそちらの御勝手次第、之でお終い左様奈良。

(栄九十三号 昭和二十六年二月二十八日)