迷信の如何に恐るべきかは、未だ充分に、世間に知れ渉ってゐないやうに思ふ。それで之から大いに戒告の為に、実例を有のまんま記いてみる事にする。
(一)
○○講の、御主人は役員までしてゐる信者であるが、此信者は、特に恐ろしい程の迷信的要素を含んでゐるのは、世間周知の事であるが、最近その妻女(三十才位)が、赤児(生後三ケ月)を伴れて来たのである。見ると、その赤児は口唇は膿毒によってただれ、絶えず、幾個所もから出血をしてをり、その惨たらしい有様は見るに忍びない位で、全体的に栄養不良で青白く、一見先づ助かりそうもない状態であって、医師の言ふには、梅毒であるから、注射を三十本しなければ治らないとの由で、三本丈した時に、私の所へ来たのである。
そうして、鼻汁も絶えず膿汁で詰るので、其度に息が詰って、碌々睡眠も出来ない有様であった。母親はとみれば、之も非常に、元来は健康であるのだが、どういふ訳か、乳が出ないので、赤児へは人工乳をやってをった。母親も調べてみると、腎臓が非常に悪く、手及び脚部は可成麻痺してをった。
そこで私は、此儘では赤児は助からぬから、是非続けて来いと言ったので兎に角三回は来たのである。所が、驚く程良くなって、赤児の唇などは全く治癒し、顔色も先づ、普通の状態でない。従而、最早心配ない迄になった、母親も赤児と同じ様に、殆んど九分通り全快して了った。
然し、此患者を連れて来たのは、私の方の新聞宣伝隊員であったので、三回限りしか来ないから、そのものは見に寄った所、観音会で治療した事が、○○講の幹部に判ったので、驚いた幹部は、脅嚇的言辞を弄したのであった。それは、如何に治ると雖も、○○講以外へ行けば必ず盲目になるといふのである。
そこで妻女は恐怖の余り行かないのであるといふ事である。而も外に三人未だ子供があるが、一人は跛(チンバ)で歩行出来ず、一人は腹膜炎一人は慢性扁桃腺といふ有様であった。それ等を、観音会ならば全部治るから来なさいと奨めた所が、主人公曰く、実は、観音会で病気が治って来たといふ事は、所属支部の役員が知って了ったので、非常に驚き万一転向されては大変だと、協議会まで開いて、絶対的に私の方へ来る事を阻止しやふと猛烈な弾圧を加えたのであって、そうして、若し観音会の方へ行けば、妻女の眼が潰れるといふのである。
観音会へ来れば目が潰れるといふのは、如何なる理由であるか、可笑しいといふより、怪しからぬ言葉である。そうして、そういふ様な一種の脅嚇を以て、日々執拗に責めに来るので、貴会へ行けば病気が治るといふ事は事実だからよく判ってをるがそういふ訳で、余りに五月蠅いから、暫時、気を抜かして貰ひたいと、泌々言ふのである。
特に妻女の方は、自分といひ、子供達といひよりはっきり観音様の御霊徳を見せられてゐるので、これからは、心は観音様の方を念じ形式丈今迄通りやるに過ぎないから、悪しからず思ってくれろ、その内必ずお願ひに行くとの事である。
そういふ様な訳で、病気が治らふが治るまいが、不幸であらふがなからふが、夫等はお構ひなしで、只管、集団の牙城を守るに、汲々としてゐるのである。而も、役員までになって、熱烈なる信仰をしてゐるに係らず、妻女を初め、四人の子供までが全部病人で、而も、赤児は生命を保證し難いといふに至っては、実に驚かざるを得ないのである。
私は反って、無信仰であったら、斯様な不幸ではないだらふとさへ思はれたのである。是等を見るにつけ、迷信なるものは、例えば泥沼の中に足を入れた様なもので、進む事も抜く事も出来ないといふ、悲惨な状態で日を送りつつあるのである。こういふ不幸な人達が、現在如何に多い事であるか、それを如何にして、救ひ出すべきや、此新しい社会問題として、考究しなければならないと、痛切に思ふのである。敢て識者の一考を冀ふ次第である。
(二)
某女四十四才、○○教十数年間、熱心に信仰し、その犠牲として夫と別れ、数万の資産を全部上げ尽し、今は布教師として、他人の家に寄食して生活してをり、半ケ年前より、左腕の自由を突如として失ひ、その信仰によって治癒せんと、お授け其他、凡ゆる方法を行ふも、更に効果なく、灸治等を行へども、之又効果なし、新聞の記事によって本会へ治療を乞ひに来た所、一回毎にメキメキ快方に向ひ、二週間位にして腕の自由を取戻すといふ奇蹟に、十数年もやった従来の信仰に較べて、其余りに隔絶せるに驚いて、観音信仰へ転向したのである。
それ丈なら別に不思議はないが、その婦人が最初の間、治療に来るのに、その所属教会へ、非常に秘密にしてをったので、その訳は、もし教会長へ知れれば、如何なる危害を加えらるるやもしれず、腕の一本位叩き折られるかも知れないといふので、私は実に驚いたのである。如何なる事情があるにもせよ、神に仕える教会の支部長ともある身が、腕力を行使するといふ、その様な事があり得べき事であらふかと、不思議に思ったのである。
段々話を聞けば、それは日本で有数の宗教であるに係らず、その教団には、飲酒家の非常に多い事、男女関係の紊乱してゐる事等を聞いて、重ねて愕いたのである。そうしてその婦人のいふには、以前は相当治病の霊徳はあったので、自分も熱信したのであるが、昨年春頃より、その霊徳は皆無といふ位になったので、不思議に思ってをったとの事である。丁度、観音会の出現が、昨年一月であるから、今迄の凡ゆる宗教は、月の神様の系統であるから、東方の光即ち太陽の出現によって、月の光は消えた訳である。であるから、他の凡ゆる宗教も、月日の経るに従ひ、段々御霊徳は無くなってゆくのは、致し方ない事である。
(三)
昭和十年夏頃、私の所へ来た患者で、一遍は腕及び掌は硬直して曲り、足は漸く歩く位で、絶対に座る事は出来ない、廿二才の娘があった。十四五年前からの病気で、如何なる治療を施しても、更に効果はなかったといふ事である。それで、普通の治療丈では難しいので、観音様を祀るべく、その母なる人に、勧めたのであった。然るにその母親の返事が実に驚くべき事であった。それは斯うである。
自分の家は、先祖代々真宗である、私の宗旨は、医師、灸治、電気丈は許されてあるが他の療法は、而も阿彌陀様以外の神仏の御蔭で治して戴くといふ事は、大変な罪であって如来様のお咎めこそ世にも恐ろしいのであると曰ふのである。そこで、私の方では、私の方で言ふやうにしなければ治らないとしたならば、どうするかといふと、母親曰く、仮令一生治らなくても致し方ない、娘一人は、犠牲にしても可いから、どこ迄も未来で、阿彌陀様の側へ行かれなければならないといふのであるので、最早一言の返す言葉もなく、黙した様な訳である、之によってみるも、如何に其信念の強いかが判るのであって、常識を失ってゐるかといふ事が判るのである。
一歩退いて考えてみよ、それ程迄に如来様を信じてゐるに不拘、一生不具で通さなくてはならないのは、どうした訳か、その生きたる事実は、阿彌陀様のアテにならぬ事を証明してゐるではないか、そこで私は内々で、その娘丈に言ふたのである。貴女の病気は長い間阿彌陀様を拝んだその罪である。何故なれば、指が曲って、掌を合す事が出来ない。又腰が曲らないから、額づく事が出来ない、といふのは、間違った仏を拝んだからであると言ふたのである。
(昭和十年)