第二節、自然良能力について

 大自然の活動の基本的力の根源となっている火素、水素、土素を吸収し、生かされている人間の人体の生理作用については次のように言われています。


『人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき人間自体の大活動が起るのである。それは自家製造の薬が出来るのである。人間の肉体は元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、病気という不純物が侵入するや否や、肉体的に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。それは素晴しい薬や器械であって、実によく治すのである。毒な物を食えば早速体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。悪い黴菌が飛込めば熱という大殺菌作用の治療法が行われ、又、物に中毒をすれば内臓へ入れまいと外部へ押出して皮膚に赤く斑点を現わし、痒みと熱を以て消失せしめ、又中毒によっては腎臓の大活動となり、水分で洗い、小便に依って排泄せしめ、塵埃を多量に吸えば痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである』
                        (神示の健康「自然療法」より)

 明主様はこうした自然生理作用を『自然良能力』と呼び、これを無視してはならない、人体に備わっている大自然の働きをよく理解して尊重していかねばならないと説いています。『人間は自然良能力という医療も及ばない程の素晴しい治病力を天から与えられている』ことを自覚する必要があります。どんな人間でも必ず相当量の毒素を保有しており、自然良能力の結果、熱や咳、痰、鼻汁、汗、下痢、痛み、痒み等の苦痛が現れますが、しかしそれによって汚物は体内から出るだけ出て浄化され、以前よりも綺麗になるのです。大自然の法則に則った「日本医術・浄霊」は、この自然良能力をより強化し、浄化をより促進させる方法であり、最も合理的なものなのです。“病気とは、本来浄化作用であり、人間の健康を回復させるため、神から与えられた最高の贈り物である”と説いている意味はここにあります。こうした明主様の病理論は独自の生命観に基づいたものであり、病苦にあえぐ人類にとって、起死回生の救いであると言えます。

『愈々之から病気に就ての一切を解説する順序となったが、抑々病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中溌剌たる元気を以て活動が出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は膿化した不潔物である』          (文明の創造 科学篇「病気とは何ぞや」より)


『人間の罪が魂の穢れとなり、それが心を介して霊の曇りとなり、それの浄化が病気であるとしたら、其曇りを解消する以外、病を治す方法のあり得ない事は余りにも明かである。処が西洋に於てはヒポクラテス、東洋に於ては彼の神農氏が、病人に薬剤又は薬草を服ますと、一時的苦痛が緩和されるので、之を可として医術の始祖となったのであるから、此時から既に誤謬は発生した訳である。成程薬を用いれば一時的苦痛が減るので、之こそ病を治すべき方法と、単純に考えたもので、其時代の人智の程度としては無理もなかったのである。それが現在迄続けて来たのであるから、今迄の人間の迷蒙さは不思議としか思えないのである。』       (文明の創造 科学篇 「薬毒の害」より)

 このように薬毒の害についても徹底して解明され、病気を治すはずの薬が、実は新たな病気をつくるもとであることを明らかにしています。この薬毒の意味するものは反自然的な異物、有毒物をさし、いったん体内に入った場合には、排泄されずに残存して病原となるものです。私達の身近な例としては、最近その有害性が大きな社会問題となっている合成着色料、合成保存料、酸化防止剤等の食品添加物や農薬、化学肥料等々も、この異物としてとられることができます。人間よりも世代交替の早い猿の奇形の例にみましても、その害の恐ろしさには驚嘆するばかりです。様々な病気が発生している現状に対してはよくよく目を向けなければなりません。