立教後、ご神業は急速に進展しつつも、激動の昭和の時代にあって官憲の圧迫や戦争の勃発等が起こり、その影響の中で明主様は雌伏十年の年月を様々な苦難を乗り越えながら神業一途に歩まれるのです。そして戦後、信教の自由となり、ご神業は大発展の時期を迎えます。そして、昭和二十五年には、明主様の腹中にある光の玉に、ご経綸上重大な変化が訪れるのです。それは千葉県、鋸山にて天啓を受けた時と同じ月日の六月十五日のことでした。
当時、贈賄容疑が発端となって官憲の手が明主様にまで及び法難を受けられました。明主様が警察署に勾留されている時に、誰もいない留置場で、最高最貴の神様の御魂が腹中にある光の玉に宿るという神事が行われました。全く神秘としか言いようがありませんが、明主様の腹中にある光の玉に最高最貴の神様が宿ったのです。この時を契機として明主様は、歴史上誰ひとりとして到達したことのない『神人合一』の境地に立たれるのです。
『ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、頗る神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴の○○○○○の神様であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである』
(地上天国誌五七号「神様と私との関係」より)
『よく昔から神人合一という言葉があるが、実際からいってそういう人は、今迄に一人もなかったと私は思っている。成程釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者にしても、神人合一の如く見ゆるが、実は神意の伝達者であって、判り易く言えば神の取次者であったのである。(中略)即ち神の取次者は神憑りや、神の命によって行動するのであるから常に神や仏陀を祈り、其の守護を仰ぐ事にしているのである。処が私はそういう事は全然やらない。信者も知る如く、神を祈る事もないし、神の指示を仰ぐ事もない。只自分の思うがままを実行していればいい訳で、甚だ簡単である。としたら今迄に例のない事とて、変に思うかも知れないから、茲に差支えない点だけをかいてみよう。いつも言う通り私の腹には光の玉がある。之は或最高の神様の魂であるから私の言動凡ては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。つまり神と人との区別がない訳で、之が真の神人合一なのである。従って私に在られます神霊は、最高の神位であるから、之以上の神様は世の中にないのであるから、他の神様に頭を下げる意味はないので、何よりも信者が日日顕わしている奇蹟がそれを証拠立てている。其奇蹟たるやキリストの顕わした奇蹟以上の奇蹟が、常に顕われているので、私の弟子でもキリストに較べて何等劣る処はないのであるから、此一事だけでも私の神格は想像つく筈である』
(東方之光 上巻「神人合一」より)
大変神秘なことですが、その最高最貴の神様がお宿りになっている光の玉というのは、日と共に成長し、拡大し、充実するに相応して、総論一(I)第二章で学んだような世界の大転換が起きてくるのです。それはすなわち明主様の経綸が時と共に進展していくということを意味しています。
『私のお腹にある光の玉は大分大きくなってます。ドンドン大きくなりつつありますが、これが世界的に大きくなった時がミロクの世です。そこまで大きくならないうちに、いけない者は片付いて行くわけです。まだ今のところの大きさは、この会場(日光殿)くらいの大きさですが、これがドンドン大きくなって行きます。という事は火素が増し浄化が本当に強くなるという事です』
(「明主様に求める信仰4」より)
『何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである、之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである、従而、観世音菩薩の御働きも救世主のそれとなるのは勿論である。即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである』
(開教の辞「世界救世教の誕生に就いて」より)