固め方法と溶かす方法

以上の如く現在迄の療法という療法は、悉く固め手段であるから、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事がよく分ったであらう。そうして薬剤以外の方法としては彼の電気、レントゲン、種々の光線療法等、何れも固め方法であり、氷冷、湿布、塗布薬等も同様であるが、只灸点、鍼、吸瓢(スイフクベ)だけは右と異ひ、刺戟によって浄化中の毒素を患部へ誘引し、一時的苦痛緩和を狙ったもので、勿論治るのではないから、灸など毎月というやうに定期的に据えるのは其為である。此様に今日迄の凡ゆる療法は浄化停止であるから、病を治すのではなく、結局治さない方法でしかないのである。

此理によって真の病を治す方法は、右とは反対に固結した毒素を溶かして体外へ排除させる事で、それ以外真の療法はないのである。それを理論と実際とによって、之から詳しく解説してみるが、それに就て前以て知ってをかねばならない事は、人間なるものの実体である。之を医学では一個の物質と見做してゐるが、勿論医学は唯物科学から生れたものである以上、そう見るのも当然であるが、此見方こそ誤謬の根本である。というのは人間が単に物質のみであるとすれば理屈に合はない事になる。何となれば人間には意志想念といふ目にも見へず、手にも触れないものであり乍ら、確かに存在してゐるからで、之ばかりは如何なる科学者と雖も否定は出来ないであらう。とすれば此無なるものが、実は人間を自由自在に操ってゐる本尊様といふ事になる。近来医学でも精神医学といって、精神的に治す方法を試みてゐるが、之が案外奏効するので、漸次関心を持たれて来たといふ話である。してみると医師の中にも、人間は物質のみでない事を認識された訳である。

以上の如く人間は肉体以外見えざる心があり、心を包んでゐるものを私は霊と名付けてゐる。従って霊と肉体との両者併合によって成立ってゐるのが人間である事は余りにも明かである。処が医学は右の如き人間の本体である霊を無視し、体のみを研究して来たのであるから、一方的跛行的であって、言ひ換へれば肝腎な主人公たる魂を無視して、其配下共を対象とした訳である。つまり肉体は外殻で中身ではない。中身とは見へざる霊であるから、之を主としてこそ真の医学は成立つのである。医学が凡ての病原を細胞のみに持ってゆくのもその為である。では何故科学は霊を認めなかったかといふ其原因こそ、霊は肉眼で見へず、機械でも測定出来なかったからである。というのは全く現代科学のレベルが低いにも拘はらず、それに盲目であった為科学を実価以上に信じ、科学で把握出来ないものは一切無と決めて了った。つまり科学過信の結果である。従って将来科学が幾層倍進歩した暁、霊の確認は勿論だが、只それ迄に如何に誤った医学による多数の犠牲者が出るかを想う時、一日も早く此迷盲を目覚めさせなければならないと痛感するのである。という訳で此発見が現在科学の水準より余りに進み過ぎてゐる為、容易に信じ難いのである。とはいうものの此説こそ不滅の真理である以上、遅速はあらうが必ずや、全人類理解の時の来るのは、さまで遠くはないと思うのである。

茲で後へ戻るが、病の根本である霊の病とは何かといふと、之こそ霊へ発生した曇りであって、之を除去する方法を浄霊といふのである。即ち霊の曇りがなくなれば、体へ映って濁血は浄血となり、最も濃厚な分だけ種々の排泄物となって体外へ出て病は治るのである。そうして濁血の古くなったものが膿であるから、彼の排泄物には膿と濁血と、両者混合のものとの三種あるのもそういう理由である。以上の如く濁血が霊の曇りの原因としたら、一体濁血は何によって作られるかといふと、意外も意外之こそ薬剤であるから、初めて知った人は開いた口が窄(スボマ)らぬであらう。処が今日迄それを知らないが為、薬剤を可いものとして使用して来たのである。然し薬毒は医学でも或程度認めてはゐたが徹底しなかった。即ち医学では自然に排除されるとしてゐた事である。

それに就て次に説明してみるが、本来人間の食物としては五穀、野菜、魚鳥、獣肉等悉くは、人間の嗜好に適するやうに出来てをり、その味を楽しんで食へばそれで必要なだけの栄養が摂れ、生が養はれるので、之が自然である。此点生殖と同様で、子を造る目的ではなく、他の目的によって自然に出来るのである。此様に食うべき物は自ら決ってをり、体内の消化器能もそれだけを完全に処理するやうになってゐるので、他の如何なる物も処理されないのは勿論であるから、薬は異物である以上処理されず、大部分は残って了ふ。而も浄化を停止するだけの強い毒である以上、其毒分は残り血液中に吸収される。之が濁血である。

此理を知って医師も患者も既往を顧みれば必ず分る。此病気は何年前、何十年前に、アノ病気の時服んだアノ薬、アノ注射の為であったと気が付くのである。というのは薬毒の執拗なる容易に解消するものではないからで、此例として私が五十二年前肋膜炎を患った時の薬毒が今も残ってをり、数年前から私自身毎日のやうに溶かしてをり、近頃は大分減ったが、それでも少しはまだ残ってゐる。今一つは三十七年前歯痛の為約一ケ年間、毎日のやうに薬を塗けた為の痛みも今尚残ってをり、之も毎日浄霊してゐる位であるから、薬毒の恐ろしさは到底想像すらつかないものである。此様に薬毒は一生涯の悩みの原因となるばかりか、全部の解消は先づ困難といえよう。此理によって我浄霊法とは薬毒溶解排除の方法であって、現に薬毒が減っただけは快方に向ふにみても判るであらう。

(医学革命の書 昭和二十八年)