-此文を以て谷口氏に質す-
「生長の家」の谷口氏が、絶対唯心論を振り翳して、あらゆる攻撃を物ともせず、敢然として戦ひ続けてゐる姿は、洵に悲壮其もので、其英雄的行動は、洵に讃嘆に値するものがある。然し乍ら、惜しむらくは、氏が唯一の御題目である処の、「物質は心の影」といふ事は、余りにも其誤りが甚だしいので、一言、其妄を明らかにしたいと思ふのである。
今茲に私をして言はしむれば、之は半面の真理であって、全面的真理ではない。何となれば霊物両方面の実世界に於て、氏のは、霊の世界からのみ観ての説である。成程、心の世界即ち霊の世界からみれば、心霊を主とするから、物質は心の影であるが、反対に、物質の世界から観れば、心は物質の影である。即ち観点によっての相違なのである。
本来、森羅万象は、霊と物とが、密接不離なる関係にある事は明らかで、人間と雖も、霊と体から成立ち、霊が脱出して、霊界に行く事が死である。仏者は之を往生といふ。何故、死を以て、生れ往くと書くかといふに、仏界即ち霊界から観れば、現界の死は、生である。死ぬ前の事を、生前といふのも之と同じ理である。
故に、谷口氏は飽迄、心霊界一方だけを、主としての観点を、固執してゐるのであるが、之では真理に外れてゐるから、到底一般人を済度承服さす事は出来ないであらふ。どうしても両方面からの観点、輒(スナワ)ち繰返して言ふが、霊界での観点は、「物質は心の影」であり、物質界での観点は、「心は物質の影」であると説かなければ、実相ではない。
故に、病気は本来、無いと思念すれば、治癒するといふ主張であるが、それは一種の欺瞞であり、自己に対しての心理錯覚を強要するのであるから、患者にとっては、非常な心の苦痛である。結局、自力療法である。神仏の力では全然ない。故に、或種の限られた病気以外は治療され得ないのである。一時的法悦はあっても、永遠の法悦は有り得ないのである。
私は言ふ。病気が在ると思ひつつ、否、治らないとさへ思ひつつ、尚完全に治癒されてゆく。その他動の力こそ、些かの自力の加はらない治病力こそ、それは絶対の大神から流れて来る光、言ひ換えれば人間を救ひ給ふ、神仏の大慈悲の活現である。此大慈悲に浴して初めて、不磨(フマ)の信念を得、大安心の境地に置かれて、永遠の生命を把握し得らるるのである。
故に、自己の心中にのみ神を求め、仏の実在を信ぜんとするのは、古来から仏者が、既に説いた小乗的自力信仰であって、敢て今新しく説く程の価値はないのである。
要するに、「生長の家」の説も、全般的教義主張も、私から観れば、新しい点は更に無いので、氏が大本教に在った関係上、殆どが大本教の焼直しへ仏教とキリスト教の一部を巧みに取入れた迄に過ぎないのである。即ち「物質は心の影」といふのは、大本教の一枚看板である霊主体従と同工異曲であり、神想観は、鎮魂帰神法であり、本を読めば、病気が治るといふのは、出口氏が編纂の、霊界物語を読めば病気が治る、といふのと同じである。
之を要するに、「生長の家」が今日、兎や角言はれるのは、氏の宣伝法即ち、営業政策の巧妙と大胆さが、時機に投じたのと、従来の宗教が、インテリ層を閑却してゐたのを、氏は巧みに、此方面に呼びかけた等の理由で、今日の発展に迄到ったのであらふ。
(昭和十年)