絶対に薬剤を用ひない、器械を用ひない、暗示を与えない、信仰的でもない、精神療法でもない、病気が無いなどと思はせない、疑っても、信じないでも、難症がどしどし治ってゆく治病方法が発見されたのである。
例えば、扁桃腺が一回で治り、盲腸炎が二回で治り、歯痛は即座に治り、赤痢が五日間で治り、肺炎は四、五回で治り、其他肺結核、痔瘻、胃癌、梅毒、喘息、中風、腎臓病等の難症、而も、凡ゆる療法を受けて拗らしたる患者の治病率が八十パーセンテーヂ以上の実績を挙げつつあるといふ事実を報告したいのである。
専門家諸君が、拾数年の歳月と努力と数千円の学費とを費やして得たる治病の力より、我観音力に依る一ケ年の修業の治病力は、恐らく拾倍の実績を挙げ得るであらふ。
過去幾千年の人文史上、夢想だも為し得なかった治病力と其方法の創生といふ、驚嘆すべき一大事実の発現である。如何なる大発明と雖も、此事に比しては太陽の前の電燈の如きものであらふ。併も、治病力ばかりではない、健康の真諦を把握し得らるる事である。
それは、観世音の霊告による健康法に従へば、個人も一家も社会も、病魔が無くなるのである。而も此方法たるや、祈祷の如き煩雑なる手段や浩瀚なる書籍を読む等の労を要しない。経済的負担に於ても極めて軽微である。一生を通じて重症に罹る事は絶対無い事を保證する。何となれば、発病するや重症に到らない迄に治癒されて了ふからである。
人間が重病に罹らないとすれば、爰に真の天寿は全うし得らるるのである。斯事の経験を知らなかった今日迄の人間は、二十代、三十代で夭折しても寿命であると諦め言葉で済してゐた。設し天寿で逝くならば、苦痛は絶対無い筈である。死の苦痛があるといふ事は天寿では無いといふ何よりの證拠である。恰度枯れた木は力無く折れる、之は自然であるからである。然るに生木は容易に折れない。如し、生木が生物であるとすれば、苦の悲鳴を揚げるに違ひない。
是等によってみても、人間が重病に罹らないとすれば、天寿即ち、八十歳以上の齢を保つ事が出来る訳である。 人類は、本来天寿を保つべく造られたのであったにも係らず、現代の如く短命になったといふ事は、実は不可思議であった。それは或理由に由って、病患を治癒する神の力が顕現されなかったのであった。之に対して批判や理屈は成立たない。
何故なれば、事実がそうであった迄で、人間が神の御心を想察し得らるる筈が無いからである。何故颱風が吹くか、何故地震で災害を与へるか、何故洪水を氾濫させるかと言って愬へるのと儔(ヒト)しい愚さである。故に神力の顕現が無かった時代としては、物質によって治病するより外止むを得なかったのは寧ろ当然である。故に、此時代の人間が無神論であったのも無理からぬ事である。
此空前の大事実は、時の進むにつれて、弥々多数の人類が此恵みに浴さない訳にはゆかなくなるのは当然である。恰度人力車を便利とせられた時代が、何時か自動車に更って了ったといふ事に例へられる。唯然し、生命の問題として交通機関の改革変遷よりも如何に切実な緊要事であるか測り知れないであらふ事である。
何よりも私は、医学専門家諸賢に斯事を知識されたいのである。若し一般社会が此治病力を識るに従って、薬剤物理医学は揚棄されなければならない時が来るのは瞭らかである。そうなってからでは既に遅い。一日も速いのが自他共に幸である。
斯様に誇大妄想狂に等しい事であるが故に、反って誤解され勝ちなのを、遺憾に思ふのである。然し乍ら、事実は一歩も枉げる事は出来ない。それは議論でも、学理でも、観念でもない、生きた大事実であるからである。私の最も希望する所は、医科大学に於て、斯界の権威諸士の面前に於て、凡ゆる病原を解明し、観音力に依て病患が治癒されてゆく実際を研究の為に、私を招聘されたい事である。そうして、西洋医学と私が創成した日本医術とを比較検討されん事である。之は一範囲や一階級や一定事に丈の問題ではない。実に永遠に渉る人類生命の大問題である。
此事に因って現代文明が大転換の基調となるであらふ。日本は一躍世界の崇敬の的となるであらふ。学問は革命せられ、爰に卓越せる識者達が夢の如うに空想してゐた宗教と科学との一致が実現され得るであらふ。
「光は東方より」の言葉は此事であった。地上天国も此事であった。仏説の彌勒聖代も此事に外ならなかった事を言って、一先づ筆を擱く。
(昭和十一年)