昭和二十四年三、四月合併号
左の記録は、大先生様が、私達の質問に対し、御解答をお与へ下さいました無数の御垂示の中から抜萃させて戴きましたものでございます。
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“善言讃詞又は祝詞によって救はれた霊で戒名のない場合、非常に僧侶を嫌がるものに対して、戒名をこちらの方で作らして戴く訳にはゆかないでせうか。若しよろしい様でしたらどの様に書いたらよろしいので御座居ませうか。
“霊界には未だ仏界があるから、従来通り、僧侶に御願ひして戒名をつけること。
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“よく霊が現界の事について何年何月何日と申しますが、霊界にも年月日が御座居ませうか。
“霊界には年月日はない。霊がそう言ふのは現界人に解り易くそう云ふのである。
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“臍の緒は、各地方の習慣にて埋めたり焼いたり、又は保管し、母親の死後一緒に処分したり致しますが、正しい処分法を御教へ賜り度く御願ひ申し上げます。
“生年月日と時間まで詳しく書き保存して置き、死と共に一緒に葬るのがよろしい。
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“人間が霊的に向上するに従って正守護神も向上するもので御座居ませうか、又は交替するもので御座居ませうか。
“人間と同じ様には向上しません。又交替もしません。
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“位牌に何々家先祖代々とか代々霊、代々之霊位、代々之精霊とか色々ありますが、何れが一番正しいので御座居ませうか。又過去帳だけで位牌がない家、又は繰位牌の家がありますが如何でございませうか。
“何れも大して問題はないが、常識的に云へば代々之霊位がよい。過去帳は元来祖先の戒名や命日を忘れぬ為に記録してあるもので、供養の対象ではない。供養する為に位牌があるので、それに祖霊が御憑りになるのである。繰位牌も感心しない。
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“太陽、月、地球の呼吸運動は夫々如何なる影響をお互ひに及ぼし、又人間に何か関係がありませうか。
“此の関係を人間の身体でいふと、太陽の出没は心臓の鼓動、月の盈虧は肺の呼吸、地球の四季は胃の蠕動とも云ふべきで、心臓は太陽の霊気を吸ひ、肺は月の精気を吸収し、胃は土の精分を採る、これが医学の根本である。
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“よく世間で言ひ伝へで或野菜等を作ってはいけないという家がありますが、何か意味がございませうか。
“野菜は神様が人間の食物としてお与へ下さったもので、作って悪い筈はない。併し以前に蛇を殺して畠へ埋めたりした場合、蛇の怨霊がその畠の野菜に憑ってゐてそれを食べると変事が起るので言ひ伝へになったものであろう。現在はその心配はない。
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“生死不明の人は如何お祀りしたらよろしうございますか。
“持寺の僧侶に頼んで戒名を作りおまつりするといゝ。本人が生きていても差支へない。
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“仏壇に不動様と観音様の像をお祀りしてある場合、屏風観音様をお迎へしたら如何致せば宜敷うございますか。
“不動明王は観音様の手下であるから、同じに祀ってはいけない。下段へお祀りすればよろしい。観音像も下段の右へ祀ればよろしい。
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“俗に云ふ「エビ子」は如何なものでせうか。
“これは祖父母の生れ変りであって、生前腰が曲っていた霊が憑るのである。
(日光三、四月合併号 昭和二十四年四月十日)
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昭和二十四年五月号
左の記録は大先生様が私達の質問に御解答を与えて下さいました無数の御垂示の中から抜萃させて戴きましたもので御座います。
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“真理に就て御教へを願ひます。
“真理は其の人の見方と立場によって異ふ。神から御覧になるのと人が観るのと違ふし、神でも上中下の位があるから、下位の神の見らるゝ真理と、最高の神の見らるゝ真理とは又大いに違ふのである。人間が真理と信じている事で、神から見て逆理のことも往々ある。
森羅万象の一切と其の動きは真理ならざるはない。何となれば万有全体の上に座す神としては其全体が御自分の物であるからである。
又一切を二つに分けると、その各々の真理は陰陽相対的に異ってくる。その二つのものがそれからそれへ幾つも分れるに従ってそれぞれ異ってくる。要するに小さく考へるのと大きく考へるのとでも異って来るのである。
人類社会に於ける真理、それはどうしても正しい事を基本にしなくてはならない。宇宙の真理とても善を主に動いているからである。
若し悪を真理とするとすれば人類社会は既に崩壊し一切は滅亡していた筈である。そうならないで現在の如く栄えているのは、少しづつでも正が勝っている事を証拠立てゝいる。これによって見ても、善が栄えるのが真理であるといふ事に帰着するのである。
然し乍ら人類社会に善なるもののみで、悪なるものがなかったならば、今日の如く文化は発達し得なかったのである。悪があって善の活動を妨げたり苦しめたりする事によって善の力を強め、その進歩を促進せしめたのである。
以上は大乗的な説き方であって、或程度覚りを開いた人に説くのは差支へないが、小乗的な人には其の真意は解し難く、誤解を招くおそれがあるから注意すべきである。
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“雨漏りや虫の為、御神体にシミが出来ました場合は如何致したら宜敷うございますか。
“表具師に見せて、元通りに出来ればよいが、出来ない場合は更めてお願ひすればよろしい。
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“苗代へ播種後堆肥をかけましたが、無肥料栽培の場合は如何致したらよろしうございますか。
“堆肥は土壌を柔かにする役目であるから無論必要はない。水田も堆肥の必要はない。
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“丑満時と申しますが、何か霊的に意味がございませうか。
“昼と夜は地球の一種の呼吸運動であるから、丑満時は丁度その呼吸の途切れで、人間も活動力の一番弱い時である。この時が霊が活動しよい時機である。
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“一般家庭の庭に植えては不吉と云はれている木がありますが、如何なものでございませうか。
“植えて悪い木はない。只木の種類によりこういふ事がある。即ち松、柳、銀杏の木は特殊である。松、柳は龍神が憑依し易く、松は雄龍、柳は女龍で財物等を集めると云ふ意味で縁起がよい。門口に松を植えるのもその謂である。銀杏は「化銀杏」等とも云はれ、その実は人間の味がするとも言はれて実に人間霊が憑依し易いのである。この木はお寺や神社によくある木で人家の庭の木ではない。其の他の木にはこんな事がなく、よく果実の木を植えては不可といはれるが、旨い実がなる木を植えて食べる事は、神様の御意志に沿ふ事で、植えて悪い事があるべき筈がない。
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“自家で飼育した家畜を殺して食べる事は罪悪になりませうか。
“家畜類を殺して食ふ事の可否は一概には決められぬ。営業で殺す場合は割合に罪は軽いが、そうでないのは重い訳で動物と雖も殺されゝば怨む。その怨みも沢山になると共同して人間に対し恨みを返す事となる。故に年一遍位まとめて供養してやるといゝ。そうすれば罪は消える。営業でなく自家の家畜を殺した場合は恨みが大きいから必ず供養してやる要がある。そうして其の時、幽世の大神様に「その家畜類が此の次は転生して人間に生れ変らせて頂ける様」御願ひしてやると、反って大きな功徳となるのである。
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“人間の正守護神は霊界に於て守護するので御座居ませうか。それとも人間に憑依するので御座居ませうか。後者の場合は霊界は留守になるのでございませうか。
“正守護神は人間に憑かず傍に居るのが普通で、一時離れる時は代理を置くのである。人間に憑依する事もあるが、その場合は大概部下の動物霊を憑けるのが普通で、一般的に狐霊が多い。狐霊は正守護神の命令で憑って口を利くが、其の時に命令通りの事でなく自分の個性を出して勝手な事を喋る事があるから注意せねばならぬ。 又夢知らせは正守護神がするのだが、正守護神によって夢の上手下手がある。又ある事をなすのに気が進まぬのは正守護神が止めている事があるから、気の進まぬ時は中止するか考へ直す方がよい。
信仰に入る時に正守護神が盛んに働いている。即ち祖霊が子孫を入信さすべく正守護神に頼み、又命令すると、正守護神は其の人が入信せねばならぬ様な事情をつくるのである。
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“家を引越しました時古く祀ってありました地の神様を町内へ差上げて町内の神様として裏の方へ祀って居りました処、其の後不幸が続くとの事で御座居ましたが、如何致したらよろしうございますか。
“神様が気に入らないからです。地の神様を町内の神様即ち産土神にするのは出世した様であるが、実は霊は相応の理により苦しいから、元の地の神としてお祀りするのがよろしい。
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“生死不明の人は如何御祀りしたらよろしいもので御座居ませうか。
“菩提寺で戒名をつけて貰ひ普通の仏様の様にお祀りすればよい。若し其の人が生きて居て音信不通であったとしても、善い功徳である。
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”重病人で脈搏以外に臨終を知る方法を御教へ願ひます。
“死期を知るのは霊感が一番よいが、体的にも種々な兆しがある。即ち死相であるが、昔から眼の縁が黒くなり、小鼻が落ちる事等謂ふが、一番よく判るのは顔が死人の様に見える事である。又足の甲に浮腫が来ると大抵は駄目である。然し甲の上から上方へ平均して浮腫のあるのは一般的病気症状で、之は生命には関はらぬ。又唾が出なくなったり唇がギザギザに乾くのもいけない。目に力のないものも先づ見込みはない。特に頭が変になってトンチンカンな事を言ふ様なのは、既に本霊がぬけているので、これは絶対駄目である。
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“自己の行に対しては専ら小乗的に律し、他人に対しては大乗的に行くべきが本当でせうか。
“之は大いなる誤りである。大乗的と云へば自分も他人も凡ゆる事に大乗的でなくてはならぬ。自分を小乗的に律する時は、その為自分自身が拘束され、働きが狭まり力が出ぬ。戒律など小乗的なもので狭い。こうしてはならぬあゝしてはならぬと限界を作ると進歩発展が出来ぬ。要するに何をしても良いといふ工合でいて、自ら総てに渉って法に外れず、道に叶ふ様でなくてはならない。
(日光五月号 昭和二十四年五月二十二日)
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昭和二十四年七月号〔第四号〕
左の記録は、大先生様が私達の質問に御解答を与へて下さいました無数の御垂示の中から抜萃させて戴きましたもので御座居ます。
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“お盆の意味に就てお伺ひ致します。
“釈尊の大慈悲から盂蘭盆会といふものを作り、毎年一回日を決めて地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くといふが、兎に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知っていて待っているのである。元来祖霊は全部仏壇にいる訳でなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで、子孫が拝む時だけ仏壇に集まるものである。その際仏壇には或程度救はれた霊だけしか来られない。つまり八衢以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。お盆には種々の儀式を行なって霊を迎へるのであるが、「おがら」を焚くのはこゝからお這入り下さいといふ目印である。之は今迄夜の世界だったため霊界も暗いので燈りを見せないと霊がまごつくからである。茲で注意したい事がある。それは仏事はどんな古い先祖でもする程よい。又長男だけが祖霊を祭り、次男以下は祭らないのがあるが、これはよくない。霊界人となってもやはり現界と同様親子、兄弟の情は同じ事で、自分の子供のどの家へでも行ける様にありたい訳だ。従而、次男も三男も全部祭るべきである。位牌が多くて始末に困る時は面識ある祖霊はそれぞれに位牌を作り、面識のない祖霊は先祖代々にまとめてよいのである。
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“戦死した者の霊は御祭りしないと帰れないものでございませうか。「例」アッツ島で戦死した霊は未だ其の儘その地に居ると謂ふ事でございますが各人の家庭に於てお祀りしていると思ひますが如何なる事になるもので御座いませうか。
“無論祀らなければいけません。お祀りすれば早く帰れる。現界的に判り易く説明すれば、恰度帰還兵が帰って来ても家がなければ困ると同じ理由で、霊が帰って来たらすぐ宿れる様に居所を作ってあげねばなりません。そして日々お参りする想念が霊界を通じてアッツ島につながれ其の霊は早く救はれて帰って来る。丁度ソ連の日本残留者に対し、内地の者が政府に対し種々運動すれば或程度早く帰れるのと同様である。
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“西宮市近郊の或家で最初に建築した人が家族四人中三人迄死亡、続いてその家を買った人も二人家族の主人がすぐ亡くなり、三回目に入った人も既に二人死し、一人は目下病床に臥し、飼猫までが病気であります。その辺は元池も大木もなく野原でありまして、どうしてよいか困って居ります。御神体をお祭りするだけでよろしう御座居ませうか。病人には霊の憑依現象はありません。
“これは何か祟ってゐる。此の儘ではいけない。恐らく古戦場とか何か沢山人が死んだ所であろう。地縛の霊がいて助けを求めているのだろう。地縛の霊は建物を建てられると苦しい。地縛の霊でも普通のは何でもないが怒りっぽい霊、しつっこい霊が居るか、或は地龍の特定の住所になっていて、「其処をどけ」と言ふ事だから二、三十間以上移住するとよい。止むを得ない時は、光明如来様にお願ひすると夢などで知らせて戴ける。時間を経れば浄まってよくなる。
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“田畑の害虫を駆除するには如何致したらよろしうございますか。
“之は駆除するより発生しない様にするのが本当である。主原因は人肥、金肥、消毒剤を使用する為であって、消毒剤などは土へ入ってそれを植物が吸収する為である。無肥料なら絶対虫害はない。雑草を見ればよく判る。そして肥料をやると作物は弱る。作物が花落したり実が落ちたりするのは皆肥料の為である。
“憑依霊は副霊の働きの強い時に憑依するのでございませうか。又憑依する霊は先祖に関係があるものでございませうか。
“副霊が憑いている肉体へ別の副霊が憑くべく入ろうとして争ふ事がある。其際憑依霊同志が戦ふので、人間の方はクラクラしたり、煩悶状態になるものである。そして前住の副霊が後入より弱い時は後の霊が勝つ事があるが、それは一時的で長い間には先住の副霊が勝つのである。墓詣りすると必ず病気になる人があるが、これは死霊が憑くのである。狐などは臨時に憑いて人を殺したり悪事をさしたりする事が多いのである。そういふ事のうまい程彼等の仲間で巾が利くのである。祖霊は人間に何か伝へる時など大抵は狐に委託するものである。
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“三毒と五濁の意味を御教へ願ひます。
“三毒とは貪欲、瞋恚(いかり)、愚痴を言ひ、五濁は目、耳、鼻、舌、身の罪穢を言ふのであります。
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“生れ年、生れ月日が人間の運勢や性格に影響があると云はれる所以について御教へ願ひます。
“人間には気がつかぬが、総ゆるものに変化がある。気候にも春、夏、秋、冬あり、月にも雨の多い月、旱魃の月がある。その年、月、日の霊気を受ける影響もあり、また生れ月日の数の言霊の関係もある。例へば私は十二月二十三日生れだが、二十二日は冬至で一番日が短く、二十三日は春分で、昔は十二月二十三日を正月元旦として暦を作ろうとしたが、種々の関係で一週間延ばしたとも云はれ、二十三日生れの人は春に向ふ運勢がある訳である。然しそれが総てでなく、或程度は当るがこだはる必要はない。
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“『畏くも観世音菩薩は八百万神や仏の聖に在はさん』と御座いますが「聖」と申しますのは神や仏の上位に在はされるといふ意味でございませうか。
“聖は優れている、清いといふ事で、「上位」だといふ意味です。
“霊媒の素質のあるのは先天的との事で御座いますが、前世にて何か特別の因縁でもあるので御座いませうか。
“それは「霊を人間に知らせる」と云ふ使命を持って生れて来たものであります。
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“春蒔の蔓の出る植物は左巻きが通例で御座いますが、立秋後に種を蒔きますと蔓が必ず右巻きになりますのは如何なる訳で御座いませうか。
“春は日であり秋は月で、春は左で秋は右でありますからそうなるのが本当です。
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“人間の想念により天候に異変を来すとの事で御座いますが、二百十日、二十日を厄日と謂はれ、特に颱風等の起りますのは如何なる理由によるので御座いませうか。
“その必要があるからです。颱風により稲等を倒す事がありますが、根をはらせるのに必要だからです。根がはるのは風が吹くから倒れないようにする為で、根がはるから稲がよく穫れる事になりますから結構です。
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“北半球と南半球の季節が逆で御座いますのは地球の呼吸作用と如何なる関係が御座いませうか。
“呼吸をする時、「はく」のは陽で、「すう」のは陰です。北と南は霊と体の関係にありますので、総てが反対であります。
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“歯の生え代る時、前の歯が抜けないで八重歯が出来た時、其の儘にして置きますと口の恰好が悪くなりますが、御浄霊により古い歯が抜けるで御座いませうか。
“少し出かゝりに浄霊をすればよろしい。出てしまった後は歯医者に抜いて貰ひなさい。
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“墓地で石碑の頭の上に地蔵尊の石像が刻んでありますが、その儘で宜敷いので御座いませうか。猶、地蔵尊は何神様の化身であられ、如何なる御働きをなされるので御座いませうか。
“其儘で差支へありません。地蔵尊は阿弥陀如来の形を変へられたものでありまして、阿弥陀如来は霊界の御働きをされるのでありますが、地蔵尊は阿弥陀様が街頭に進出して救ひの御働きをされる時のお姿であります。
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“肉腫は霊的な病気で御座いませうか。霊的で御座いましたら、其の理由を御教へ御願ひ致します。
“霊的と体的とあり、体的は毒素の固結であり、霊的は大抵虫の霊(モグラ)の様です。中に核があり、形は大小様々あります。
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“田舎には何処の家にも地の神様がお祀りして御座いますが、地の神様は如何なる神様で御座いませうか。
“神様には色々な役があり、地の神は地龍で、産土神の支配により守護して居るのであります。
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“或る信者は一時的霊眼が開け、火龍の飛ぶのを見たとの事で御座います。火龍は両角を備へ、目は飛び出て真赤な色で、大小はありますが余り大きくはありませんでした。或日、其の信者の「かまど」附近に其の火龍が来ていたのが見え、火龍は火災に原因があるとの御話を聞いて居りますので、之は大変と、居合せた先生に善言讃詞を上げて頂きますと、丸くなって居たのが段々と伸びて、最後には「かまど」の煙突から西北に飛び去りました。其の時に居合せた五、六名の信者の耳にゴーッといふ音が聞えたそうです。そうして其の人は、西方の山を指して、其の山に火災の起る事を予言しましたが、果して三月二十五日に火災が起ったので御座います。又空には数えきれぬ火龍が飛んでいるのが見え、御神体をお迎へした家庭は強い光がさして居り、其の御光の中へは突入する事が出来ず、うろたへる様が見えたそうで御座います。火龍の働きはそうした働きをなし、霊眼で見えた事が本当なので御座いませうか。
“本当です。大きな火災の時は、火龍が大いに働きます。火柱が立つのは火龍の働きで、長くなるのは稀で普通丸くなって働きます。飛火は火龍が火をくわへて行くのであります。赤龍と間違ひ易いですが、火龍は光がありますからよく区別がつきます。
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“紋所の発生した由来を御教へ御願ひ申し上げます。
“昔戦争のあった場合、自己明示するため旗を立て、それに各々の紋をつけた。それが段々に羽織其の他に使はれ家紋となったのであります。
(日光四号 昭和二十四年七月二十一日)