此論文は、頗る重要なもので、発表にはまだ尚早の感があるが、思い切ってかいたのである。
先づ、理在戦われつつある、南北朝鮮の戦争であるが、御承知の如く北鮮軍が最初破竹の勢いを以て驀進南進し、遂に釜山に迄追詰め、南朝鮮今や危うからんとした時、米軍援助の下に忽ち押返して、三十八度線を苦もなく突破し、今や満州国境に迫らんとする一刹那、忽然として現われたのが、彼の中共軍の大部隊である。何しろ兵隊の数からいっても桁違いである以上、残念乍ら逆に捲土重来的に押返されて、遂に最初のような形になって了ったので、全く最初の勝利は無駄となった訳である。然し又々マ元帥の深謀遠慮の策戦効を奏し連合軍の重圧は、流石の共産軍の人海戦術も破綻の余儀なきに到り、今や京城危うしと共に、結局三十八度線内に、撤退するのやむなきに至るであろう。
右は表面に現われた戦局の様相であるが、之を霊的にみるとしたら、どういう訳になるかをかいてみるが、私は常に万有は霊主体従の法則に支配されるという事を唱えているが、それが右の戦争にもよく現われている。というのは方角からいうと東と北が霊であり、西と南が体であるから、南西から北東に向って進む事は逆になり、風に向って船を進めるようなもので、非常に骨が折れるばかりか、どうしても一旦押返えされる危険がある。だから私は最初の頃、米軍は朝鮮の最も北東の地点へ、日本海を通って上陸作戦をしなければ、勝てないといった事があるが、果して其通りになったのである。
之を二三の例をとってみるが、第二次欧州戦争の時もモスコー迄攻込んで、今一息という時、独軍は遂に後退のやむなきに至ったばかりか、伯林(ベルリン)へ先に侵入したのもソ聯軍であった。又ナポレオンもそれと同じ運命を辿った。其他米国の南北戦争にしても北軍が勝ったし、日本の南北朝の争いもそうであったが、然し例外もあるにはある。それは正邪の場合に限るので、此例は日露戦争が示しているが之は稀である。茲で私は次の事をかいてみたい。
私の生れは東京の浅草橋場という処である。日本の東は東京で東京の東は浅草で浅草の東は右の橋場で、其先は隅田川であるから此処が東京の最東端である。処が私は五、六歳の時から、西へ西へと移って往った。先ず最初之も浅草区の千束町へそれから日本橋区浪花町へ、次は京橋区木挽町へ、次は大森、それから麹町へ半年ばかり居て、今度は玉川の今の宝山荘へ移った。此処は東京の西端である。此処に一番長く居て、それから箱根と熱海へ同時頃移った。熱海へ来てからも、初め熱海の東端東山へ住み、次で真中辺の清水町へ移り、今の水口町の住居に移ったので、此処は熱海の西端である。以上のように私は生れた早々から東から西へ西へと向って段々移って行った。丸で太陽みたいだ。私の目的は昼の世界を作るにあるのだから、そうなるのも因縁といえよう。
茲で、一寸気の付かない面白い事がある。それは今日迄の日本は、文化も、宗教も、思想も、悉く西興東遷であった。外国は別としてみても、仏教でも神道でも悉く西に発生し東に移行している。只独り日蓮宗だけが東に興ったのみである。之も面白いのは元来仏教は月の教であるが、最後に到って只一つ日の教が現われたのである。之は日だから東から出たのが当然であろう。上人が安房の清澄山上朝日に向って、南無妙法蓮華経を唱え、其時から法華経の弘通に取り掛ったのも、意味ある事である。それ以外の宗教としては、独り我メシヤ教のみであってみれば、本教の将来は想像に難くはあるまい。
(栄九十二号 昭和二十六年二月二十一日)