昭和二十九年三月御教え
三月五日
今度、今まで私の書いたいろいろなものを選り分けて「救世教の聖書」といったようなものを作るという事になって、その序文を書いてくれと言われたので書いてみました。これはつまり“救世教というものはどういうものだ”という事の急所だけを書いたものですが、これはみんな分っていますが、しかし幾らか又、組合わせ方が、こういうふうだというような事も参考になるわけです。
御論文〔⇒救世教とは何ぞや 序文〕【註 栄光二五三号】
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それから薬を解剖してみたのですが、解剖(カイボウ)してみると、薬というものは全然科学ではないのです。一口に言えば迷信です。“そんな馬鹿な事はあるものか”と、第三者としたら思うわけですが、そういう事を言えないように書いたつもりです。
御論文〔⇒薬剤は科学?〕【註 栄光二五四号】
今読んだような工合で、薬というものは全然科学性がないわけです。ただ“効くだろう”というわけで、最初動物実験で、飲ましてみたり注射してみると、どうも成績が良い。“では一つ人間にやってみよう”というわけで、人間が第二の実験材料にされるのです。そうして“良い”というわけです。ところが“良い”というのが短かいのです。一カ月か半年ぐらい効くと“これは良い”と、売出したり学界に発表するのです。ところが、一年も二年も先になって逆効果があるのです。そうなると廃(スタ)ってしまうという事になるのです。ところが薬は浄化停止ですから、必ず逆効果になり、効かなくなるという事に決まってます。だから一つ薬が長く続いたという事はないです。それにまだ気がつかないのですから、やっぱり“超愚”の方です。
そういうような工合で、薬というものは全然科学性はないわけです。つまりまぐれ当りを狙っているわけです。それを、さもさも科学で発見したかのようにハヤシ立ててます。やっている御本人自身は実に馬鹿げているのですが、又それを有難がって信じる大衆も随分“超愚”です。そのためによく新聞に出ている“心臓が治った”とか“肝臓が治った”とか、よく発表してますが、あれらはちょっとした実験の結果良いので有頂天(ウチヨウテン)になってしまうのです。しかし暫(シバ)らくたつと煙(ケム)になってしまうので、そういう事を年中繰返(クリカエ)しているのですから、実に可哀想なものだと思います。つまり、医学では全然治らないものを治ったように信じて、ちょっと良いと“これだ”というように思っているわけです。だからその犠牲(ギセイ)になる人間こそ実に可哀想なものです。けれどもしかし、それはもう長い事はないです。丁度自然栽培みたいなもので、或る時期が来ると、分り始めると早いです。
こういう事を知ってなければならないのです。そういう、人間に害を与えるようなものを、一体神様はナンデ作ったか、何故今まで人間にそれを分らせなかったかという訳ですが、これは大変な深い意味があるのです。というのは、物質文明を発達させるには人間を弱らせなければならないのです。原始時代の、病気もない非常に丈夫ですと、人間はそれに満足してしまうのです。とに角神様の目的は、物質文化を発達させて、そうして真善美の世界を造るのですから、それにはどうしても人間を弱らせなければならないのです。交通機関の発達も、人間が弱るから発達するのです。どんなに遠い所へでも、山野を跋渉(バツシヨウ)しても、足が丈夫なら交通機関を発明しようという心も起こらないのです。文明の発達という事は、前に外国の学者が言ったように“文明の発達というものは、人間が無精になるから発達するのだ。何かやるにも億劫(オツクウ)だ、面倒くさいというそのために発明や発見が現われるのだ”という事を言っているのを読んだ事がありますが、なるほどと思います。それには体を弱らせなければならないのです。
だから、体を弱らせるほどいろんな便利な物や、それから美しいものを感じるという感覚、一つの、神経が鋭くなるとか、或いはものに感じやすいということになるので、それには、体を弱らせなければ仕方がないのです。それで弱らせるには毒を飲ませるのです。しかしそれを毒と言ったら人間は飲まないから、それを薬に思わせようという神様のトリックです。薬というものは良いものと思った人間は、神様に瞞(ダマ)されたわけです。神様はひどいと思うかもしれないが、仕方がないです。神様の経綸というものは、人間の、二、二が四とか、二、四が八ではないので、二、二が八にも、二、三が九にもなるのですから、霊妙不可思議なものです。
ところがそのために文化が発達したのですが、今度はこれ以上文化を発達させるとマイナスになるというわけです。丁度、発明発見が進んでいって原子爆弾のようなものが出来たようなものです。……原子爆弾は神様が作ったという事を、娘が霊憑りになって言っていますが、面白いので、今度地上天国(註五十八号)に出します……。そういうような事で、今までの人間にはちょっと不思議に思うようないろいろな事柄も、そういったような深い意味があるのです。唯物文化を発達させるために人間を弱らせておいて、今度は薬は毒だという事を言って、反対に健康を取り戻すわけです。それが救世教の一番根本の仕事なのです。
そういう訳だから、薬という毒をどういう訳で人間が飲むようになったかという事の根本を話したのですが、そこで薬というものは神様が作ったものです。その一番の証拠は、薬師如来と言って、観音様が薬師如来に化けられるのです。そうして大いに薬を奨励(シヨウレイ)したわけです。尤もその時分には科学はないから、草根木皮を大いに飲まして弱らせたわけです。その観音様が今度は“あれは毒だ”と言うのですから、観音様もなかなか……つまり瞞したり本当の事を言ったり、要するに千変万化、虚々実々というわけです。観音様は凡ゆる面に働きをされる、化けるというわけです。そして観音様は悪魔にもなるのです。馬頭観音というのは悪魔です。つまり動物の働きです。そういうような工合ですから、人間の智恵やそういったもので分るという事は難かしいのです。
今度の神憑りの中にこういう事があります。共産主義者などに対して、悪の役をするのは随分骨が折れたので、御苦労だったという慰めの言葉もあります。確かマレンコフなども、そういった、神様が御苦労だったと言ってました。悪を通すとそういうようで……スターリンもそうですが、スターリンは今霊界の最低地獄、極寒地獄に居て、結局六千年苦しんで滅びるという事を言ってましたが、其処は私は○○年としておきました。そういうようで、悪い事の御用を仰せつかってやっている霊もあるのです。だから神様のやり方は実に深いのです。
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それから、半文明半野蛮の世界という、これも今までにも大体書きましたが、これはごく分りやすく書いたつもりです。
御論文〔⇒半文明半野蛮の世界〕【註 栄光二五六号】
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みんな始終見ているでしょうが、地上天国は大体予定どおりに出来つつあります。これも無論神様がやっているのですが、あそこに行く道路、つまり一番厄介なのは小田原・熱海間ですが、この道路もだんだん方針が具体化し、実行にかかる形勢になって来ました。最初は熱海・湯河原間を海岸の方を埋めて、其処にドライヴウエイみたいなものを作る事になって、ボツボツ始めているようですが、一番先に出来るわけです。その道路が分れて、丁度地上天国に行くような自動車道路が出来ることになりましょう。そうして次に湯河原・小田原間も順々に出来ることになってます。小田原・熱海間は今まで一時間ですが、半分の三十分で行くだろうと思います。そうすると東京から来るとして、東京の端の方からなら一時間半ですが、東京の真中辺からでも、優に二時間半で来られますから、日帰りで地上天国なり美術館を見に来られるわけです。そうしたら余計大変な事になるだろうと思います。
それで、この地上天国が出来ると、世間の人がいろいろ批判もするし考えもするでしょう。“どうして僅かの間にあんな素晴しいものが出来たか”という疑問もあるし、それを聞きたがるという事もあります。そうなったら、新聞記者だとかそういう者が随分聞きに来るだろうと思います。これをもっと分りやすくいうと、無論力ですが、大体一番は金力です。その次は胆力、度胸です。其の次が智力です。この三つの力です。これは人間的の考えでゆけばそういうふうに見るのは当り前ですが、こっちの方はその他に神力が入っているのです。その三つの力を働かせるその力が神力です。なるほど金の力と言ったところで、それを元から持つているわけではないし、政府事業や何かではないので、つまり救世教に献(ア)げる人がなくてはならない。それを誰がやるかというと、神様がやるのです。それから胆力でも、確信のない胆力を出しては失敗してしまいますが、確信があるという事は、神様がそういう力を現わすのと、もう一つは、凡ての条件が楽に無理がなく、そういうように進んで行くように神様がし向けるという事と、熱海なら熱海という、ああいう風景を一目で見られるような、地形なり、石や木や、材料も、神様が前から用意してあるということです。それから智力と言うと人間が考えるようなものですが、そういう事はないです。客観的に見れば智力ですが、私自身としては智力などはないのです。何故と言って、考える事はないのですから……。ただ、あそこに行けばパッパッと、浮かぶ、と言いますか、浮かぶという事でもまだ廻りくどい言い方です。ヒョッと分るのです。だから本当は智力でもないので、神力です。そういうような工合だからして、説明できない、要するに不可思議力です。観音様が言う妙智力です。不可思議力、妙智力と言うが、確かに妙智力です。さもなければ短期間にあれだけのものが出来るわけはないのですから……。そう説明しても、誰でもなるほどと思うわけです。実際にあれを見れば、他に考えようはないです。まだまだ今でも想像もつかないようなものになります。
それで美術品も、神様は、ちょっと売物に出ないような物を、チャンとこっちに入るような順序がついているのです。神様の計画というものは実に大したものです。それと、霊界において、昔の立派な芸術家や、いろんな大名だとか、将軍だとか、そういう人達の霊が非常に働いてます。立派な美術館にするために……。それでその霊の奥にある産土の神様とか、八百万の神様でも高級な方の神様がいろいろ指図したり力を貸してやってます。だからああいう美術館を作るのも――それは生きた人間を使わなければならないが――私は、そういった現界の仕事をするのでも、私の背後にはいろんな神様、いろんな霊が大活動をしているのです。だから思いもつかない事がフッと来るような事がありますが、“これは働いたな”と思います。その根本が分れば、当り前の事で別に不思議はないのですが、ただ出来たものを見ると、僅かな間にどうしてこんなものがと思うのです。第一、道具屋とかそういう事に心得のあるものは、どうして僅かの間に手に入ったのだろうと思いますが、霊界を知らないのですから無理はないです。
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来月の九日から三越で浮世絵肉筆の展覧会がありますが、主催は箱根美術館で、後援が毎日新聞社、文化財保護委員会です。今まで浮世絵展覧会というと殆んど版画であって、肉筆というのは初めです。これは大変な評判になるだろうと思います。どうして肉筆が僅かの間にこんなに集まったのだろうと不思議に思うに違いないですが、これは又版画より集め難いものです。版画というものは昔から庶民階級に沢山バラまかれてますが、肉筆というものは、大名とか富豪でなければ持ってないのです。それが短期間にそれだけ集まったという事は実に奇蹟です。
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三月六日
今度、今まで私の書いたものの中から選(エラ)んで「救世教の聖書」みたいなものを編集するについて、序文を書いてもらいたいというので書いてみましたから読ませます。
御論文〔⇒救世教とは何ぞや 序文〕【註 栄光二五三号】
よく“救世教にはまだ教義がない”とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。本当言うと宗教ではないのだから、教義などは要らないわけです。大体「教義」という言葉がピッタリしてないのです。教えではないのですから……。教義というものは昔から、殆んどの宗教にはありますから、随分立派な、よく出来た教義が沢山あります。つまり教義というのは、教えの理窟ですから、教えでは人間は救えないです。
今度の静岡民報に私の事が続き物になって出始めましたが、あの中にちょっとうまい事があります。“自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書の方になった。それが分ってみると、さっぱり興味がなくなって止めてしまった”という事がありましたが、それはうまい事だと思います。つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。そういった道徳以外に、つまり理窟のつかない不思議なものがあるので、それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。
そうなると、宗教としての価値と言うよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。ですから教えは要らないわけです。ここのところがなかなか難かしいですが、丁度犯罪者が出ないように法律を作るという事です。法律を作るという事は、“こういう悪い事をすれば、こういう罪になる、こういう刑罰を与えられる”という事で僅かに秩序(チツジヨ)を維持(イジ)してゆくというわけです。それから宗教の教えというものは“人間はこうすべきものではない”“こうしなければならない”と、箇条書になっているのが随分あります。大体その元祖はモーゼの十戒です。“何すべし”とか“何すべからず”とか、という事では、やっぱり、法律のような肉体的刑罰はないが、つまり霊的刑罰、そういうものがあるわけです。聖書にある“他の女を、どうしようとか思うという事は、既に姦淫(カンイン)の罪を犯している”というような、一つの霊的刑罰です。人間は刑罰によって良い事をする、悪い事をしないというのでは本当のものではないのです。丁度酒を飲むと毒だから飲まないようにしなければいけないと、一生懸命我慢するというのと同じです。ですから、宗教とすればまだ低い所です。高い所ではないのです。
そこで高い宗教というものは、“そうすべからず”とか、そういった刑罰がなく、ただそういう事が嫌(イヤ)なのです。酒なら酒を飲みたくなくなるのです。それで、そういう変な事はする趣味がなくなってしまうのです。悪い事やずるい事をするのは、やっぱり趣味なのです。汚職事件などをする人は、ああいう事が好きなのです。気持の良い、並の手段で金を儲けるというのよりか、暗い所でやるそれが面白いのです。という事は、つまりその人の魂が本当でない、低いからです。魂が低くなければそういう事はしないのです。つまり動物的根性が多分にあるから、どうも明かるい、人間的感情がごく少ないわけです。やっぱり刑罰という檻がなくては危ないのです。檻があっても、それを破っているのですから……。ですから霊的に言うとずっと低いのです。本当に言うと、世の中で言う政治家とか、肩で風を切っている偉い人は、霊的に言うと実に低いのです。下等なわけです。
そういうようなわけで、法律も戒律も何もなくても悪い事をしない、悪い事に趣味が起こらない、それで良い事をするのが面白いという魂になると、それが本当の魂です。ですからウッチャラかしておいても悪い事をしないというので、人が見ているから悪い事をしないというのではいけないわけです。そういう人間を作るのが救世教の本筋なのです。しかし無論いきなりそういう立派な人間になれるわけがないから、教義というものも必要です。しかし根本はもっと上の方にあるのだからして、そこで宗教ではないと言うわけです。今までこういう上等なものは出なかったのです。ところがそういった上等なものが出たのです。だからそういった上等な事を分らせるには、なかなか簡単にはゆかないです。“そういう馬鹿な事があるものか”というわけです。つまり浄霊をすると疑ぐっても治るというわけです。ところが先は理窟で来ますが、理窟の方が下で、こっちは理窟より上です。それで、研究すればよいのですが、今までの理窟で分らなければ“駄目だ”と、今のインテリなどは見るのです。実に難かしいのですが、しかし本当に分れば、これは又理窟よりかもっと良いものだから、これは離せないという事になります。
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次に薬を徹底的に分析(ブンセキ)してみたのです。これは気がつきそうで気のつかない点を書いたのですが、これを読めばどんな人でも“なるほど”と思わないわけにはゆかないと思います。
御論文〔⇒薬剤は科学?〕【註 栄光二五四号】
そういうような工合で、薬と病とは関係ないわけです。薬で病に対し、科学的にどういう理論で治るかという事は全然分らないのです。それは、病気というものが分らないのだから、分らないはずです。ただ飲んでみてちょっと工合が良いから、これは効くのだ、この薬に限るというように思ってしまっているのです。だから大変科学的のように見えますが、よく考えてみると、薬というものには全然科学性はないのです。浄霊はどんなに考えても科学であり、又実際に効果があるのです。薬というものは、一時痛みが無くなるとか、一時気持が良くなるとかであって、病とは関係ないです。それを科学的に病が治ると思っている事は、全く迷信なので、言わば今の学者というのは実に頭が悪いのです。それが本当に分ると、どうしても今の科学文明というものは根本から立て直さなければならないわけです。それを私がやっているのです。だから本当に薬が科学的に効果があるものなら、何かの病気に一つの薬があればそれで決まってしまうものです。新しい薬が出るわけがないです。
それから、丁度薬のついでですから言いますが、薬が不幸を生むという事も知らなければならないのです。薬を飲むと血が濁るという事はみんな知ってますが、そうすると霊が曇る。霊が曇ると霊界の地位が低い所になりますから、どうしても地獄になるわけです。だから今の世の中が悪い世の中で、幸福な人は殆んどないです。それからそれへと不幸ですが、不幸だという事は霊的に霊界における階級が低くなるから、そこで嫌な苦しみや災難が来るわけです。その因というのは薬ですから、要するに薬が人類の不幸を作っているわけです。薬によって病気を作るどころではなく、病気以外一切の苦悩を薬が作るわけですから、薬というものは実に恐ろしいのです。そこで人類から薬というものをどうしても無くしなければ良い世界というのは出来るわけがないのです。仮に汚職事件にしても、ああいうずるい人が出るという事は、因(モト)の因(モト)は薬です。そういう人間から薬毒を抜けばよいのですが、抜くことはなかなかできないのです。大体そういう事をさせるのは動物霊ですが、動物霊は薬のない霊に憑いても働けないから、そういうのには憑かないのです。憑くとなると動物霊も改心しなければならないのです。だから結局薬毒が犯罪を作っているわけです。
ところがそれを逆に解して、新聞などでよく、屁のような薬の効き目をデカデカと書いてます。それは例えてみれば、薬の効果が十のものなら、七、八は被い隠して、二か三の効果だけを大いに拡げて出すのです。そこで人間はみんな、なるほど薬はよいと思ってドンドン飲む、飲むから売れるというので、今新聞を見ても売薬の広告が一番多いです。ますます多くなってます。又事業としては売薬が一番売れるのです。如何に売れるかという事は、去年の売上が一番多いのは武田長兵衛で、三十五億で、これが一番です。これは薬屋から聞いたのだから間違いないです。その次は三共もかなりで、二十七億です。ですから非常に儲かるのです。そのために今薬屋が一番恐ろしいのは救世教なのです。又そういうものに恐ろしがられるほどこっちの力が強いというわけですから、これは大いに喜んでよいわけです。プラスでよいわけです。悪人が一番いけないのは善人なのです。ところが今までの善人は弱かったから大した事はなかったが、善人の強い奴が悪人には一番怖いのです。悪人から見れば、善人はみんな悪人なのです。しかしこれは小の虫を殺して大の虫を助けるのだから仕方がないのです。
そういうようなわけで、薬の害というものを知らせるという事が一番です。それでラジオでこの頃続いて農業講座が出てますから、私は毎晩聞いてますが、肥料の事を言わないのです。一番肝腎な肥料の事を言わないで、他の技術面の事を言ってます。そうすると、日本のああいうジャーナリストは、国民の幸福という事よりも、己れの幸福という事を上にみているのです。実際これでは、日本もよい国になれるわけはないです。本当に国民のためになるという事は、つまり自分で自分を打消しているわけです。そこで、これは悪いと思いながらも、その方が金が儲かるし、自分の利益になる、という事をやっているのだからして実に厄介(ヤツカイ)な世の中です。これに対してはアメリカ人などは、本当に世界人類のためになるという事は、自分の利益を犠牲にしてもそれをやるという、非常に高い、崇高な思想があります。これがアメリカがあれだけの勢力を得、世界をリードするほどの国になった根本理由です。
結局問題は薬ですが、では神様はどういう訳で、そんな悪い物を作り人間に飲ませるのを許していたかというと、これは又理由があるのです。前に何かで書いた事がありますが、原始時代は人間が非常に健康で、全然病気はないのですが、そうすると文化の発達ができないのです。どうしても人間の体を弱くしなければならないのです。その必要から毒を薬として、薬のように思わして人間にウンと飲ましたのです。これは神様の経綸なのです。人間が健康で、幾ら歩いても草臥(クタビ)れないというのでは、便利な交通機関というものも発達しないし、立派な家も造らないで、つまらない家で“これで沢山だ”という事になります。そこでそういったような意味において、文化を発達させるために人間を弱らせたのです。だからこれは必要だったわけです。神様の経綸というものは人間が考えても到底分らないものであって、実に深いものです。
私が薬や医学の方をこういうように言うが、薬や医学のような間違ったものがあるために救世教というものが出て発展するのです。薬をやれば病人が治るし、医者がやればドンドン健康になるというのでは救世教というのは発展しないし、又現われる必要がないのです。そうすると救世教を発展させたものはやっぱり医者や薬なのだから、それを今悪い事を言うという事は非常に矛盾(ムジユン)してます。本当言うと大いに感謝して褒めなければならないのです。そういうように考えると、神様の経綸というものは実に深いもので、人間の理窟で簡単に片付けようと思っても駄目なのです。善が悪になり、悪が善になり、という事で、そうして世の中がだんだん進歩発達してゆくのです。しかしてそれを本当に分るにはやっぱり見真実でなければ分らないのです。
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それで見真実というものは一番高い所ですから、其処で凡てを見下すからはっきり分るのです。結局この見真実を分らせるために私がいろいろ説いているのです。要するに信仰の目的は早く見真実になる事です。そうするといろんな事がよく分ります。けれども本当に見真実には、それは普通ではなかなかなれないのです。だからそれに近寄ればよいのです。ところで釈迦やキリストも見真実にはなったが、見真実にも上中下があって、中位の見真実だったのです。その先は分らなかったのです。又あの時代には分ってはいけなかったので、時期が早すぎたのです。
しかし今はもう分らなければならないのです。本当に地上天国を造るのですから、それには人間の主だった人達に或る程度は見真実を分らせなければならないのです。という事は救世教の信者ですが、特に幹部の人です。こういうよう(ピラミッド)になっていて、その頂点が見真実の境地になって、段々になっているのです。この間の論文に説いた科学というのは下なのです。それで私が説く事はみんな科学ですが、科学にも上中下があって、現代科学はずっと低いのです。そういうようで、段々になっているのですが、深く高くなっているものほど上等です。私が説いている科学は上等な科学です。そこで下等な科学の事を批判しているわけです。
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三月七日
今度「救世教の聖書」というようなものを編集することになって、今までに私の書いた中から選り出して編集しているのですが、それについて、序文を書いてくれというので書いたのです。大体これはみんな分っている事ですが、とに角救世教の特長というもの、普通の宗教とは違うというような事に力点をおいて書いたのです。
御論文〔⇒救世教とは何ぞや 序文〕【註 栄光二五三号】
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農業特集号は案外よく売れるそうで、今までに百万部以上売れたようです。百万の予定でしたが、百万でも全部売れれば大したものだと思っていましたが、普通一戸に五人の人間としても、かなり行き渡るだろうと思ってます。それで、地方新聞などには時々自然栽培について出てますが、どうも大都会の新聞には少しも出てないのです。しかもラジオなどは今農業講座を続いて毎晩やってますが、しかも肥料については少しも触れないで、他の事ばかり言ってます。どうも、想像してみると、言わなければならない、書かなければならないわけのものを我慢しているのですから、余程つらいだろうと思います。歯ぎしりをしているのではないかと思ってます。尤もこれについては、肥料会社の方面から相当手が廻っているのではないかと思うのです。これは国家とか人民とか、という事よりも自分のメシを食うために影響するということが一番恐ろしいのです。
ですから言うことを聞くのも無理はないのです。そのくらい救世教というものを恐れているのです。という事は、私の方で書くものが手厳(テキビ)しいのですから……これはみんな知っているとおり、随分思いきって書いてます。本当から言えば大いにこちらを攻撃するとか、とに角止めさせようとかいう手段をとらなければならないわけです。それから又若しか間違っていたり、社会のためにいけないものなら、新聞社でも大いに叩かなければならないのです。ところがそうしないところに先方に弱みがあるのです。という事は、こっちが言う事……それどころではない、実例を沢山あげてありますから、拳骨の振りようがないわけです。しかしそういう事は、丁度汚職問題を隠すようなもので、どうしても知れなければならないので、間違っている事は神様が許さないです。
ただ時の問題で、いずれは農村に自然栽培者が多くなってしまうと、大新聞なども黙っておられなくなります。書かないわけにはゆかなくなります。第一そうなると手遅れです。何故今まで知らせなかったか、地方新聞はあんなに書いているのに、大都会の新聞は何故書かなかったのかと非難をあびるでしょう。ところがそこまでは気がつかないで、“無肥料で作物を作るなんて、何時かは駄目になるだろう、一時的なものだろう”というような解釈をしているのです。今までのそういったものは殆んどそうだったです。そこで自分で慰めているのでしょうが、しかしいずれは慌てて、苦しがる時期が来るに違いないです。そういうようなわけで、先方はどう困ろうと苦しもうと、こっちは別に関係はないのです。こっちは大衆を救い、日本の国全体を救うのですから、先がどんなに歎こうと、敢えて痛痒(ツウヨウ)を感じないのですが、話をすればそういうようなものです。そうなると肥料会社の方の事業が大変な事になると思うのです。硫安などはまるで売れなくなります。しかしそのために電力が大いに助かる事になってますから、国家として非常に結構なのです。
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肥料はそういう工合としても、その次は薬です。この薬が大変ないけないものだという事が社会の輿論になるわけですが、これは肥料のようなわけに簡単にはゆきませんが、しかしいずれはそうなるに決まってます。神様がそういう機会を与えます。今度の特集号が非常に売れるということは、去年のあれだけの凶作のために、農村の空気がまるで違ってますから、そこで腹の減っているところに御馳走をやるようなもので、飛び付くわけです。これは神様がそういう時期を作られるわけです。ですからいずれ薬の方も、神様はチャンとそういう時期を作られるに違いないですから、そうなって世の中は本当に良くなるわけです。それで薬について書いてみましたが、薬というものは全然科学性はないのです。つまり迷信です。その、薬に科学性がないという事について書いてみました。
御論文〔⇒薬剤は科学?〕【註 栄光二五四号】
これは、科学ではないという事をザット説明したのですが、これを大きくみると、人間の一切の悩み、例えてみれば犯罪ですが、犯罪の原因も薬毒なのです。今度の汚職問題で偉い人がみんな引っ掛って苦しんでますが、これの因の因は薬毒なのです。つまり、薬毒が溜ると霊が曇ります。霊が曇ると邪霊(動物霊)が活躍ができますから、そこで内証(ナイシヨ)で変な金を手に入れたりすることになります。その薬毒のために霊が曇るから動物霊が活躍するのですが、そうするとまず大いに芸者買いしたり、酒を飲んだりマージャンをやったり、いろんな事をする、それはみんな動物霊の指図と言い得ます。そうしてそれには金が要る、そうしてうまくやればよいというのでいろいろな事をやるのです。
そうすると結局において薬が罪人を作っているわけです。犯罪者を生んでいるわけなのだから、薬毒というのは病気ばかりではないのです。言わば、肉体的病気ばかりでなく、精神的病気も作っているわけです。凡ゆる悪の面、人間の悩み苦しむその原因は全部薬なのです。人類から薬というものを抜けば、地上天国もミロクの世も出来るのです。とに角救世教というのは世の中から薬を無くするというのが根本の仕事です。そんな恐ろしいものを盛んに売っており、又奨励しているというのだから、実に世の中は間違いも甚だしいのです。今新聞広告で一番よく出ているのは売薬の広告です。ラジオの民間放送というと、薬屋の宣伝が一番です。殆んど薬で、その他の商品などは僅かです。それほど恐ろしい物をこれほど大騒ぎをやって奨励して、飲ませようとしているのだから、如何に世の中が間違っているかという事がよく分ります。
今まで人間に“薬は良い”という観念がしみ込んでいるのですが、これが“あべこべなものだ”という事を分らせるのが大変です。それで浄霊を受けて病気が治った人は分りますが、それを急に早く分らせようとしても、なかなか無理なので、そこでやはり神様はチャンと、一ぺんに分るような仕組をされてあるのですから、それも時期です。とに角人類の一切の不幸は薬が因と思っていればよいです。それで薬が無くなったらどうなるかというと、人間の寿命は必ず百歳は生きるのです。人間の寿命が百以上は生きるという事になったら、こんな結構な有難い事はないと思います。救世教に入れば百歳以上は生きるという事が分ったら、みんな救世教信者になります。“そんな馬鹿な事があるものか、人を馬鹿にしてやがる、宗教宣伝のためにうまい事を言ってやがる”と、最初は思いますが、“とに角入ってみろ”というのも非常によいと思います。
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それから地上天国も大分外人の方に知れて来て、今度箱根美術館が開館になったら、外人の観客が相当増えるだろうと思ってます。とに角外人間では、日本に来て日本の美術を見ようと思っても、見る所がない、見せる所がないというのです。美術館は方々に出来たようだが、みんな西洋の美術、油絵です。そんな物は先方が本元で、わざわざ日本に来て見る必要はないので、日本の美術を見たいというのです。ところがそういう所がないのです。本当に日本の美術を見せるのは箱根美術館よりないというのです。あとはお寺に行って仏教美術を見るとか、博物館に行って見るのですが、博物館は一部です。なにしろ美術館ではないので博物館ですから、古い、考古学的の物とか歴史的の物です。そこで博物館で一番の良いものは仏教美術で、仏像に一番立派なものがあります。私なども行って仏像を見るぐらいなものです。他にもありますが、年中同じ物ですから飽きてしまいます。私が三十代の若い頃から見た物が今もって出ているのですから、何も見る物がないのです。それから年に一度ずつ日展ぐらいなものを開催しますが、そこでも、日本画を見ようと思えば殆んど油絵式になってますし、美術工芸というと、薄ッペラな歯の浮くような物で、本当に楽しめるような物はないです。だから美術館として本当に美術らしい物を見ようと思っても、おそらく無いです。
そこで、私が自分が見る美術館を拵えようとしても、やっぱり箱根美術館のような物を拵えなければならないと思っているのですから、そこで美術というそういった面からみても、救世教でやっている事は、やはり自然栽培や薬毒の説と同じような、世界に一つというようなものになるわけです。おまけに今度、熱海に美術館が出来たら、これは箱根よりも一層充実したものですから、大変な事になるだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様は凡ゆる面の救いですから、美術館も地上天国にしろ、その一つの大きな役目をされるわけです。そういうようなわけで、いろいろな仕事が本当に社会的世界的に知れるのは、いよいよこれからという、丁度山なら今麓に来たわけです。大いにやり甲斐が、だんだん大きくなって来たわけです。
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何時かも話した、三越で来月やる浮世絵展覧会ですが、これは「肉筆浮世絵名作展」という名称で、箱根美術館主催、毎日新聞社、文化財保護委員会が後援という事になって、それで始めるわけですが、来月の九日からという話で、十日ぐらいやるでしょう。今まで浮世絵展というと殆んど版画でしたが、今度の肉筆展というのは初めてです。素晴しい人気を呼ぶだろうと思ってます。いずれ大阪、九州というようなふうにやる計画らしいです。宣伝するつもりでなくても、結局救世教の宣伝にもなるわけです。神様があの手この手で知らされるわけです。浮世絵の肉筆なども、私が何故それをやったかというと、浮世絵というと殆んど版画だものだから、版画は非常に値段が高くなってます。版画で一番値段が高いのは一枚四十万円から五十万円です。歌麿の版画には最盛期というのがあるのだそうで、あんまり若すぎても年をとりすぎたのもいけないので、四十ガラミの物が脂がのっていて良いそうです。それなら一枚四十万から五十万だそうで、それから写楽。春信のが一番高いですが、春信のは箱根美術館に少し出しました。今の、歌麿、写楽、春信の三人が世界的です。
ところが肉筆の方は安くて、半分以下です。だから実に馬鹿げたものと思います。版画というと大抵一種類二百枚ぐらい刷(ス)るのが普通ですが、版の物が高くて、一枚々々画いた物の方が安いというのですから、こんな理窟に合わない事はないです。だから宜しいというわけで肉筆ばかり買ったのです。非常に安くて良い物が入ったのです。そのために今度は非常に値が上ったのです。そして品物も無くなってしまったわけです。私が商人なら随分金儲けはうまいわけです。そういうようなわけで、今肉筆というのは殆んど無いのです。主な物は殆んど私の方に集まってしまったのです。そこで今度の展覧会も肉筆展というわけです。それに肉筆の方が絵も大きいし見応(ミゴタ)えがあります。力もあります。割合に僅かの間に安く集まってしまったのです。浮世絵は日本で一番という事は、博物館でも言ってます。そういうようで、今のは浮世絵ですが、他の物も非常に高くなってます。私は喫驚しているのです。土地のようなものでも、買った所はみんな高くなってしまうのです。というのは、何んと言いますか、凡て一番良いものを選ぶからです。美術品でも、一級品ばかりしか手を出しません。それで一級品は何倍と上りますが、二級品三級品になるとそうは上らないので、倍か三倍です。時間が来ましたからこのくらいにしておきます。
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三月十五日
今朝の新聞にデカデカと出てましたが、二重橋事件で目が見えなくなった山田けい子という十一になる子供に関し、写真なども出して、大変な医学の功名のように報じてますが、あれは何でもないのです。どうも医学だと屁みたいな事でも大変な事のように有難がるし、こっちの方のどんな素晴しい事でもテンで見向きもしないという馬鹿々々しい世の中です。あれは、頭を打ったので内出血して、出血が目の裏に固まったものです。ですからウッチャラかしておくと、一、二年たつと膿になり目ヤニになって出てしまうのです。浄霊なら訳はないです。医学ではそれが出来ないから、脳に穴をあけて血の固まりを取り出したというのだから、別に大した理由はないので、簡単なものです。清水健太郎という博士で、その方の権威としてあるのですが、これは最初やったのはポルトガルのモニーという教授です。それが最初脳に穴をあけて、そういう手術をしたのですが、それを日本で真似をしたわけです。つまり今の文明……(大体科学ですが)というものは、ごく幼稚なものなのです。科学と言っても、丁度台所道具を作るようなものです。それでこっちの浄霊というのはお座敷の方のを作っているわけです。台所道具に慣れた目にはお座敷の立派な物が分らないというわけです。それについて書いてみました。
御論文〔⇒私は宗教科学者だ〕【註 栄光二五五号】
今のは学校の勉強時間のような話ですが、これが本当に分れば何でもないのです。逆の方の教育を受けたために非常に分り難くなっているわけです。つまり救世教というものは高度の科学を教えるわけです。だから宗教ではないと言うのはそういう訳です。宗教というものは全体から言うと大きなものではないので、限られているものです。だから或る範囲内のものです。というのは、精神的教えによって精神的に分る……分るというものは因果律です。善因善果、悪因悪果という因果律を教えて、魂を善に向かわせるというわけです。精神的のものですから、高さはありますが広さはないのです。そこで広さにおいては科学にはとても敵(カナ)わないのです。その代り科学には高さはないです。やっぱり台所道具ですから、床の間の置物などは出来ないのです。そこで広さの科学をもっと上の方に上げて、高さの科学という科学を作らなければならないという、それが救世教なのです。
だから今まで台所道具の目に慣(ナ)れた人間にはチョッと分り難いのですが、これは美術にも当嵌まるのです。今大騒ぎをやっている油絵というのは、何時かも書いたとおり、家具の方です。それを日本人は一生懸命に真似てますが、それは実に滑稽(コツケイ)なのです。これは実用品なのです。ところが日本の芸術というのは非常に高いのです。そのために私は美術館を造ったのです。かえって外国の人の方が分っているのです。日本の芸術というものはとに角大変なものだと、外国人も分りつつあるわけです。本当にはまだ分ってないのですが……。一番分ってないのは日本人です。手前の側にあっていて一番見えないのです。
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今日の午後アメリカの人が、グリリという人の案内で来るのですが、その人は日本画の研究家です。日本の明治以来の絵を研究しているのです。明治以来の絵では栖鳳(セイホウ)が一番良いというのです。ですから栖鳳の研究家です。日本人で栖鳳の研究家というのは無いのですが、外人に栖鳳の研究家というのができたのです。それで栖鳳の良い物を見せてもらいたいというので用意しました。ですから、とに角日本人がボンヤリしている間に向うの人がドンドン日本の絵やそういうものを研究し始めているわけです。それで、明治以来の勝れた画家としては、確かに栖鳳が第一人者です。ですから私は栖鳳が好きで、今まで新画としては一番蒐(アツ)めました。掛物だけで三十何幅かあります。その中の傑出(ケツシユツ)した物は五、六点です。
兎に角日本人というものは美的には実に勝れたものです。私はよく仏像を見る場合に、支那の仏と日本の仏とは、こうも違うかと思うくらいです。これは支那の六朝時代が一番盛んだったのですから、千五百年ぐらい前です。それで支那でもその時代が一番良かったのです。その後の唐、明の時代になると落ちます。六朝は唐の少し前ですが、六朝の物が唐の時代になってから日本に入って来たのですが、それが推古です。推古仏と言って、日本人の手にかかると俄然(ガゼン)として素晴しい物になったのです。推古から飛鳥、天平にかけて出来た日本の仏は素晴しいものです。それは支那が師匠ですが、弟子の方がテンデ上になったのです。
それから絵画は宋元で、北宋、南宋、元ですが、やっぱり南宋時代に一番良い物が出来たのです。これが日本に入って来て、足利義満と義政が非常に好んで取寄せて、俄然として日本の絵画が出来たのです。その第一人者としては、雪舟(セツシユウ)などが一番偉かったです。そうして近代に来たが、結局宋元時代の絵をモデルとして出来たのです。それを破ったのが宗達(ソウタツ)、光琳(コウリン)です。そういうようなわけで、とに角支那では宋元、日本では琳派、それから今では大体琳派を近代化したというのが美術院です。これで日本の絵画というものは明治以来に一番飛躍したのです。
そこに今は油絵が入り込んで来たのですが、これは邪道、横道に入ったわけです。これももう長い事はないので、もう一息と思います。というのは、今日本で有難がっているのはピカソ、マチスですが、ところがフランスではピカソ、マチスは非常に廃(スタ)って来ています。朝日新聞かに出てましたが、今度三十代ぐらいの絵書(エカキ)が俄然として出て、フランスの絵画界を風靡(フウビ)したのです。その絵書の絵は、画くと直ぐ売れてしまうのです。ですからフランス絵画界というのはその方に集中されて来たのです。その画き方は「ピカソ、マチスとできるだけ離れろ、できるだけ違ったものを画け」というのが方針だそうです。だから写生の新しいものの方になって来たのです。非常に良い傾向です。マチスはそうでもないが、ピカソは大変な間違ったものですから早く撲滅(ボクメツ)しなければならないです。ところが今のフランスの若い画家が叩き始めて成功したわけです。そこで日本人もここで目が覚めて、その方に真似を始めるだろうと思ってますが、この方の真似は、良い方の真似だから結構です。そういうわけで、日本人の美術に対する偉さというのは、今の美術家というのは全然忘れ去っているのです。お座敷の道具を作るのが台所道具を作るのを一生懸命に真似しているわけです。床の間に手桶や何かを上げるようなものですから、これは早く叩かなければならないと思っているのです。
私は最近御舟(ギヨシユウ)の絵を注目し始めたのです。私はこれはそれほどとは思っていなかったのですが、最近松坂屋で御舟の展覧会があって、それで分ったのです。というのは、今まであった御舟は偽物だったのです。ですから、ちょっとは変った所があるが、それほどでもないと思っていたのですが、二、三カ月前に道具屋が持って来たのを見て“これは大変だ”というわけです。これは宋元画に負けないです。今度松坂屋の展覧会に行って見て、御舟の偉さがよく分ったのです。そうして、御舟の絵をよく見ると、今までの世界の絵画では一番です。大体最初宋時代の黄筌(オウセン)という……一昨年の美術館に花鳥の巻物を出しましたが、今年も出します……これが御舟の最初です。それから光琳とか油絵とかを取入れてあったが、とに角大天才です。今度箱根の美術館にも三点出しますが、これは素晴しいものです。この中で特に桜の絵がありますが、これはよく見ると、実に人間業とは思えないくらい良く画いてます。この画き方というのは、徽宗皇(キソウ)帝と銭舜挙(センシユウキヨ)をもう一層うまくしたものです。それにつけても、日本人のそういった美術の才能というのは実に大したものです。今度の箱根美術館の明治以来の名人の近代名品展というのがありますが、今の御舟の絵なら宋元物より勝れてますから、世界一です。
それからこの間芸術院の会員になった板谷波山(イタヤハザン)という陶芸家が居ますが、この人が又名人です。この人の青磁の花瓶を今度出しますが、支那の青磁よりも良く出来てます。青磁というのは支那が一番のもので、一番出来たのが唐時代です。私は青磁は支那のより以上のものは出来ないと思っていたのです。ところが波山のは支那のより良く出来ているのです。今度出しますが、実に驚いているのです。日本人のそういった美術の才能というのは実に大したものです。それを日本人に知らせるのが一番大事だと思います。それを美術家が知らないのです。だから西洋の真似をするのです。つまり台所の真似をするのだから始末が悪いです。いろんな名人の物も出ますが、とに角明治以来の日本にこんな良い物が出来たかと驚くだろうと思ってます。
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今あんまり固いものを読んだので、今度は柔らかいものを読ませます。
御論文〔⇒感じの良い人〕【註 栄光二五七号】
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それから来月の一日から三越で古九谷焼の展覧会があり、私の方でも幾らか出します。それが十一日まであって、九日からがこっちの浮世絵展が始まる事になってます。東京は三越で、大阪、福岡と次々に開く予定になってます。肉筆浮世絵展と言うのですから、肉筆ばかりなのです。これは今までやった事はありません。今までの浮世絵展というと版画です。それで浮世絵展というと版画のようになっているわけです。ところが今度は肉筆ですから、その点は非常に新しい企画です。というのは、肉筆は今までみんな相当有力な人達――金持とか華族――そういう所に蔵(シマ)われていたために、あんまり世間に出なかったのです。それで第一外人がそういう物を見る機会がないし、従って版画を日本から買っていって、それが評判になって、むしろ日本人はそれによって知らされて、版画の浮世絵を近頃大騒ぎをやるようになったのです。そういうようで、肉筆というのはみんな知らなかったのです。そこで私が目をつけたというわけです。何んとしても、版画というものはつまり印刷で、何枚も出来るのですから、作者の魂が抜けているわけです。肉筆こそ本当に作者の魂が籠(コモ)ってますから、まるっきり違います。そこで今度の肉筆を見ると、今まで見た事もないような物が沢山ありますから、喫驚するだろうと思います。“なるほど、浮世絵はやっぱり肉筆が良い”という事になるに違いないです。そこで大いに効果があると思います。
とに角最近になって余程変って来たのは、今まではデパートの展覧会というと仏教に関係したお寺展覧会です。お寺が順々に出品するのですが、もうそれには飽(ア)きたです。又お寺の美術品では面白くないです。お寺美術に感心したりいろいろするのは少ないです。私も随分仏像を研究しましたが、時代とその作者、それに非常に「いわれ」があるのですが、それを見分けるには相当研究しなければならないです。だからあれを一般の人に見せるというのは無理なのです。それから又一度見れば二度と見たくないし、何処の寺でも大した違いはないです。“何寺”“何寺”と言いますが、結局彫刻の対照と言えば、阿彌陀様、観音様、お釈迦様、あとは地蔵とか不動とか、そういうものです。ですからいずれ廃ると思っていたら、近頃廃ったとみえて、近頃は美術館の展覧会です。
この間松屋で大原美術館の展覧会がありました。油絵ですが随分入ったそうです。そこで今度の松坂屋の御舟展覧会は、御舟の妻君の兄貴が、御舟の物をウンと持っているのです。吉田某と言う人ですが、その人の持つ品が大部分なので、あと他の人のは少しです。ですからこれは個人一手でやったわけです。これからは以前みたいに各金持とか、そういうものはできないわけです。そうするとやっぱり税金などの関係で、出すのを嫌がるのです。それからもう一つ厄介なのは、特別の良い物は近頃非常に人から尊ばれて来たのです。それで一級品というと個人ではなかなか出さないのです。それから又今まで随分良い物を持っていた人はみんな手放しました。一番は財産税のためです。これが払えないために昔から持っていた物を随分手放したのです。それが私の方の手に入った動機です。そういうために、そういった展覧会をやろうと思っても、むずかしいのです。
それから又デパートはそういう展覧会をやると、ばかに客が増えるのだそうです。二、三カ月前に白木屋で春信(ハルノブ)の展覧会をやりました。僅か二、三十枚の錦絵(ニシキエ)の版画ですが、そういうようで、その味が忘れられないで、今度又やるそうです。歌麿(ウタマロ)とか豊国(トヨクニ)とか、五、六人の版画ですが、私の方でも頼まれたのでやります……歌麿を博物館に頼んだが出せないで、私の方に補充してくれと言って来たのでやります……それが今年一ぱいとかで、非常に長くやるそうです。いろんな物を次々変えてゆくのでしょう。デパートがそういった美術品の展覧会をやるというのが一つの流行のようになって来たようです。
そうなると箱根美術館が一番です。私の方は種類が多いですし、しかも品物はみんな一級品ですから、私の方は、まず十回や十何回かの展覧会をやれるだけの種類があります。そのために箱根美術館の宣伝には大いになるわけです。だから将来は美術品と言えば救世教というようになるだろうと思います。アメリカの新聞記者は「箱根美術館」「熱海美術館」というようにしないで「救世教美術館」としたらよいだろうと言うのですが、しかしアメリカなら宗教を軽蔑しないからそれでよいでしょうが、日本では新宗教というと軽蔑するから、まずいからと断わっているのです。そういうわけで、日本の新宗教というのは厄介な見方をされているわけです。救世教はそれを大いに消しているわけです。
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三月十六日
最近、二重橋事件で目が見えなくなった山田けい子という十一になる女の子が、清水という博士が手術して見えるようになったといって、新聞にデカデカと書いてありますが、あれは本当の事が分ると何んでもないのです。あれは頭を打ったので内出血になって、その血が視神経の側に固まったわけです。だからこれはウッチャラかしておけば、膿になって、一年か精々(セイゼイ)二年ぐらいの間に目ヤニになって出てしまって、それですっかり治るのです。眼球は別に何んでもないのです。ただそれだけのものです。それを脳や頭蓋骨に穴をあけて出血の固まりを取ったのですが、そんな手数をかける必要は何もないのです。浄霊なら上から出血を溶かしてしまいますから、これはずっと早く、一週間か十日で治ってしまうものです。ウッチャラかしておいても、子供だから早いので一年とみればよいです。それを大変な医学の進歩で、功名なように大騒ぎをやるのですから、我々からみると実に馬鹿々々しい話です。それについて、“今の医学というのは、科学ではない、本当の科学というのはこういうものだ”という事を書いてみました。
御論文〔⇒私は宗教科学者だ〕【註 栄光二五五号】
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自然農法も予定どおり各方面に大分行き渡りつつあります。それについて昨日聞いた話では、最近農林省の役人の中に自然農法研究会というのができたそうです。まだ十数人ぐらいだそうですが、これは非常によい事だと思ってます。何んと言っても農林省が本元ですから、この中にそういう固まりができて拡がって行き、理解されるとしたら、これは一番肝腎な根城ですから、その根城を占領してしまうのだから、忽ち全国的に拡がると思います。しかしまだ、会員の人は幹部ではないらしいです。だから上の方は相当頑強だろうから、それまで相当時間はかかると思いますが、結局において一番の農民が分って来て、そうして実際の耕作者が増え、実際の成績を上げてゆけば、これは否応ないのです。そこにもっていって、農林省の中にそういう固まりができて来たら、これは国民と下の役人が、上の偉い人のケツを叩きますから、これはどうしてもユッタリと椅子に腰掛けて居られない事になります。どうしても立たなければならない事になります。
世の中が民主主義になった事は非常に結構ですが、あべこべな事がよくあるのです。これはジャーナリストを見ても分ります。自然農法は地方の新聞にはよく出てます。この間も、九州の主な都市で展示会をやって、その土地の栽培者が見本を展示し、それを説明し、いろいろ宣伝をしたのは非常によかったのですが、その土地の新聞は殆んど出してます。一番ふるっているのは福岡の「夕刊フクニチ」で、これは別に頼んだわけではないが、先方で大々的に、約一頁近くの記事を出して見出しに“肥料こそ農作物の敵”とかと出てました。熊本あたりもなかなか盛んでした。九州一円は大いに動くだろうと思ってます。そういうようなわけで、九州に限らず他の地方も、地方新聞はみんなよく出してます。以前みたいに「ひやかし」という事なく、真面目に、よく書くというよりも正直に書いてます。これは大変よいです。
ところが大都会の新聞は一言も出さないのです。これが今言ったとおり、農民や地方新聞がケツを叩くので、最後に大都会の新聞はやっと立つのでしょう。ところが新聞は、大衆の木鐸(ボクタク)で、輿論を喚起(カンキ)するとか、というものですが、目下はそうではなくて、少なくとも私のやっている仕事においては指導される地位になったのです。それでいろいろ指導されながら、動くのに暇がかかるというわけです。モウロク親父みたいなものです。半分中気になったようなもので、腰を曲げたり足を動かすのが億劫(オツクウ)なのでしょう。そう言えば怒るでしょうが、怒るなら、神経があるのだから結構です。アメリカあたりの新聞はそうではないらしいです。批判などがなかなか早いです。確かに国民をリードしている事がよく分ります。
どうも日本の新聞は記事がだんだん遅くなって来たのです。日本の新聞も前にはそうでなかったです。識者の間にも相当新聞に対する、そういったしつけしている事を聞きます。今ラジオで日曜の夜新聞論調というのをやってますが、痛快な事があります。それで日本の新聞は品がよくなりすぎてしまったのです。実に大人しいです。批判なども、善いとか悪いと断定する事はないので、大抵どっちつかずな、非常に無事な書き方になってます。だから新聞論調というのは面白くないです。ラジオで新聞論調をやってますが、どの新聞も同じ事を書いてます。特色はなくなってます。というのは新聞界に人物がなくなって来たのです。以前には新聞界に人物があって、それが新聞界の特色だったのです。今はそれがなくなったのです。という一番の原因は、株式会社になったためです。営利事業ですから、営利事業ならば、他の事に騒いで余計な手数や何かがかかる事は損ですから、算盤上合わないから、株式会社になった以上はやはり利益を上げなければならないし、配当を上げなければならないというわけで、なるべく損のゆくような事はしないで、よく行って儲かるという……そうばかりではありませんが、それも相当あるのではないかと思うのです。
ですから救世教の事もいろいろ知っているのです。確かに“薬は毒だ。無肥料でなければいけない”という事は知っているのです。朝日新聞などは随分いろいろ調査したようですから……。そういうようで知っているが、そういう事を言って肥料会社を刺戟したり、売薬会社を刺戟する事は、つまり新聞営業としては、むしろ損はいっても得はゆかないから、そういうようなわけで、無事に済ましているというわけではないかと思うのです。それで仕方なしに私が特集号百万部を作って、戸別に農村に売るよりしようがないのです。本当はこうしなくて、新聞が公平にやるとすれば、私の方でそういった本を書いて新聞広告をすれば一番早いのです。手数がかからなくてよいのです。ところが新聞は救世教の広告は引受けないというのです。それは美術関係の事は喜んで引受けますが、農業に関した事、医学に関した事は引受けない……のではなくて、引受けられないのです。そういう方面からの救世教に対しての非常に強力な何かがあるわけなのです。それは新聞営業から言えば不利ですから、引受けないのは当然かもしれないです。しかし世界人類、国家的見地から言えば甚だ間違っていると言ってよいです。そういうわけだから、私がいろんな肝腎な良い事、世の中のためになる事をするのに、新聞を利用する事ができなくなったのです。馬鹿な話です。それで、どうせ良い事をするなら、今までありふれた事ではみんなやっているから、それでは当り前の事です。それで人が喫驚するような、目を見張るような事こそ、今までにない文化の進歩ですが、それを新聞がとめてしまうのです。ですからこの事を本当に考えたら、実に日本の新聞というのは、その点において不思議な存在です。ですから新聞は、報道機関だから報道するだけとしたら、官報や小説、雑誌と同じものになります。新聞はその国民の知識を開発させ、文化の発展に役立たせるというのが生命ですから、新聞は甚だ情ない事になったわけです。
それで、しようがないから、実際戸別訪問するよりないという事になったのです。新聞の沢山ある国が、世の中の人に良い事を知らせるのに一軒々々訪ねて行かなければならないという、実に文明国として信じられないような状態です。しかしそうかといって、新聞が目が覚めるまで待っていた日には、日本は、去年のような凶作が続いたら国家は大変だから、しようがないから新聞は当(アテ)にしないで、こっちがじかにやらなければならないというわけなのです。でも幸い、予期以上に新聞は売れます。そうして日本全国的に農民が自然栽培によって大いに増産になって、そうすると大問題になりますから、それから都会の新聞などが慌(アワ)てて目を白黒する事になるでしょうから、実に悲喜劇です。見物(ミモノ)だろうと思ってます。しかしこれは先方が悪いのですから、どうも止むを得ないです。
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それから昨日、何時も言うグリリ夫人が連れて来た、アメリカの文化事業といったような機関があって、そこから日本の文化財の研究に来たのです。何十人か来たらしいですが、その中の一人なのです。婦人ですが、やっぱりなかなか頭の良い人で、流石(サスガ)に見方が急所に来ているのです。というのは、日本の美術は今までアメリカで知っているのは徳川末期までです。尤も浮世絵などでも徳川末期までですが、明治以来の文化というのはアメリカでは全然知らないのです。明治以後にも相当良い物が出来ているに違いない、それを研究しろ、という意味で派遣(ハケン)されているのです。二年の予定だそうです。
それで明治以後の美術とすると、とに角元は絵だから、明治以後の日本で一番偉い絵書、第一人者は誰だ、それは栖鳳だというわけで、栖鳳を研究しろという方針でやり始めると、作品が纏まっている所はなかなかないのです。栖鳳を持っている人で二幅か三幅しかないのです。それで私の所に栖鳳が一番あるという事を知ったので来たわけです。これは前からそういう話があって来たのです。それで、ついて来た人は栖鳳の息子ですが、息子と言っても、外国に長く行っていて英語はペラペラですから、絵の説明と、話をし合うのに非常によいです。ごく適当な人です。そういうわけで、私の所で三分の二(箱根にもありますから)ぐらい見せました。それで、あんまり多いので喫驚してました。特に栖鳳の息子は、今まで随分方々に行ったそうですが、必ず偽物が混(マジ)っていると言うのです。まず普通三割は偽物だと言うのです。ところが此処に来て見ると、偽物が一つもない、全部本物だ、実に珍しいと言ってました。そういうわけで、向うの目的としては非常によかったのです。栖鳳を研究するとしたら、私の所に来るよりないでしょう。私は栖鳳が一番好きでしたから、約十年ぐらい前から栖鳳の良い物ばかり蒐めました。栖鳳でもやっぱり悪い物も少しはありますから、そういうのは、はねのけて、ごく良い物ばかり選ったわけです。それも以前だからあったわけで、今日では殆んどないです。浮動している物は世の中に無くなったわけです。そういうわけで、非常に喜んでました。
又箱根にあるのも見なければならないから、来月箱根に来るように言ってやりました。これについて考えてみると、アメリカがそういうものに対して実に熱心であると共に、昨日来た婦人は実に熱心です。私なども、あんまり熱心なので喫驚しました。それをもってみても、アメリカが日本の文化財に対して如何に関心を持っているかという事が分ります。話を聞いてみると、今アメリカでは日本の美術という事に非常に注目を引いて来たのです。だから日本熱というような傾向が出て来たのです。だからこれから大いに私の方の仕事をやってもらいたいと……
これは具体的の話ではないが、大体先方の意向からみると、アメリカで日本文化を世界的に引上げて、文化運動とか文化連盟というような機関を作って、大いに活動したい。それには日本で救世教を本部にする、中心にするというような考えがあるらしいのです。ですから、そうなるだろうと思ってます。それについては、いろいろ会議をするとか各国の人が集まるとか、泊って食事をする設備も欲しいと言ってましたから、熱海の美術館はそういう設備もするからという事を言いました。ですから今度の熱海の美術館は、各国の専門家やそういった希望の人達が一年に一回とか、半年に一回というように来て、各国に美術館を造るとか、或いはその国の特長のある美術品を交換する……と言っても貸し借りして、世界的に美術思想を大いに涵養(カンヨウ)するという、そういう機関、つまりユネスコ的の文化財方面というような機関、そういうものが出来るだろうと思ってます。それで熱海の美術館を本部にするというような事にして、そうなると大変な大きな事業になります。無論神様が世界に地上天国を造る、その一つの準備になるわけだから、無論出来るに違いないですが、そういうふうになって来たという事は、余程面白くなって来たと言えます。
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又、来月の一日から三越で古九谷焼の展覧会をやり、私の方でも幾らか出します。それが十一日まであって、九日から「肉筆浮世絵名作展」があります。今まで肉筆の浮世絵というのは人があんまり見た事がないですが、それはあんまり見せるような所がないからです。ですから浮世絵展というと版画です。ところが今度初めて肉筆の浮世絵展ができるのですから、大いに人気を呼ぶだろうと思います。
というのは、版画を外国に持って行かれて、日本の浮世絵というものは世界的の地位になったわけです。そこで浮世絵というものは版画のものだというように思われていたのです。特に日本が遅ればせに外国の刺戟を受けて、日本人もそう思っていたのです。尤もそれも訳があるのです。つまり版画の方は沢山出来た事と、庶民階級に散らばって、沢山あるというについて、手にも入りやすいし、目にも触れやすいという事、しかし肉筆の方はまず大名とか金持とか、都会などでも庶民階級よりか、幾らか懐(フトコロ)の温かい連中が持っていて、床の間にかけて大切にしていたのです。そこでそれを集めるのも大変だし、見る機会もあんまりない、ところが終戦後そういう物が大分出て来たのです。丁度私は、版画というものはあんまり興味がないのと、どうしても肉筆に限ると前から思っていたので、割合に安く、かえって版画より安かったのです。ですから私はできるだけ蒐(アツ)めたのです。考えてみても、版画というのは版で刷(ス)ったのですが、普通一種類二百枚とされてます。それで肉筆というのは一種類一枚で、それも念を入れて画いたものです。大きさも大きいし、立派な絵具も使ってあるし、力を入れて画いたのですから大変なものです。しかしその方が安いというのですから、そんなばかな事はないと思って、私はドンドン買ったのです。ですから日本中に数は幾らもない肉筆を、安く忽ち集まったわけです。それで今度肉筆名作展というものをできるわけです。これは東京と大阪と福岡で順繰りにやるような話ですが、随分評判になるだろうと思ってます。ですからいずれ肉筆浮世絵展というのはアメリカあたりでも見たがるだろうと思ってます。いずれそうなるだろうと思います。
それからもう一つ注目すべきは、今までデパートの展覧会というとお寺でした。法隆寺だとか興福寺だとか、いろんなお寺展覧会ですが、これは殆んど廃(スタ)ったわけです。というのはあれは一般人には面白くないのです。阿彌陀様、観音様と言っても、何処でも大した違いはないので、ただ珍しいだけで、二、三度見れば沢山です。ところがこういったようなものは何時見ても分りますし、誰が見ても面白いですから、これからは又一頻(ヒトシキ)りこういった美術館の美術展というようなものが大いに流行(ハヤ)るだろうと思います。そうなると私の方の美術館より他に本当にやる事はできないです。というのは個人的には大抵出尽くしました。ごく素晴しい特級品だけを持っているので、そういうのは手放す事も出品もできないのです。そこにもっていって税金を怖がってます。ですから出しても、名前も出せないようなわけです。
ところがこっちの美術館の方は大威張りに出せますし、品物も豊富にあります。と言っても私の所だけです。他の美術館は二、三回やれるだけぐらいなものです。それも油絵ぐらいなものです。東京では根津美術館ぐらいです。長尾美術館は大分品物を減らしました。大倉集古館は駄目ですし、それから又他の美術館は油絵ばかりですから、これは散々見尽くしたし、油絵はやはり一般には向かないです。結局私の方が一人占めというような形に、自然になって来たわけです。私の方は今デパートの展覧会をやっても、一々違ったものを十何回はやれます。だから大いに美術思想を養うという意味において、非常によいと思います。幾らか救世教の宣伝にもなるわけです。それともう一つは、新宗教というのは社会的に軽蔑されている、この観念に大いに役立つと思ってます。
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三月十七日
最近新聞やラジオで伝えている二重橋事件で目が見えなくなった、山田けい子という十一になる子供が、清水健太郎という博士の手術によって見えるようになったと、写真入りでデカデカと出てますが、あんな事はくだらない事です。あれは内出血が目の裏の視神経に固まって、それで見えなくなったのです。ところが頭蓋骨に穴をあけて内出血の固まりを取ったので見えるようになったのですが、これは放ったらかしておけば、精々一年ぐらいの内に膿になって目ヤニになって出て、それで治ってしまうものです。浄霊なら一週間か十日で治ってしまいます。それだけのものなのです。それを大騒ぎをして、頭蓋骨に穴をあけて出すというのですから、実に野蛮と言ってよいか、馬鹿々々しいと言ってよいか、こっちからみるとお話にならないです。それを大変な事のように新聞などで大騒ぎをやってますが、こっちからみると可哀想なものです。それで手術ですから、消毒薬を沢山使いましたから、その悩みが今に出ます。それは、頭に消毒薬が染みて、それが毒になって、今に必ず頭痛があります。ウッチャラかしておけばきれいに治るものを、そういった頭痛の種を作って、頭蓋骨に穴をあけてやっているのですから、実に可哀想なものです。
文化的野蛮人と言うが、それを教育しなければならないのですから、なかなか厄介な話です。医学は科学だ科学だと言いますが、本当から言うと科学ではないのです。科学まで至ってない、手前のものです。つまり「もの」というのは、本物の出る前には仮(カリ)の物が出ます。又言い方によっては、偽物の方が先に出る事があります。これはバイブルにもありますが、本当の救世主が出る前には偽救世主が出るというのですが、そういうようなもので、医学も本物が出る前に偽が出たというわけです。科学も本物が出る前に仮のものが出たのです。それを書いてみました。
御論文〔⇒私は宗教科学者だ〕【註 栄光二五五号】
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自然農法も着々と拡がりつつあり、むしろ予期以上な成績になってます。新聞も今までに随分出来ましたが、無論それだけでは足りないので、二百万も出したいと思います。そうすると全国の農家を六百万として三分の一です。それで、普通の新聞では一枚で五人読むとなってますが、これは特殊の新聞ですからもっとかもしれないが、内輪(ウチワ)にみて五人としても一千万人が見る事になりますから、相当の成果があるわけです。それについて最近聞いた話ですが、去年の特集号に出た山川技官という人が首脳者になって、農林省の中に自然農法研究会という会を作ったそうです。今のところはまだ十数人なようですが、ドンドン増える見込みなのです。来月の二日に発会式をやるというような事を聞きましたが、これは大変よい話です。とに角農林省と言えば国家的に一番の本元ですから、此処が分れば急所が解けたようなものですから、非常に結構だと思ってます。今のところは農林省の上役の方ではないのだそうですが、それでも結構です。とに角上役階級の人はこういう事に対しても一番慎重(シンチヨウ)を期しているのでしょうが、遅れるのに決まってます。
丁度それと同じような理窟で、新聞が丁度そうです。最近九州の各地で、熊本、福岡、大分という方々の展示会の報告が来ましたが、驚くべく成績がよいのです。各地の新聞がみんな紹介して書いてあり、それもみんな好意を持って、よい書き方です。これらも以前とは全然違って来たです。しかも「夕刊フクニチ」などは約半頁ぐらい書いてあり、見出しが又いいので、“肥料こそ農作物の敵”とかと大きく書いてありました。そのくらい地方新聞は大々的に扱かっているのです。けれどもこれは当り前の話です。ところが東京あたりの新聞には一つも出てないのです。これは当り前でないです。放送局などもそうです。私は毎日農業講座を必ず聞くようにしてますが、この頃は全然肥料には触れてないようです。これも少しおかしいのです。放送局にも栄光を三年前から毎号五枚配付しているのですから、読んではいるはずです。又朝日新聞などは暮あたりに大分調査して歩いたような事を聞きました。ですから百も承知しているのですが、出さないのです。これはちょっと不可解なようですが、勿論理由はあるのでしょう。ただ遅いのでしょう。
以前から“新聞は社会の木鐸(ボクタク)”とか言って、指導者だったです。ところが近来新聞はだんだん指導される方になったです。だから新聞のいろんな扱かい方をみると非常に遅れているのです。社会の方が早いです。新聞の編集などがおそろしく慎重になりすぎて、ぶちまけて言えばお上品になりすぎているのです。これは英国の新聞を真似たのだそうですが、特に朝日などがそれを建前(タテマエ)としているのです。だから実に慎重なのです。ロンドン・タイムスなどはそれで大いに売ったのですが、それがあんまり過ぎると、民主的文化の発展という事が遅れてしまうのです。私はよくは知らないが、アメリカの新聞などはもっと大胆に堂々とやっています。だから米国はあれだけ発展するのです。ところが日本の新聞はお上品になってしまっているのです。どの新聞もみな同じで、三大新聞と言ったところでみんな同じです。それから中新聞も大抵同じで、特色というのはなくなってます。
そういうものには、私のやる事は何んでも新しい事ですから、どうもお気に入らないのです。“救世教という奴はどうも物騒(ブツソウ)な奴だ”というように見ているのではないかと思うのです。そこで、私の方で新聞に広告を出そうとしても引受けないのです。三大新聞は申し合わしたように、救世教の広告は引受けないのです。しかし他の、美術館とか、そういう事は喜んで出すのです。しかし私の書いた本は“とんでもない、物騒なやろうだ”というわけです。それから又薬屋とか、肥料屋などもそうでしょうが、そういう方面の手も大分廻っているらしいのです。だから文化の発展、進歩とか、そういう事は二の次三の次で、オレの所の新聞が問題を起こさないように、なるべく無事太平にして、少しでも儲かった方が得だというのでしょうが、これはそういう考え方も無理はないのです。新聞社はみんな株式会社ですから、ある程度利益を上げなければ、株主が怒りますから、それにはなるべく問題を起こさないように、信用を傷つけないように、ごく慎重に構えているのです。それはごく利口なやり方です。しかしそれだけ新聞の生命というものが薄れて来るのです。日本はこれからまだ大いに発展しなければならないという国なのに、そういうふうにオサマってしまってはしようがないです。
これがやっぱり政治上でも同じようです。民主的の、進歩的の、そういう気分が薄れて来たのです。政治界なども、国民とか日本の国という事は第二第三で、とに角わが党、自分達の持っている主義を立て通すという、つまり小乗的の考え方です。けれどもしかし、幾らガンばっても何んと言っても、日本の農民層が自然栽培の方にだんだん増えてゆき素晴しい成績を上げて行きますから、そうなれば国民多数が新聞や政府の主義を叩きます。じっとしては居られないわけです。丁度半分中風のようなもので、手を引張るか腰を持上げれば、歩かなければならないというようになります。それでもよいのですが、ただ遅くなるだけです。
そこにもっていって、私が学者だと早いのですが、宗教家であり、しかも新宗教というと“ナンダ、戦後の国民が迷っているところにうまく便乗(ビンジヨウ)したものであり、新宗教の中ではとに角頭を持上げ出した。岡田という奴は利口なのだな、銭儲けがうまいのだな”というように見ているのでしょう。“しかし言う事はなかなか間違ってはいないようだが、あれとても一時的のもので、大して長い事はない。もう少し様子をみて、それからでいいだろう”というように至極呑気(ノンキ)に構えているのです。尤も、今まで宗教家が宗教以外のことに何んとか言ったり、乗出したりするという事はなかったのですから、それも無理はないです。だから私は宗教ではないという事を言っているのです。宗教というのは教えですから、教えだけでは、少なくとも昔の未開人ならよいですが、今の国際的の生きた世界で、そんな事で人を救えるものではないです。つまり宗教ではなくて救いの業「救世の業」です。だからとに角救世教というものは違うという事を認識させるのがなかなか容易ではないのです。美術館などもそれと同じようなわけで、今まで宗教で美術館を拵えたものは世界中にないのです。しかしこれは素晴しい神様がやられているのですから、ドンドン成績を上げて行きますから、気をもむ必要はないのです。
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それについて一昨日、アメリカの、日本で言う文化委員会といったような一つの団体の派遣者で、婦人が来ましたが、なかなか立派な人です。今アメリカで一番注目しているのは日本美術だそうです。それで今まで大体分っているのは徳川期迄で、明治以後のは全然分ってない。明治以後の日本の美術を調査研究しろというので、二年間の予定でその人が日本に来て、今その仕事をやりつつあるのです。その着眼がなかなかよいのです。何んといっても絵画だろうから、絵画を最初に取上げて研究するという事になったところが、明治以後で一番の絵の名人は栖鳳だという事に気がついたのです。これは正確です。今京都の大学院に留学生という名義で来て、栖鳳研究に没頭(ボツトウ)しているのです。ところが栖鳳を一番持っているのは、日本では私なのです。又私は栖鳳が一番好きで、十年ぐらい前から栖鳳だけを蒐めていたのです。それがうまく役に立ったわけです。そこで、栖鳳をいろいろ見せてもらいたいと来たわけです。それについて丁度よいのは、栖鳳の息子(と言っても五十以上の人で、フランスで、美術の研究をしたようです。無論イギリスもアメリカも研究して、英語が非常にできるのです)が来て、栖鳳の説明と通訳をしたのです。凡てお誂え向きというわけです。三分の二は私の所で見せましたが、後は箱根にあるのです。そこで非常に喜んで、今自分が最も研究しているところにピッタリしたわけです。それでとても熱心に一々書いて、あっちに報告するのだそうですから、無論あっちの雑誌か何かに出すのでしょう。そういうわけで、熱心にやってました。もう一度箱根にある物を見せる約束をしました。米国でも、日本人の芸術的感覚、そういう事が非常に勝れているという事をだんだん認めて来たのです。特に去年、各地で日本美術品の展覧会を開きましたが、あれらが大きな刺戟になって、今非常に日本美術を国民的に見たがり、日本熱と言ったようなものが非常に盛んになって来たそうです。そういうようなわけで、私もちょっと話をしましたが、日本人の美術に対する勝れた感覚、そういうものは世界で一番です。それがアメリカ人にも余程分って来たようです。結局、これはまだ具体的には言えませんが、世界の文化連盟というようなものが作られて、日本を本部として、ユネスコみたいなような機関が出来そうなのです。これは神様の方ではチャンと……出来るのです。それで、その本部を熱海の美術館という事になるだろうと思ってます。実は、日本美術を大いに研究するには、泊る所等の設備を是非ほしいというような事を言ってましたから、そういう設備は私の方でするからと言っておきました。そういうような工合で、文化連盟の本部が熱海の美術館という事になるでしょう。アメリカなどの意向というのは、こういった美術を盛んにする事は、平和のための一番力強いものだ、という事を大いにやろうとしているのです。それでこれがアメリカの平和主義に対する大きな事業というわけです。だんだんアメリカのそういった識者、そういう面と密接な関係になって来ると思います。それで“日本の外務省は全然駄目だ”と言っているのです。“そういう事に何も関心を持ってない、どうしたものでしょう”と言うから、“とに角政府でやっている事は全然駄目だから、これから私の方で、政府で出来ない事をやりますから”と言っているのですが、政府は看板として、仕事はこっちでやるというわけです。これも地上天国を造る素晴しい要素になって行くわけです。
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それから来月の九日から三越で「肉筆浮世絵名作展」をやりますが、今まで浮世絵というと版画で、版画は世界的に拡がって、これはむしろ日本よりかアメリカの方が余計あります。アメリカのボストン博物館にあるだけでも日本にある版画の十倍あります。ですから大したものです。ところが肉筆というのは殆んど無いのです。これは何時かも言ったとおり、肉筆を見る機会もないし、手に入る機会もないのです。そこに私がうまく目をつけたのですが、日本人はやっぱり西洋崇拝ですから、浮世絵は版画というようになっていたのです。そこで版画は高いが肉筆は安いのです。私はそこに目をつけて、二、三年前から蒐めました。その肉筆の展覧会をやるのですが、これは初めてですから、みんな喫驚するだろうと思います。“肉筆とはこんな良いものか、とても版画どころではない”と、とても評判になるだろうと思います。九日から十八日までです。それから白木屋でも、もうじきやるでしょうが、浮世絵版画展です。これは私の方と博物館と、もう一カ所で、歌麿、写楽といった浮世絵としての一級品をやる事になってます。そういうような工合で、デパートが今まではお寺展覧会でしたが、お寺はもうすっかりやってしまいましたし、これはあんまり感心しないです。ただ珍しいだけのものです。それでこれからむしろ庶民的展覧会が流行になるだろうと思います。そうすると一番品物があるのは私の所ですから、デパートを介して箱根美術館というものは非常に有名にならざるを得ないという事になると思います。まだいろいろ話したい事がありますが、時間が来ましたからこのくらいにしておきます。
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春季大祭御教え
三月二十三日
最近霊界が余程変って来たのです。変ったという事は、いろいろな霊が、だんだん昼間になって来たため、いろいろな事が分って来た。それで、大いに救われたいというわけで、慌て出したのです。あっちこっちに神憑り的の事が大分始まって来たのです。それはみんな別に悪い意味でなくて、良い意味のものです。つまらない狐のいたずらとか、そういう事でなくて、真面目な、本当の神憑りなのです。この人は一人ではないので、二、三人ぐらい、若い娘さんにいろんな霊が憑っており、現界の人では、マレンコフ、モロトフ、アイゼンハウアー、毛沢東、ネール等が憑って来たのです。これは今度の地上天国(註五十八号)に出しますが、その中でごく最近霊界の大分偉い連中が憑って来て、その興味ある所を選って、それを今読ませます。
今の中山ミキさんは、その当時話したと思いますが、私が留置所に居る時に、いろんな教祖を呼んで話した事がありますが、その時やっぱり中山ミキさんの霊を呼んでいろいろ話したのです。その事なのです。それから「明主」とありますが、これは私の代理なのです。つまり私の身代りです。それが或る場合にはこういう事をされるわけです。これについて、昨日非常に面白い事があったのです。それは或る若い女ですが、去年少し頭がおかしくなった若い妻君ですが、私が治してやったのです。それでまだ少し頸の廻りに毒が残っているので、時々やってやったのです。昨日やってやりますと、いろいろ不思議な事があるので話を聞き始めたのですが、ポロポロ涙をこぼして、後から後から出て来るので、口がきけなくなり、それで少し待って聞いてみると、キリストなのです。やっぱり、磔(ハリツケ)になって長い間それが治らなかったのです。少しずつはよくなってきたようですが、すっかりは良くならなかったのです。私が浄霊してやるのですっかり治ったのです。非常に嬉しいと言うのです。それで“天の父に御目にかかれて、こんな嬉しい事はない”というような事を言って随分有難がっていました。その他二、三話がありましたが、大した事はありません。ただヨハネですが、聞いてみると、この間中からヨハネは時々憑るのです。それでやっぱりヨハネは救われたというので、私に礼を言ってくれという事を言っていたそうです。その内に、キリストが磔になった、あの霊が見えて来たのです。時々部屋の方々に見えるのだそうです。そうこうしている内に、キリストが、今言ったようなわけなのです。さっき読んだのと今話したのとは全然違う婦人です。だから全然連絡はないわけです。そういうようなわけで、霊界におけるいろいろな偉い人達と言うか、神達と言うか、いよいよこれから活動するわけです。今読んだようなわけで、総掛りでやるわけだから、本当の線に発展して行くわけです。つまり時節が来たわけです。この前には現界のいろんな偉い人が憑りましたが、特に変っている事は、スターリンは憑らないのです。それで、スターリンは救われないというのです。つまり地獄の下、根底の国に六千年苦しむのだそうです。これは霊界の最高の罪がそうなってます。現界で言うと無期徒刑です。それで六千年後に滅びると言いますか、その先は必ずしも復活するという事ではないらしいのです。マレンコフは、神様はいよいよ活動されるという事が大体分って、つまり改心したわけです。ああいう人が改心すると、力がありますから、将来良い働きをするわけです。そういうような事が出ました。勿論しかしマレンコフとか部下の者が良い働きをするようになると、それだけスターリンも救われるわけですから……。又そこまでゆけば、どんな霊でも改心しますから、結局罪一等を減ずというような工合で、だんだんに救われてゆくわけです。これは現界におけるそれと同じようなものです。それで今霊界では救われたがって、いろんな霊にだんだん分って来るのです。その現われとして、近頃になってから容易に得られないような美術品が来るのです。しかもとても値段が安いのです。道具屋が喫驚しているのです。とに角チョッと不思議なくらいです。それはどういう訳かというと、前にも話したが、名人とか、或いはそれを持っていた大名という人達が、一品でも救世教に入れるというそれによって自分達が救われますから、例えてみれば、一品が救世教の美術館に出るようになると、その手柄(テガラ)によって霊界において位が上るのです。位が上がるというと救われたようですが、中には地獄に落ちているのもあるし、八衢にグズグズしているのもあるし、そういうのが一段も二段も上がるのです。ですからそういう手柄を立てたいと思って一生懸命なのです。私の方では坐って居て、とても得られないような品物が不思議に来るのです。一昨日は、御舟(ギヨシユウ)の展覧会の全部の品物にも無いような物がパッと来たのです。これは青森県の人が余程前に手に入れていたとみえて、今非常に高くなったという事をあまり知らないとみえて、金が急に要るというので半分値以下で売りに来たのです。これらも兎に角御舟としては、私はこれ以上の物は見た事がないです。この間の松坂屋の展覧会でも、百点以上ありましたが、その中にもないほどの良い物です。これも全く霊界で御舟が一生懸命に運んだわけです。そういうような事が時々あるのです。ですから今に熱海の美術館が出来ると喫驚するわけです。絶対に売らないと言って威張っていたようなものがヒョロヒョロと入って来るのです。ですから非常に楽に入るわけです。従って、無論美術館などは、とに角世界中の話題に上るわけです。何時も話をするアメリカの人達も、美術館に非常に期待しているわけです。将来なかなか大きな計画をしているらしいです。つまり私の方を中心として文化的のユネスコみたいなものを作ろうという事を考えているらしいのです。無論そうなるわけです。
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二、三日前に私はメシヤ会館を見に行きました。相当廻りがぬれたが、足場がまだ取れないのです。しかし大体は分ります。足場も今月一ぱいぐらいには取れるわけです。それで私が一番関心を持っていたのは外郭です。ああいう建築というのは、内部は誰がやってもよいのですが、外部が一番難かしいのです。横の幅、高さ、縦と横、それが調和してなければいけないのです。それから縦の棒、柱形であります。その太さ、それから出ッパリ、そういう点が全体的にマッチして、欠点のないようにするという事が、ああいう大きい建築の一番の焦点(シヨウテン)です。見ますと、私の思うとおり少しも欠点がないのです。まあ大いに満足したわけです。というのは、大きいですから小さいモデルなどでは本当には分らないのです。そうかと言って、モデルを実物大に建てるというわけにはゆきませんから、大体のカンでゆくよりしようがないです。しかし非常に良く出来たと言いますか、良いと思います。あれに足場が取れて、下から周囲に木を植えるとか、芝を植えるとかすると、一個の建築芸術で、芸術品が出来るわけです。これはおそらく世界にないでしょう。私は外国の建築の雑誌をとってます。立派な建築はみんな写真でそこに紹介されますが、今度のメシヤ会館ぐらいの建築はまだ見ません。今流行のコルビュジエ式と言っても、みんな実用建築です。勿論宗教的のような物はないです。今度のメシヤ会館は、ごく近代建築に宗教的の感覚を表現したというところに価値があるのです。昔の宗教建築というと、いろんな彫刻をおいたり、屋根をそらせたり、細かい所に絵画的や彫刻的のものをあしらって、いろいろして荘厳みを出したわけです。ところがメシヤ会館は単純極まるもので、曲線を使わないで、全部直線です。ただ色とか形で荘厳みを出したわけです。ですから出来上ったら建築上からの世界的問題になると思ってます。それで横から後の方にかけて全然窓なしの無地にしたわけですが、これも大変な意味があるのです。前から少し横の方にだけ縦の線で、白と鼠で調和させて、そうして横の方は非常に広い場面を白色の無地にするという事は、一つの建築美から言って、何んと言いますか、新しい一つの、全体調和を破っているようで調和するというところを狙ったわけのものです。普通ならどうしてもあそこに窓をつけたいところなのです。それで、わざと窓をつけないところに面白いところがあるのです。あれは大抵な人は窓をつければよいなと、思うだろうし、言うだろうと思いますが、そういう訳です。それで段々の橋のような手摺や、あの感覚、それからチョット曲線で道をつけるわけですが、そうしてその道の廻りは芝生にするわけです。いろいろな事は今話しても分りませんが、出来上れば分ります。それからもう一つ言わなければならない事は、大体十一月出来(シユツタイ)で開館式をやるつもりだったのですが、どうも神様の方ではそれはいけないのです。それで又延びました。来年の三月三日が開館式です。つまり三十年三月三日で、ミロクです。それで今年の二十九年では数字が悪いのです。とに角ミロクというのは数字です。それで今までのミロクは五六七と書きましたが、これからは三六九になるのです。それで五六七は日月地です。つまり基本的の数字ですが、今度は現界の経綸になると三六九になるのです。あらゆるものが三六九が基本になるわけです。それで熱海の経営というものが、つまり現界のサンプル、模型になるわけです。だから会館もそういう意味になるわけです。勿論展望台も一緒に出来ます。それから美術館という事になりますが、美術館の建築の設計はもう出来てます……と言っても、私の頭の中にです。これはメシヤ会館とはまるっきり違います。勿論箱根の美術館とも違います。これは荘厳というよりか、芸術的の一種独特のものが出来るわけです。これもアッと言うようなものが出来るわけです。美術館は来年の秋までに造るはずです。これは大いに楽しみにしてよいと思います。それで其処に出る品物も大体見当はついていますが、幾らかは入っています。大抵見当つけると、何んとかして手に入るようになるのです。ですから「アレ」と狙うと、やっぱり入って来るのです。そういうわけで、出来たら、これこそ世界をアッと言わせられます。
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それから、自然栽培について、農林省の役人で会を作ったのです。委員は何んでも八人だそうですが、農林省の役人だから面白いのです。本元ですから……。これは上の人ではないそうですが、そう下でもないでしょう。中堅所という人達です。尤も上の人が分っても、おいそれとはやらないわけです。やはり一つの権威もあるし、特に日本はそうです。面目とか権威というようなものがあるから、おいそれとはゆかないのです。やっぱり全国的に農村が動いて来て、それから農林省の中堅所が動くというように、いろんな条件が合って来て、新聞も書かなければならないでしょう。それからいよいよ法規を拵えるとか議会に出すとか、という事でだんだん実現して行くのですが、それまではなかなか紆余曲折(ウヨキヨクセツ)、いろいろな事がありましょう。これもその一つですが、これは最も本元、急所ですから、大いに喜ぶべき事と思ってます。趣意書を見ましたが、なかなかよく出来てます。今読ませます。
〔⇒自然農法の一大朗報〕(趣意書)【註 栄光二五六号】
今読んだような工合ですから、非常によいと思います。それと共に農林省の役人がこういう会を作ったというその事が、自然農法の宣伝の上に非常な力と言いますか、一つの信頼感がわくわけです。今後各地方で宣伝する上においても、その土地の農事試験場とか、或いはそういった役目の人達も大いに信用してかかるという、その効果は大きいと思います。無論神様がそういうふうにしているのです。この間、各地の神様が、さっきのような工合に憑って来て、自分は自然農法の事について、これから大いに活動するという事がありました。ですから神様も自然農法で活動されているわけです。なにしろこれからは神様が総掛りで救世教の仕事をやるのですから、思わざる所や、思わざる事がドンドン出て来て、素晴しい発展の段階にゆくわけです。つまり新年早々話したとおり、今年からいよいよ表面的になるのですから、大いに張合(ハリアイ)があるわけです。だんだん“わが世”が近づきつつあるわけです。
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三月二十四日
春の大祭も、来年は新しく出来る会館でやる事になりますが、会館は前にも話したとおり、今年の秋の予定だったのですが、神様の方ではどうも春でなければいけないというお知らせがあったので、落成式は来年の三月三日という事に決まりました。第一に数字上の関係があるのです。今年の二十九年というのは、どうも数字が一番悪いようです。それで、ミロクという事は、今までは五六七で、火水土がミロクの基本的条件と言いますか、根本的の意味だったのです。火水土という事は、世界をミロクの世にするという事の、あまり直接的ではなかったのです。そこでこれからは三六九という数字になるのです。そうすると、これは直接世界の経綸という数字になるのです。というのは、あらゆるものが三六九になってゆくのです。今にそういう事は書きます。つまり世界の新しい文明がそういう組織になるわけです。そういう意味で、熱海の経綸、地上天国というものは、世界の現界の経綸の雛形(ヒナガタ)になるわけだから、開館式もそういう意味になるわけです。
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それから最近霊界が非常に変って来たのです。つまり霊界における今までの神様や仏様、そういう霊達が、だんだん救世教の事が分って来て、みんな、御手伝いしたいという事と、それには出来るだけ自分が浄まらなければならないというわけです。神様仏様というと浄い御方のように思われますが、なかなかそうではないのです。神様や仏様が沢山罪を作りもし、犯しても来たのです。けれども、ただ人間と違うのは、ああいう方達は意識が悪ではないのです。根本、動機は悪ではないので、善です。しかし本当の事が分らなかったために誤まったのです。善いと思っていた事が善くなかったという事が神様仏様の罪なのです。だからその罪を御詫びして、救世教のために大いに働きたいという気持にだんだんなって来て、それで霊界においてはそういう働きが非常に盛んになって来たのです。それで現界において今活動している人達、アイゼンハウアーとかマレンコフとかネールとか、そういう人達の霊も霊界でいろいろ動きましたが、それは生霊です。それで私の生霊も大いに活動したわけです。それで私の生霊というのは、私の代理をやる神様がいろいろあるのです。それでその神様がやられたわけです。そういう記録が出たのです。これは今度の地上天国にも相当出しますが、その中で特に深い意味と興味と両方あるようなところを選って、今読ませます。
こういうような工合で、これからそういう霊達が大いに働き出しますから、余程面白くなって来たわけです。それについて一昨日、或る信者の若い妻君で、去年精神病的なようになって、私が治してやったのです。それで時々浄霊してやっているのですが、一昨日来た時にキリストが憑っていたのです。今まで磔になっていて、それを治す神様がなかったのです。それで相当長く苦しんでいたのです。幾らかずつは良くなっていたが、なかなかすっかりは良くならないのです。ところが私が時々浄霊するためにすっかり治ったのです。それで、非常に嬉しいという事と、キリストが言うには“懐かしい天の父に御目にかかれた”というような事を言って、ポロポロ涙をこぼして嬉し泣きに泣くので、口がきけなくなって、泣き止むのを待っていたぐらいです。そういうような工合で、今の神憑りとチャンと合っているわけです。そういう時期が来たわけです。私が前に歌で“神や仏を救わなければならない”という事を始終言いましたが、そういった救われる時期がいよいよ来たのです。やはり神様仏様が元ですから、神様仏様が救われなければ、人間は救われないのです。つまり今までの神様や仏様というのは本当の事を知らなかったために間違った教えや事を説いたわけです。バイブルにしろ経文にしろ、随分間違った所があるのです。そのために幾ら研究しても本当の事が分らないからして、覚りを開けなかったわけです。又そのために、人間が本当の事を知らなかったのです。つまり文明というものが間違って、それで人間が苦しみ抜いて来たわけです。例えば医学にしろ、全然間違った事をやっていたという事など、そのために人間が病気で苦しんだり、早死にしたりするという事なども、元は本当の事が分らなかったためです。という事は、本当の事が分ってはいけなかった主神の経綸なのですから、それでよかったわけです。それをもう本当に分らせて本当の文明を作らなければならないという時期が来たという事も、やはり主神の経綸なのですから、やはりそれでよかったのです。これからの人類、人間は、本当の幸福というものを得られるわけです。その役目が救世教です。ですから“来たるべきものが来た”というわけです。今までの間違った世の中が続いてはいけない経綸からそうなったのです。だからそれがどうこうという事は人間には分らないのです。今丁度、何時も言うとおり、夜の世界が昼間になる、その分れ目なのですから、実に重大な時期であると共に、その役目に選ばれたる救世教の人達は、まず大変な仕合せなわけです。人類始まって以来ない幸福と言ってもよいわけです。そういうようなわけで、著(イチヂル)しい霊界の変り方が最近非常にはっきりして来たわけです。その事について、よく分る事は、最近美術品の素晴しい物が安く入って来るのです。到底手に入らないような物がパッパッと入って来るのです。それはどういう訳かというと、霊界において、いろいろな名人とか或いはそれを集めた大名とか、権力者という人達がだんだん分るにつれて、救世教にそういう良い物を納めたいというわけで、大いに活動しているわけです。これは実に気の毒な話ですが、仮にこういう物ならこれを、私が欲しいと思い、美術館に無くてはならないと思うが、なかなかそれを手放さないのです。そうすると手放さなければならないように、財政を苦しくしたり、売らなければならないようにさせるのです。それはその人の祖先がそういう美術品を珍重していたとか、拵えたとかという意味で、私に売らせようとして活動します。そこで金に困るようにするのが一番ですから、金に困らせるのです。しかしそのために金に困って売ると、そこの家は本当の良い事をすることになるから、それからは其処の家は本当に仕合せになるという事になるからして、困るというのは一時的のものです。そういう事が近来非常に著しくなって来たのです。近頃買う物は、道具屋より安く買えるのです。道具屋が驚いて、それなら自分も買いたいというのが沢山あるのです。それは事情がそういうふうになるのでしようがないです。そういうわけで、今度出来る熱海の美術館も、天下に得られないような品物が相当出ると思ってます。この間も光悦の或る物が手に入ったのですが、そうすると“あれは絶対に売らない事になっているから、そんなはずはない”“しかし入ったから仕方がないではないか”と言ったのですが、その人も長い間欲しいと思ったが、どうしても売らないという事になっていたのだそうです。だから“不思議だ不思議だ”と言ってました。そういう事がよくあるのです。そういうわけですから、無論この美術館は世界的の素晴しいものになります。東京からも、見たがる人が非常にありますから、神様は便利なように、これから熱海・小田原間の道路は改正になります。拡げて、今まで熱海・小田原間は一時間半かかりましたが、半分ぐらいでよい事になりましょう。そうすると東京から一時間半乃至二時間で来れますから、美術館だけを見に、日帰りで来られます。それでその道路が美術館に行くような事になって来て、私の方でも大分手伝いますが、神様のやる事ですから寸分隙がないです。時期に応じてチャンとそういう工合にやってゆくのです。それで駅からも、もっと広い道路になってバスが自由に行けるようになります。そういうようで、熱海の地上天国が出来るとなると、それを見物するために来る人が大変なものだろうと思います。
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それから、あなた方は見られたでしょうが、会館はやっと外郭が出来たのです。ああいう建築は外側が非常に難かしいのです。初めてああいう様式をやるについて、あれだけ高い大きなものですから、見本を拵えるという事はなかなかできないのです。小さい物しかできないです。そこで私は、横の寸法と縦と、それから柱形、柱の太さ、柱の厚さ、そういう事が全体的によく調和したもの、それから、なにしろコルビュジエ式というのは、世界でも実用的の建築ばかりです。無論宗教的のものなどはなかったのです。そこであの式を宗教的にというと荘厳みですが、荘厳な感じを受けるような、そういうものにしようと思ったところが、出来たのを見ると私の思うとおりに出来たのです。それで私も非常に満足しているのでそれですから建築界の話題にもなると思ってます。私は世界的の「国際建築」という雑誌を前からしってますが、外国の新しい建築は写真で紹介してます。無論会館のようなああいう様式というのは全然ないです。今まで出来た様式とは全然離れている様式ですから、いずれ世界に知れたら、世界の建築界での問題となるだろうと思ってます。それで、外の前の方の柱形の様式から横の方に白い壁で大きくとりましたが、あれは普通ならどうしても窓をつけなければならないものです。私は窓無しの広い場面を白の無地にしてしまったのです。ああいう大胆さも、今まではあまりなかったわけです。しかし近代は随分大胆な建築はありますが、それとは少し意味が違うのです。それから、足場は今月一ぱいにすっかり取れるそうですから、取れたら、周囲に木を植えたり、下は砂利を敷いたり芝生を植えたりして、全体を調和するようにします。それから展望台から行こうとする、曲った所に、チャボシバという木を二本植えてありますが、あれは見本に取寄せたのです。あれが会館の廻りにずっと植わる事になってます。それで段々からずっと向うに道がつき、その廻りが芝になって、その周囲に丁字(チヨウジ)を丸くしたものを植えます。そういうのがすっかり出来上ると、それこそ“なるほど”と思うような景観ができます。それから美術館の方も、今、行く道路を拡げました。非常に大きな道路が出来て、あそこがこれからまだ非常に変るのです。これは今チョット想像もつかないほど変ります。そこの美術館の設計も、会館とはまるっきり違った様式にするつもりです。これは尚更世界にないと思ってます。建築の色から様式から、それは西洋と支那と日本の三つを調和させたようなデザインです。ですから今後大いに楽しみにしてよいと思います。大体美術館は来年の秋あたりまでに造るつもりです。若し遅れればその翌年の春になります。それに陳列する物も、持品と、他から借りる物も相当あります。その方は神様の方でチャンと手を廻してありますから、出来たら、とに角大変なものが出来ます。だからアメリカのトリビューンの記者などは非常に待っていて、出来たら一番先にアメリカに紹介すると言ってウズウズしてます。それから、いずれアメリカのロックフェラーなども来る事になってますが、無論アメリカにもこういう物を拵えてもらいたいという事を言うに決まってますから、そうしたら、私が設計してアメリカに拵えてやろうと思ってます。金は余っているから、ウンと金をかけてやります。アメリカの各都市に地上天国の模型というものを拵えてやろうと思ってます。そうすると、それを見たヨーロッパの方でも負けずになって、イギリスでもドイツでもイタリヤでも、拵えてもらいたいと来ますから、それだけでも救世教というのは世界的になります。そういったお手並を見せておいて、そうして医学とかいろいろな間違い、文化的の間違いを指示すると、非常に楽にゆくわけです。つまり腕前を見せておいてやるわけです。日本でもそうですが、今の世の中は、理窟でも、理窟でなくて相当な事をしても、分るのになかなか骨が折れて簡単には分らないのです。そこでああいったような地上天国という、物で見せるのが、一番早いです。日本も地上天国でまず度肝を抜いて、大いに感心させて、そうしてそれからやってゆくわけです。尤も自然農法はそれほどでなくて、もうじき分りますが、一番難かしいのは医学です。それもだんだん、そういうものから分るようになるわけです。
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来月の二日に発会式がある由ですが、農林省の役人の中で十数人の人が自然農法研究会という会を作ったのです。これは一番よいと思います。なにしろ農林省の役人がそれほどに認める、しかも十数人の人が認めたという事は、“これは確かに立派なものだ、信用おける”という事になりますから、これからの農民に分らせる上において大変な力になると思います。その趣意書を読んでみると、なかなかよく出来てますから、読ませてみます。
〔⇒自然農法の一大朗報〕(趣意書) 【註 栄光二五六号】
今読んだようなわけで、非常に結構な企てだと思っています。
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それから、さっきの霊の話で言い忘れた事があります。キリストが憑った婦人が、この間中キリストの磔の像、そういうのが部屋の所々に時々見えるのだそうです。ですからはっきりしているわけです。その前にヨハネが憑ったのです。いずれヨハネの事も聞くつもりですが、一昨日の事ですから私も急いでいたので、ただヨハネという事だけを聞いたので、それ以上は聞かなかったのです。ヨハネとキリストとは切っても切れない関係で、旧約聖書はヨハネが言った事で、新約の方がキリストです。それでヨハネはキリストが現われるという一つの予言が一番の中心です。この事なども別に大して詳しく知る必要はないが、いずれ知れたら地上天国に出します。そういうようなわけで、ヨハネとキリストが本当に霊界で働き出したら、外国の方が分り出すのが早いです。神様は抜目なくやっているわけです。
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それから世界紅卍字会というのが、近頃私の方でも関係して、月に一回ずつ集まりがあります。紅卍字会の主宰者の神様は至聖先天老祖という神様ですが、この神様は、何時かも話したとおり、扶 (フーチ)と言って不思議な事をやって字を書くのですが、その時に文字を書かせるのは老祖さんの指図によって、キリスト、釈迦、孔子です(そういった七人か八人かですが)それを指図して書かせるのです。扶 (フーチ)は私は一度見た事があります。そういうわけで、つまり私がこれから至聖先天老祖の役をするわけです。ですからその指図で働く神様達が、さっき読んだとおり現われて、さっき読んだとおりの事を喋ったわけです。これは支那を救うためのごく基本になるわけです。西洋はキリスト、マホメットがこれから骨を折って、東洋は今言ったような釈迦、マホメット、孔子というような霊が働くという事に、これからなるわけです。そのために今度憑って、それで憑った人は娘さんが二人です。それですからそういう事に全然無関心で知らない人がかかるのですから、かえってよいです。そういう事を知っているような人だと、やっぱりその人の腹で作ったように思われますが、神様は如才(ジヨサイ)なく、そういう事を全然知らない人を選んでやるわけです。
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三月二十五日
今年の初めに言ったとおり、霊界が非常に変って来たのです。という事は、霊界におけるいろいろな偉い、各宗教の教祖とか、その弟子とか、そういったような人達の霊がだんだん分るに従って、霊界が明るくなって来るので、それと共に大きな世界の切り替えに……そういう事が分って来て“これはこうしては居られない、ここで大いに考え方を違え、救世教のために働かなければいけない”というわけで、信者の人の中でやっぱり相当因縁のある人に憑って、私にいろいろ訴えるのです。まあ救いを求めるのです。そういう事が数カ所に出て来たのです。これはみんな正確なのです。いろいろありますが、その中で最も興味のある重要な所だけを発表しようと思ってます。今読ませますが、この他にもあります。それは時期の関係などでもう少し発表できませんが、それは非常に面白い事です。今読ませるのは割合短かくてはっきりしている事なのです。それで、この神様の取次ですが、それは若い女性で、大体二人です。その他の手伝いのような人もありましたが、これを喋った人は若い女性二人です。他に審神者なども二、三居るのですが、それは必要ないが、これだけ読ませます。
それから、ここに「明主」としてありますが、それは私の身代りなのです。私の身代りをするのが、霊界に幾人か居るのです。ですからここに「明主」としてあるのは、やはり私と同じと見てよいのです。まだ他に、現界の偉い人達、マレンコフだとかアイゼンハウアーだとか、そういう人達のは、今度の地上天国に出すつもりです。そういうのは生きている人ですから生霊です。こういうような工合で、霊界ではなかなか大変なのです。これについて面白い事があります。二、三日前に、信者の若い妻君で、近所に居るのですが、去年ちょっと精神病的になって、私が治してやって、もうすっかり治ったのです。それでまだ悪い所がちょっとあるのです。頸の廻りに固まりがあるので、時々やっているのです。それで二、三日前に来た時に、浄霊を始めると涙をポロポロこぼして泣き出したのです。大抵分ってますが、聞いてみるとキリストだと言うのです。それで“今までの苦痛をすっかり治していただいた。しかも天の父様に御目にかかれる事になったので、嬉しくて嬉しくて、話ができない”と言うのです。なにしろ涙をポロポロこぼして話もできなくなったので、暫らく待っていたのです。その内に話ができるようになって話を聞いたのです。そうしてみると、磔になったのが今まですっかり治っていなかったのです。多少は治っていたのでしょうが、その苦しみで、相当長い間地獄に居たのです。それが私の浄霊によってすっかり治って、非常に嬉しいのです。ですからこれから大いに働かしていただきたいという事を頻りに頼んでました。尚聞いてみるとこの間中キリストが磔になった霊が、其処の家の部屋の方々に時々見えるのだそうです。そういうわけで、つまりキリストが救われたわけです。それによって、これから世界的に外国の方へ大いに働くわけですから、非常に結構なわけです。又本人に聞いてみますと、なんでも一カ月か二カ月前にヨハネが憑ったそうです。それでやっぱりいろんな話があったそうですが、いずれ聞いてみようと思ってます。その時は急いだものですからそれっきりで止しましたが、とに角今読んだ神憑りの人とは全然違うのですから、それがかえって面白いです。それでキリストが憑った人は、クリスチャンでも何んでもないのです。今まで別に信仰がなくて、救世教には何年か前に信者になったわけです。それから、最近伊弉冊尊も憑ったそうですが、それもいずれ詳しく聞いてみようと思ってます。そういうようなわけで、霊界が如何に変って来たかが分るのです。今読んだように、マホメットとか釈迦、そういう霊がいよいよこれから、つまり救世教のために働くわけです。天理教祖のは昭和二十五年に静岡の留置所での事で、これはあの時話したつもりですが、あの時に呼んで教祖にいろいろ話して、助けるからという約束をしたので、救っていただいたその礼を述べたわけです。ですから、だんだん発展が著しくなるというわけです。結局、これは宗教に限らず何んでも霊です。霊界において霊が働かなければ駄目なのです。ところがそれを知らないと、体だけと思ってやるからして、人間的に幾ら骨を折っても、うまくゆかないわけです。そういうようなわけで、もう一つの霊的な現われは、私が美術品を蒐めてますが、これが実に始終不思議があるのです。最近になって特に不思議な事が多くなって来ました。というのは、私が欲しいと思うと必ず入って来るのです。とても手に入らないような物が入って来るのです。それはやはり霊界で、それを作った作者とか、或いはそれを蔵(シマ)っていたり、愛玩(アイガン)していた昔の大名とか、いろんな富豪とか、そういう人達が手柄をしたいために、殆んど競走で私の方に美術品を入れようとしているのです。というのは、一つでも御用になると、そうすると霊界において地位が上るのです。まず、地獄に居た霊でも、段が一ぺんに上りますから、大抵なのは八衢ぐらいには行くわけです。それから八衢に居たものは天国の最底の所に上がるのです。そういうようですから一生懸命に御用をするわけです。さもなければ僅かな間にそんなに集まるわけがないのです。来月の九日から三越で肉筆浮世絵名作展があります。これはこの間から知らしておきましたが、肉筆展というのは初めてなのです。今までは浮世絵というと版画ばかりだったのですが、今度初めて肉筆ばかり出すわけです。これが一年たつかたたない内で、正味半年ぐらいでしょうが、それで何十幅と集まったのですから、これも実に奇蹟です。それで今、浮世絵は箱根美術館が一番だということに、日本中で定評になってますが、これらもやはり霊が骨折ったものに違いないです。それで霊が私の方に入れようとする場合に、結局金が要るようにならなければ売らないからして、そこで宜しく金に困るようにするわけです。子孫の人には実に気の毒ですが、しかしその代り、その手柄によっていずれは非常に結構なお蔭をいただくわけです。私が欲しいと思ったのは、何時かしら入って来るのです。しかも非常に安く入って来るのです。ですから何時も道具屋が驚いているのです。“どうしてそんな値段で入りましたか”と言うから、“それが当り前なのだ、君達が不断高いのだ”と言うのです。つい二、三日前御舟の最高の物が入りました。今松坂屋で御舟の展覧会があって、百幅ぐらい出てますが、その中にも無い素晴しい物です。私はあんまり良くて安いので、目をこするくらいです。そういうようなわけで、如何に霊界でそういった霊が働いているかという事がよく分ります。何時か栄光に、歌麿の霊が喜んでいるという事がありましたが、そういうような工合なものです。ですから懐手(フトコロデ)していて非常に良い物が安く入って来るのです。これが如意宝珠の力です。「凡て意の如くなる」というわけです。
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それから熱海の地上天国は皆さん見られたでしょうが、秋までに出来て落成式をやる予定だったのです。ところが神様の方ではそれを押えている点があるのです。それで分ったのは、来年の三月に落成式でなければいけないというのです。なるほど、二十九年という数字が一番悪いのです。三十年の三月三日、即ち三、三、三という、そういう数字でなければいけないという事なのです。というのは、ミロクというのは、今までは五六七ですが、五六七は火水土で、つまり根本的の意味です。ところがこれから現界にミロクの世を造るのですが、そうすると現界は凡て三の数字で支配されるわけです。三、六、九です。ですからこれからは三六九の数字のミロクという意味になるわけです。これは前にも話しましたが、一切は三階級で、それが霊体で、つまり六になり、霊界、現界、それが六になり、それから三位一体になって九になる。ですから三、六、九は、やっぱり五が三、六が三、七が三という意味になります。ですから昔から言う、目出たい時の「三、三、九度」というのは、そういう意味があるわけです。そういうわけで三十年三月三日が開館式になるわけです。それではっきり分ったのです。最初会館と展望台がそれまでに出来るわけで、その次に美術館になるわけです。美術館も度々言うとおり、世界的……ではなくて世界一のものを造るつもりです。それから、今外側だけが出来た会館の様式も、随分新しい様式です。私は毎月「国際建築」という雑誌をとってますが、これは世界の新しい建築を紹介してあるのですが、それを見ても、今度のメシヤ会館のようなああいう様式は全然ないです。あれに似たものもないです。ですからあれだけでも、おそらく世界の建築界における一つの新しい様式というように、一つの話題になると思ってます。それで、ああいう建築で一番難かしいのは外郭なのです。中身の方は当り前なのです。外郭の一番難かしいのは、高さと横の幅です。この形です。これが寸分の隙がないようにやらなければならないのです。高すぎてもいけないし、伸びすぎてもいけないのです。それに縦の棒、柱形と言うのですが、その色と寸法、柱の太さと深さ、脇の壁、そういう釣合(ツリアイ)がとれ、そうして全体的調和です。それで、大きいものですから、模型は造りましたが、実際となるとなかなか違います。本当はあれだけの大きさの模型を造らなければ、思うようにはゆかないわけです。映画のセットならよいが、それにしても大変な金がかかるから、とても不可能です。それがこの間見ると私の思ったとおりの感覚です。それで私は非常に満足してます。なにしろ私のは参考も何もなくて、ただ目分量とカンでゆくのですから、普通専門家が聞いても驚くでしょうが、これは神様がやるのだから別に何んでもないのです。そういうようなわけで、あの会館でも相当注目すべき問題作になるわけです。ところが今度の美術館は、これはあれとは又全然違った、もっとずっと美術的の感覚を出そうと思ってます。それで日本風と支那風と西洋風と、この三つの特長を取入れたような様式にするつもりです。無論色と形、そういう点においても、あんまり新しすぎては軽薄になりますし、古すぎてはやっぱり現代人の感覚にピッタリ合いませんから、新しくして古い落着いた点も取入れなければならないというわけなのです。これは幾ら話したところで、実際の出来上りを見なければ分りません。これは大いに自信があるつもりですから、楽しみにしてもらいたいと思います。“細工は粒々、仕上げをごろうじろ”というわけです。
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それから自然栽培も予期以上の成績で、新聞も非常によく売れてます。今までに百三十万を突破したでしょう。ところが最近農林省の役人の中堅所でしょうが、前に栄光に出た山川という人が主になって作ったようですが、「自然農法研究会」というのです。会員が十数人だそうですから、相当有力な活動ができると思います。その趣意書を見たところが、非常によくできてますから、読ませます。
〔⇒自然農法の一大朗報〕(趣意書)【註 栄光二五六号】
そういうようなわけで、非常に力強い後援者が現われたようなものです。これは信者でない第三者であるだけに、しかも農業の一番の実権を握っている人達の計画ですから、非常によいと思います。この事の影響が大きなものがあると思います。つまり農業者が新聞を読んだり話を聞いたりして“なるほど”とは思っても、なにしろ今までの考えとはあまりに違うので、信ずるのに容易でなく、骨が折れるというに対して、農林省の役人にこれだけの固まりが出来るとすれば、“これは確かに効果があるものに違いない、信頼のおけるものに違いない”という、そういった印象を与えますから、これが非常に大きなものだと思います。だからしてこの事が一つの宣伝の大きな武器となるわけです。だから非常に結構だと思ってます。そういうわけですから、無論今年の秋の成績は素晴しい事と思いますが、ナンダカンダと全国的に大いに自然農法化するのが、だんだん顕著(ケンチヨ)になって来るわけです。
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ですから“救世教は普通の宗教ではない、大変なものだ。救世教のやっている事、言っている事より他に、本当に国家社会を良くする道はない”というところまで分らなければならないし、それが一歩々々事実において前進しているわけです。なにしろ救世教というものは、今までの宗教や科学、そういうものと非常に違っているのです。違っているという事は、素晴しいものだという事だからして、むしろ今までのいろんな事よりか反対が多いのですから、それを短期間に分らして、つまり頭脳の逆転と言いますか、頭脳革命をするのですから、とても大変なものです。けれどもそれをやるのが最高の神様ですから、到底人間の考えや想像では分らないわけです。だから地上天国にしろ、僅かの間にあんな立派なものが出来てしまうという事にしろ、今後もう数年の内に世界的の注目すべき文化事業です。だからアメリカの二、三の新聞記者などは出来上るのを非常に待っていて、出来たら大々的に世界的に宣伝すると意気込んでいるわけです。これは別にこっちで頼んだわけではないので、先様の方でそういった力コブを入れて来るのですから、非常に面白いと思います。外務大臣などにも随分話をしているらしいのですが、本当に知れ出したら大変なわけです。それで前にも言ったとおり、熱海の地上天国が出来るという事は、世界的の地上天国のごく根本の型なのですから、これが出来ると霊界では大変な事になるのです。ですから神様の方でもチャンとそういった深い計画の下にやられているのですからして、つまり会館が延びるという事も、そういう世界中のいろいろな準備、そういう関係もあるわけです。それで、さっき読んだように、キリスト、釈迦、マホメットなどという、ああいう、とに角人間的に言っても偉い人達が働くという事は、如何に大きな働きができるかという事はよく分るのです。ですから例えてみれば、キリスト教などの、二千年も前から根を張ったものが一挙に引繰返るという事なども、人間では到底想像もつかないのですが、それを開いたキリスト自身が働けば何んでもないのです。そういうようなわけで、いよいよ我々の仕事というものが世界の本舞台に上る時が目前に迫りつつあるわけです。
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三月二十六日
最近霊界が非常に変って来たために、いろいろな霊が慌て出したと言いますか、非常に変動を起こして来たのです。いろいろな霊が救われたい事と、それから救世教の仕事をしたいと(尤も仕事という事が救われる意味にはなりますが)因縁の人を通じて、そういう救いの願いやら、罪を赦されたいやらの、そういう事が時々あるのです。その中で非常に面白い事があったので、その記録を読ませようと思います。この神憑りの人は娘さんで、二人ばかりあって、それから審神者は別の人です。審神というのは調べるのです。
ここにある「明主」というのは無論私ですが、私の代理をする者も相当あるのです。その代理の一番の大番頭という、そういう霊です。それから今の天理教の中山ミキさんですが、これはあの当時話をしましたが、留置場に居る時にああいう人達を呼んでいろいろ話を聞いて、その時救われたそのお礼を言ったわけです。これについて四、五日前にチョット面白い事があったのです。それは私の仕事をしている、ごく近くの信者の若い妻君ですが、去年頭が少し変だったのです。それを治してやって、まだ頸の廻りに大分毒があるので、時々やっているのです。四、五日前に来て、これからやろうとすると、涙をポロポロこぼして非常に泣くのです。尤も、前から或る程度は分っていたのです。というのは、キリストが憑るのです。その時にもやっぱりキリストが憑って、私が質問しても、こみ上げて泣くので喋れない。暫らく待っていたくらいです。そうするとやっと喋れて、自分は長い間非常に苦しんでいたと言うのです。それが私によって救われて非常に嬉しいというわけです。それは何かと言いますと、磔になったのがまだすっかり治りきらなかったのです。それで随分苦しんでいたのです。それが浄霊によってすっかり治った、その感謝です。それからもう一つは、漸やく天の父に会うことが出来た、それが非常に嬉しいという、その両方の嬉しさで、つまり嬉し泣きです。そのような事があったのです。それで聞いてみますと、近頃その女の部屋にキリストが磔になった姿の霊が時々見えるのだそうです。それからその時の話に、ヨハネは一、二カ月前から時々憑ったようです。それで詳しく聞こうと思ったが、私は忙がしかったので、いずれそういう点も聞いてみようと思ってます。この人はさっきの霊憑りの人とは全然違う人です。キリストが自分の感謝の気持を早く知らしたいために、その婦人に憑ったわけです。ここで知っておかなければならない事は、偉い神様は決して現界で偉い人には憑らないのです。人からごく注目されないような、なんでもないような人に、かえって偉い神様は憑るのです。これはあべこべです。現界的に偉い人と思っていると案外違います。又どんなつまらない人でも決して馬鹿にできません。どんな偉い神様が憑っているか分らないです。かえって逆です。大本教祖なども紙屑屋のお婆さんです。赤貧洗うが如くで、見る影もない、ごく貧乏なお婆さんだったのです。それがとに角あんな立派な事をされたのです。国常立尊という素晴しい神様が憑られたのです。それから出口王仁三郎先生も百姓の息子です。そういうわけで、その点を余程心得ているべきです。それからこの婦人も去年あたり頭が悪い時に狐が随分憑ったのです。狐も見えますし、私が浄霊した時も狐が居たのです。それで怖がっていたのです。今度なども狐が時々憑っていたのです。ヨハネやキリストが憑った事も、狐に瞞されると思って、恐れをなして私に知らせたのです。ところがその点も心得ておかなければならない事は、善い神様ほどかえって狐を使うのです。というのは、普通の人間に神様が憑ろうと思っても憑れないし、喋らせようと思っても喋れないのです。それで狐に命令して狐に喋らせるのです。そうして本人の喋り工合によって、これなら大丈夫だという時立派な神様が御憑りになる事があるのです。だから狐だからと言って悪い意味に解釈して馬鹿にする事はできないです。祖霊などもよく狐を使うのです。狐は非常に人間に憑りやすくて喋りやすいのです。そのために祖霊が直接憑って喋れないときは狐にやらせる事があります。だから、よしんば狐が憑っていても、どんな立派な人間か、神様か分らないから、そのつもりでこっちは、軽蔑しないで真面目にやった方がよいです。よく狐の奴と言って、それを押えつけようとか、離そうとするのですが、それは悪いです。前にも私は書いた事がありますが、威張って出て来たり、いたずらする事があります。又立派な神様を装(ヨソオ)って来ますが、そういう時は瞞されるのです。狐は“オレは何神様だ”とか言うから、“ああそうですか。御苦労様です”と言っておくのです。そうしている内に必ず化(バケ)の皮(カワ)をはぎます。狐を押えつけようとしたりすると、かえって狐が怒っていろんないたずらをするのです。そうして正体を現わすのもかえって暇がかかります。そういう点なども、素直にするという事は何事にもよいという事が分ります。だから“狐、こいつ瞞しやがるな”といって警戒心を起こす、それが神様の方ではいけないのです。瞞されているとかえって暴露(バクロ)して、狐の方で頭をかいて謝(アヤ)まるという事になります。
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今の話は霊界の宗教家の主だった人達の話ですが、一方芸術家の方は、昔からの名人や美術を愛好した人の霊が、救世教の美術館に品物を納めたいというので非常に骨折っているのです。一品でも美術館に納めると、霊界の地位が上がるのです。地獄……と言っても、あんまりひどい地獄の霊はそういう事ができないが、上層に居る霊はそういう事ができるからそうすると、八衢に上がれるし、八衢にも上中下があるが、上段には行けるのです。又八衢に居た霊は天国の下の段に上がれるという工合で、その手柄によって大いに救われるのです。それから又救われた霊の近親者も段階が上がりますから、そういうわけで、今は霊界で、良い物をこっちに納めようとして競走でやっているのです。その現われとして、私が欲しいと思うような物は何時か入って来るのです。到底売りそうもない物を、ヒョッと売るのです。しかも非常に安く手に入るのです。よく道具屋も喫驚しているのです。“そんな値段で先が売る事はない”という事がよくあります。とに角ああいう美術品が集まるのも、殆んど奇蹟によって集まって来るわけです。そういうようなわけで、面白いと言えば、随分面白いわけで、まあ楽です。ただ思えばよいのです。ああ欲しいなと思えば、何時か入って来るというわけです。これが如意の働きというのです。如意宝珠とか、よく禅宗の坊さんが如意というものを持ってますが、あれもそういう意味なのです。それで、禅宗の大僧正があれを持って“かつ”という事を言いますが、あれは、これ(如意)によって言う事を聞かせるという意味なのです。如意輪観音というのもそういうわけです。私は今如意輪観音の働きをしているわけです。
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来月九日から箱根美術館主催の浮世絵展覧会をやりますが、これは「肉筆浮世絵名作展」というのです。この肉筆の展覧会というのは初めてなのです。浮世絵展は今まで方々で何十回とやりましたが、みんな版画なのです。肉筆展というのは今回が初めてなのです。その肉筆が数十幅出ますが、それはみんな一級品ばかりです。今日本では私の所が一番だそうです。それらも霊の働きが根本です。というのは、八十何幅という肉筆ばかりを買ったのですが、非常に安いのです。これは有名な以前の成金ですが、その人は余程前に亡くなったのです。その霊が、どうか救世教の美術館に出してもらいたいというので働いたわけです。働くとどうするかというと、其処の子孫、現在持っている人が金に困るようにするのです。霊界の祖霊が損をかけるとか、或いは大いに金を使わせるとかして貧乏にするわけです。そうすればいやでも売りますから、つまりそういうようなやり方が主なやり方なのです。そのためにどうしても売らないわけにはゆかないというわけで、手放すわけです。しかしそうすると、祖先とも言われるものが子孫を貧乏にするというのは随分ひどいと思うでしょうが、しかしそれがためにその後に大きなお蔭をいただいて、大変に結構になり、幸福になるわけです。今金に困るのは一時的ですから、やっぱり祖霊はそういう事を知ってます。深い考えでやるわけです。結構なわけです。どんな良い物でも物質はしれたものです。形ある宝を失なって、無限の形なき宝をいただくわけですから、非常によいわけです。功徳をするわけです。そういうようなわけで、とても素晴しい美術品が入って来るのです。熱海の美術館が出来るようになると、みんな驚くだろうと思います。それで、こっちに入って来る品物は大抵半分値以下で入って来ます。道具屋は年中“不思議だ不思議だ”と言ってますが、全くそうみえます。“お売りになったらよいでしょう”とか、“今このくらいなら売れるから買いたい”とか、よく言いますが、そういうわけで道具屋の腹の中では、オレ達よりずっと金儲けがうまいと思っているらしいです。ですからよく笑う事がありますが、“僕が道具屋になったら随分儲けるが、君達は下手だな”と言うのです。
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それからメシヤ会館ですが、これは大体秋に落成して開館式をやる予定だったのですが、どうも神様の方では、それではいけないのです。来年の、三十年三月三日という事が分ったのです。今年の二十九年という数字が一番悪いのです。その意味はどういう訳かというと、今までのミロクは五六七です。五が日で、六が月で、七が土という事になってますが、それは基本的の意味で、つまり宇宙の順序です。何時も言うとおり、これからは、「熱海は現界の型だ、熱海の地上天国は現界的の型だ」という事を言ってますが、現界のミロクの数字は三六九なのです。そうすると今までとは数字の意味が、言わば具体的になるわけです。現実化するわけです。そのために三、三、三と、三十年三月三日という事になるわけです。それで無論それまでには水晶殿も出来ます。それから美術館の方はその次になる予定です。尤もそうすると凡てがゆっくりと全部出来るのです。やっぱり、間に合わせようと思って少しでも急ぐと、どうもそれだけ出来が悪いわけです。そういう点などは、やはり神様はうまいです。今までに二度延びましたが、何時までに間に合わせなければならないといって無理をする傾向があるので、いい加減なところに行って延ばすのです、そうするとゆっくりと丁寧(テイネイ)にするというわけです。ところが、最初から延ばさないで、きざんで延ばすというところに、やはり神様の深いところがあるのです。私も時々行って見ますが、皆さんも見られたでしょう。会館の様式は、私は二、三年前から毎月「国際建築」という雑誌をとってますが、それには世界的に新しい建築をみんな紹介してあるのです。そうするとメシヤ会館のようなああいう上品な感じの良い建築は、外国には殆んどないです。あれは、おそらく世界的の建築と思ってます。建築で一番肝腎な事は、ああいう大建築は外郭です。中は誰でもできるのですが、外郭の様式、デザイン、これが最も肝腎なのです。今までのいろいろの大きな建築を見ても、どうも高さとか幅とか奥行とか、外部の様式というものに感心なものはあんまりないです。私は前にローマのステーションが一番よく出来たと言いましたが、実際に見た人はみんなそう言ってます。“今度ヨーロッパを廻って来たが、イタリヤのローマのステーションが一番良かった”と言ってます。と言ったところで外郭の様式が奇抜(キバツ)なのです。駅ですから、品が良いとかそういう事はないので、非常に奇抜で、スカッとしていて気持がよいのです。これらが今まで出来たコルビュジエ式の内で一番のものでしょう。例のコルビュジエ自身が監督した、国際会館ですが、これはあんまり感心しないです。あまりに単純すぎるのです。少なくとも建築としての感覚は失敗です。そこに至ってはメシヤ会館の建築は、つまりコルビュジエ式を宗教的に扱かったわけですが、大体コルビュジエ式というのは宗教的には無理なので、何処までも実用的の建築です。それを私がただコルビュジエの新しい感覚をとって宗教的の荘厳みを現わすという最初からの計画でした。ところがついこの間見たところが、私の思う通りに出来上ったので、私は非常に喜んでます。一番難かしいのは高さと幅との調和です。それと真直な柱形です。直線です。その柱形の幅とか深さという点が非常に難かしい所なのです。それが丁度よいところにゆかなければいけないわけです。それが丁度私の思う通りに成功したわけです。そうしてあれで一番の見所は横です。横の広い面積を白壁にして窓をつけないのです。あれはどうしてもあそこに窓をつけたがる所なのです。ですからよく“あそこに窓をつけろ、つけろ”と言いますが、私は窓をつけないで、白色の広い場面を出したわけですが、あれがミソと言いますか、ヤマと言いますか、そういったものです。あれを白壁にしたために、前面の直線の縦縞の柱が生きるのです。そしてあれから一段落して白壁と、これが全体的に建築を非常に面白くするわけです。部分々々はこれからやりますが、部分々々でも相当面白く出来るわけです。こういう話をすると時間がかかりますから、いずれゆっくりとします。
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それから自然栽培について、農林省の役人の、中堅所の十数人が、今度「自然農法研究会」というのを作ったのです。その趣意書をみましたが、来月の二日に発会式をするとか言ってました。その趣意書が非常によくできてますから、今読ませます。
〔⇒自然農法の一大朗報〕【註 栄光二五六号】
この人達も今後できるだけの活動はされるでしょうが、それよりか、今後農民にこれを知らせる場合に、なにしろ今までとは反対の意味ですから、容易に信じ難いのです。信じられないけれども、農林省でこういう会が出来たという事は、“これは相当信頼のできるものに違いない”という、そういう印象を与える事になり、それが非常なプラスだと思うのです。無論神様がうまくやるのですから、このくらいの事は当り前ですが、しかし割合に早くこういう会が出来たという事は大いに喜んでよいと思うのです。今やっている地上天国の建設と、それから自然栽培と、これだけが世の中に知れたとしたら、大変な大きな事です。それと共に、一番難かしいのは医学迷信の打破です。それに対しても“なるほど救世教の言う事は大したものだ、そうしてみると医学の方も“あれは本当に違いない”というような一つの結果を生み出す動機となりますから、そんなこんなで、両方が分るという事が大いによいと思います。しかもこの二つは手取早く分る事です。現に目に見えて掴めるような事なのだから。私の方で一番の狙い所は医学ですから、医学を分らせる上において大きな働きをするわけです。というようなわけで、神様のやり方は実に人間の予想以上の巧妙なやり方だと感心させられるのです。この一つだけでも世の中に分ったら、“救世教というのは普通の宗教ではない、日本に初めて出来た大変な救いだ”という事が分るわけです。新年早々言ったとおり「今年から表面的になる、いよいよ本舞台に上る」という事が、こういう事によっても、やはり着々と実現しつつあるわけです。これからは、時のたつに従って、それは想像もつかないほど発展する時期になってゆくわけです。何時も言う事ですが、だんだん張合があるわけです。何事もそうですが、“あいつはどうも変だ”とか、“あいつはどうも信用ができない”ということと、“あれは立派なものだ、大いに信用してよい”という、その気持だけでまるっきり違います。以前は救世教というと“迷信くさくて、新宗教でいい加減な事を言って、現当利益なんて言って金集めをしている”という、そういった変な感じを持たれたのです。ところが近頃はそれが大分消えて来て、救世教というと“あれはよい、なかなか大したものらしい”というような社会的の観念が大分出て来つつあるようにみえるのです。これも結構であると共に、もう一息今言ったような工合に世の中に知れると、今度はもう“救世教でなくてはならない、あれこそ本当の、今までにない大きな救いだ”という事になるわけです。
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三月二十七日
春季大祭も此処でやるのはこれが最後で、この次は会館でやるようになります。なにしろ此処では制限しても今年は非常に多くて、立錐(リツスイ)の余地もないです。どうしても無理になったわけで、丁度会館が出来るという事は、チャンと神様は算盤をとって準備されたという事がよく分ります。それで会館の方は椅子が二千八百の予定ですが、補助椅子も並べるでしょうから、約三千です。それから立つ人は二千は充分ですから、五千は楽に収容できるわけですから、今度の御祭は楽々と気持良くできるわけです。いずれはそれでも狭くなるでしょうが、当分は気持のよい御祭ができるわけです。外観だけは、足場が取れたのです。最早見られたか、後で見られるか、此処に居られる方はとに角全部今日見られるわけですが、私も足場が取れたからというので昨日行って見ました。自分で設計して自分で褒めるのは少しおかしいですが、私の気に入ったように出来たわけです。ああいう建物は実は外観が一番難かしいのです。内部の方は誰がやっても、自然にいやでも出来てしまいますが、外観です。これがよくゆかなければならないので、外観という事が一番の問題なのです。というのは、あれだけの大きいものですと、やはりカンでゆくのです。模型は造ったようなものの、さて実際の大きさに表現するとなると、周囲のいろいろな物体のあり方とよくマッチしなければ、その建築はいけないわけです。それで間口と高さ、それも恰好よく、少しも欠点のないように出来上らなければいけないのです。それから特に難かしいのは柱形です。人造石の柱の太さ、それから間の白い壁との幅の調和です。それが太すぎては頑固になりますし、細すぎると華奢(キヤシヤ)になるから、太からず細からずという、その割出しが厄介なのです。そうかといって、あれだけの大きい模型を造るわけにはゆかないから、カンでゆくより仕方がないです。しかもあれだけの建築は今までにないのです。私は二、三年前から毎月「国際建築」という雑誌をとってますが、世界中で新しく出来た建築は必ず写真に出てますが、今までのを見ても、今度出来たようなああいう様式というのは全然ないです。似たものすらないです。ただ、今新しく出来るのはみんなコルビュジエ式の、実用的の建築です。無論宗教的の建築というのはないです。そういうようなわけで、コルビュジエの単純な様式に対して、曲線は使わないで直線ばかりで荘厳の味を出す、荘厳の感覚を表現するという事が、実はなかなか難かしいのです。しかしそれに成功しなければ面白くないのです。ですからとに角宗教建築の革命です。西洋の宗教建築というと、キリスト教の先のトンガった鋭い様式ですし、それから日本の方は、奈良朝以後のいろんな堂宇、伽藍ですが、これは一種の型ができているのです。そういうような工合です。ところが救世教は神道ではないからして宮造りにはゆきませんし、仏教ではないから寺院のような様式もできない、キリスト教ではないからして、ああいった教会堂式にもできないし、というわけです。そうして新しい破天荒(ハテンコウ)な宗教ですから、建物も新しい今までにないような形に造らなければならないという、そういう事情と合ってゆかなければならないのです。見れば分るとおり、大体それと合っていると、私は思われたのです。大体秋に完成のつもりでしたが、どうも秋では工合が悪いので、神様の方では延ばして、来年の三月三日という事になりました。三十年三月三日で、三、三、三というわけです。ところが面白いのは、最初からそういうふうになっていれば、ああいう建築にしろ、大きい何かを人間がやる場合には、日を限ると、どうもそれに間に合わせればよいというので、いくら前から日限があっても、抜ける癖があるのです。そうして日限間近になってから慌てるというので、これは誰でも知っているでしょうが、決まったようなものです。そこで神様は、今度で二度延びましたが、そのために建築屋の方は秋に間に合わせようというので、相当急(アセ)ってました。そうすると、ここでパッと延びると、今度は又丁寧にやるからして、こういうふうに延びたという事は、品物をよく拵えるという点においてよいのです。ですから、その点神様はうまいなと思いました。それで、三十年三月三日という事は、その数字に非常に意味があるのです。今までのミロクというのは五六七の数字でした。これは火水土です。これは根本的の条件です。ところが現界の経綸は三六九、つまり三が三つ重なるという、こういう事になるのです。これは前から決まっているのです。そういう事も私の方で書いてありますが、まだ時期の関係で発表しなかっただけです。それで三六九になるのです。ですから社会も三階級になるのです。上流階級、中流派階級、下流階級です。勿論階級制度もそういうふうになるし、それからあらゆるものが三になるのです。これは以前も話した事がありますが、各産業の経営も、資本家、技術者、労働者と、三つになるとか、或いは学校も、小学、中学、大学で、小学三年、中学三年、大学三年というように、やはり三六九になるのです。ですから普通は、義務教育は小学三年、中学三年の六年で済むわけです。その他に特殊の目的で大学三年とゆき、やはり三六九になるのです。あらゆるものがそういうふうになるのです。そこで三六九は現界の経綸になるのです。最初は二十九年十一月を予定していたのですが、それでは数字が全然合わないので、そこで三、三、三と、こうなったわけです。来年の三月までに会館は出来上るし、それから水晶殿も出来上るつもりです。これは確実に思ってよいです。延びたという事が、そういった建築とか、又庭にいろいろな木を植えたりする、そういう点においても、万事に非常に工合がよかったのです。次の美術館ですが、これはそう手間はかからないですから、うまくゆけば来年の秋ですが、まかり間違っても再来年の春には確かです。そういう予定です。美術館の方は無論今度の会館とはまるっきり違った様式です。会館も、今の建築でもかなり新しい建築です。非常に新しさが出ていると思います。昨日見た感じから言っても、新しいという事は確かです。ところが美術館の方は、今度は新しさと古い良い所を相当混ぜます。会館の方は大体西洋建築ですが、美術館の方は西洋、支那、日本と、この三つの良い所を取入れて綜合した様式にするつもりです。
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最近霊界にいろんな変った事が大分出てきたのです。というのは、霊界が昼間になるについて、霊が慌て出したのです。だんだん救世教というものがはっきり分って来たので、自分達が救われたい事と、それから働かしてもらいたいという事で、いろいろな方法をもって私に頼むのです。そうして因縁の人の霊に憑って、話をしたりいろいろするのです。それで最近信者さんの中の若い女性にいろんな霊が憑って知らしたわけです。この間は現界で活躍している人達、モロトフとかアイゼンハウアーとか毛沢東とかネールとか、いろいろありますが、そういう霊が憑って、私に罪を御詫びしたり、今後のお手伝い、それに対する念願とか、そういう事があったので、現界の人達の分は今度の地上天国に全部載せましたから、読めば分ります。実に詳しく書いてあります。その後にあった事は、非常に面白いし、しかも重要な事ですから、今それを読ませます。
この中にある「明主」というのは、つまり私の代理なのです。それで私の代理になって仕事をする私の部下の神様が幾人か居るのです。それで何かの重要な事に私として出るのです。ですから私と思って差支えないわけです。それから天理教の教祖の事は、何時か話をした事がありますが、静岡県の留置所に居る時にいろんな霊を呼んでいろいろ話をした時に天理教の教祖とも話をしたのです。それで救ってくれ、宜しいと言ったその事を言っているのです。こういうような工合です。ですから私に居る神様は一番最高なのです。ですから私は神様を拝んだことはないと前にも言った事がありますが、私より上の神様は無いのだから、別に拝む神様は無いわけです。それで私は拝まないわけです。けれども、こういう事が時節によってはっきり出て来るので、私は自分で“オレは救世主だ”とか、そういう事は言いたくないのです。つまり事実で見せる、事実によって“なるほど”力と結果において“そうだ”という事を分って、それが本当なのです。それについて御祭の前の日の二十二日に、私の直接の仕事をしている男の若い妻君で、去年頭が少し変だったので、私がすっかり治してやったのです。しかしまだ少し残りがあって、頸の廻りに固まりがあるので、時々来いと言って、月に二、三回ぐらいやっているのです。そこで二十二日の日に浄霊しようとすると、ポロポロ涙をこぼして泣き出して、後から後から涙が出て、なかなか口がきけないのです。暫らくたってから普通になったから聞いてみると、キリストなのです。それでキリストが長い間非常に苦しんでいたのが、その婦人に憑っていて浄霊してもらったので治ったのです。つまり磔になった時の傷の悩みなのです。それがすっかり治ったので非常に有難いと言って、つまり嬉し涙です。更に、自分の最も懐かしい天の父様に御目にかかれたという事は、これほど嬉しい事はないという、この二つの事の嬉し涙で、それが出たわけです。そうしてみると、あれほどの人でも、そういった一つの肉体の障害を治されなかったわけです。そういうわけですから、これから外国においてキリストも大活躍されると思います。これは信者の人はよく分るが、キリスト教信者とか仏教信者が聞いたら、狐につままれたように思うだろうと思います。自分の拝んでいた目標がそんなようなわけかと思うだろうと思います。しかしこれは直ぐ分るわけです。何故と言えば、今までのキリスト、釈迦、マホメット等は、こうやって(手をかざして)病気を治す事ができなかったですし、しかもこうやって病気を治す人を作れなかったのですから、そこにおいて、力において想像できるわけです。それで私は自分自身ああこうと、ドエライ事は言いたくないですから言わないのですが、だんだん時節に応じてそういう事が証拠立てられ、分らないわけにはゆかなくなって来るのです。
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それについて一般の人もどうしても分らなければならないような事の一つとして、自然栽培が日本中に分るとしたら、それだけでも、“これは普通の宗教ではない、大変なものだ”という事は分るわけです。今度農林省の役人の中に大分わかって来た人ができて、今度「自然農法研究会」という会を拵えたのです。来月の二日に発会式をやりますが、人数は相当居るようです。何人居るかは知りませんが、少なくとも十人は居ると思います。農林省の内部に動きができたという事は、一番よいと思うのです。つまり今後宣伝する上において、なにしろ今までの事と反対の事ですから、“肥料無しで米が穫れる”“そんな馬鹿な事があるものか”とみんな最初はそういう考えを起します。そこにもっていって、農林省の役人がこれだけの運動を始めたという事は、それだけ信用が出るわけです。今聞いてみると、会員は十八人だそうですから大したものです。無論上の方はまだでしょうし、分っていても直ぐに動く事はできませんし、下の方はそういう事はないから、中堅所でしょう。ですからこれは自然農法に対する一大福音です。その趣意書を読みましたが、なかなかよくできているので、今読ませます。
〔⇒自然農法の一大朗報〕(趣意書)【註 栄光二五六号】
十八人という数字もちょっと面白いです。それから発会式も、この間聞いたのは四月二日でしたが、早まって三月三十日だそうですから、やっぱり三、三でミロクです。それで十八ですから、三(ミ)六(ロク)十八です。万事神様がやっているのですから、そうなるわけです。これについても、私が一番狙うところは、医学の革命です。これは又一番難かしいのです。この自然農法が全国的に分ると、その医学に対する効果も、丁度自然農法と同じような理窟で、肥料というのは医学で言う薬です。「肥料をやるために土が弱る」という事と、「薬を飲むために健康が弱る」という事と、理窟は同じですから、この面から医学の方を分らせる上において非常によいと思うのです。そういうわけで、肥料のために、その毒素が人間の健康に非常な害があるという事も分るわけです。おまけに特集号にあるような、米に穀象虫がわいたのを写真に大きく出してありますが、あれを見たら否も応もないと思います。ですから今まで薬毒という事は私は大いに唱えて来ましたが、勿論薬毒も悪いが、それ以外に米に対する肥料の毒が又大変なものです。つまり肥料の毒というのは、やはり血を濁しますから、肥毒と薬毒との両方で、人間は今までいじめられていたわけです。今度その論文を出しますが、“人間の体は如何に造物主が強靭(キヨウジン)に強く造られたかが分る。これだけの薬毒を入れながら、尚かつ生きているという事は、実に人間の体は丈夫なものだ”という事を書いてあります。こうなると肥毒まで加わって、食う食糧に対する肥毒があって、薬を飲まない人でも一日に三度ずつ肥毒を体に入れているのですから、虫がわくのは当り前です。寄生虫の害というのは、みんな知っているとおりですが、これは別に大袈裟(オオゲサ)に言うわけではないので、私は何時もそう思ってます。薬毒がウンと固まって、体に薬毒が一ぱいある人がありますが、“これでよく働けるな、実に人間の体というのは強く出来ている”と何時も感心してます。これは医学的の頭で考えたら面喰(メンク)らうだろうと思います。そういうわけで、神様の方は着々と進展しつつあるわけです。しかも今言ったとおり、各宗教の教祖や何か、そういった偉い霊達がこれから救世教のために大いに働きますから、だんだん時期がたつに従って予想もつかないような大きな事になると思ってます。だんだん張合が出て来たわけです。今までは楽屋で仕度をしていたようなものですが、これからいよいよ本舞台に上って、桧舞台で世界人類を大いにうならせるというわけですから、丁度世界的の大芝居です。これは大本教のお筆先にありますが、「今度は世界の大芝居であるから、今に世界は動くぞよ」とありますが、これはやっぱりそういう意味です。
(教三十二号 昭和二十九年四月十五日)