私の信仰の経路

私の生れたのは、浅草橋場で浅草観音様の裏の方であって、明治前に私の曽祖父が武蔵屋喜左衛門といって、其の界隈での幅利きで橋場から五六丁離れた所の浅草町という所で質屋を営み、相当の財産家で義侠心に富み、今の町長位の資格であり、人を助けることが好きで鳴らしたものであった。此の浅草町に明治の初年迄営業を続けて居たのであります。

何年頃か知りませんが、其の当時浅草の観音様の御本尊を質に預けたものがありましたが、流れて其の儘になったのであります。尤も、観音は宮戸川へ流れて来ていたのでありますから、流れるのが因縁かも知れませんが、私の父の乳母が、私の家に御本体があったといって居りましたが、父の義理の兄が失敗して御本体も人手に渡ったのかも知れませんが、今はそれはありませんそうです。

私はその橋場で生れたのであります。日本の艮は東京で、東京の艮は浅草で、その又艮にあたる橋場で生れたのも何かの因縁で、私が十五位の年迄此処に居ったのであります。 太陽は東から昇ると言われますが、東と言うより艮の方から昇りますから、色々に因縁は深い訳であります。

浅草の観音様の御本体は、明治時代に無くなっていると言うことは事実らしいのであります。元は本当の御神体は橋場の私の家の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中は浅草寺にお移しして居たのであります。私の家の菩提寺は三河島の観音寺という寺であるのも深い因縁のある事であります。私も子供時代にこの様に非常に観音様に縁があると思って居りました。今日に及んで充分訳が判った様に思います。


私の幼時は平凡でありましたが、只有難いと思ったのは非常に貧乏であった事であると思って居ります。浅草の橋場の生れでありますから、江戸っ子であります。浅草は東京の東、東京は日本の東、日本は世界の極東であります。私の生れたのは浅草の観音様の裏で、観音様の東であります。

当時私の両親は、古道具屋をやって居り、浅草の観音様の境内で夜店に出て居ったのであります。父が荷車を挽き、母は私をおぶって荷車の後押しをし、共稼ぎをして居りました。此の様な境遇の内に育てられた私は、幼時から物を大切にしました。今以って物を無駄にしないのは、心の内に染込んで居るからだと思います。


小学校時代二年から三年を飛越えて、四年に上ったのを見ると他の人よりは優れて居たのだと思います。尚又、成績は優良の為、何時も一番で通したのであります。これは私は負ける事が嫌いであったからだと思って居りますが、人々より優れて居た事が解ります。此の為八年の小学校を七年で卒業したのであります。

私は美術学校へ入学を志し、中学程度の予備校へ入り、美術家とならうとしましたが、病気の為に止めたのであります。この時代に絵筆の使い方を知ったのであります。十七八才から二十五才迄は、病気の為ブラブラとして居りましたが、其の間に色々な書物を読んだのであります。其の本は商人になる様に志し、盛んに読んだのであります。

二十五才の時、小間物屋を始め、十年位で十五万円位儲けました。成功者として非常に評判になった。其の頃朝日ダイヤを発明して、十ケ国の専売特許が得られたのであります。アメリカへ盛んに出して儲けましたが、其の内に失敗して宗教生活へ入ったのであります。盛んな頃、資本金二百万円の株式会社と迄したが、大正九年のガラで散々の失敗をしたのでありますが、この失敗が信仰生活に入った動機となったのであります。

私は普通の商人の様に、決して我利々々亡者ではなかったのであります。苦学生を養ったり、苦学生に学資を送って学校を卒業させてやったり、救世軍や何かにも寄附したり、慈悲善根を施し等しましたが、其の内十五万円位損をしました。


前の家内の四人の子供が皆亡くなり、家内も亦病気中流産をして亡くなるという大不幸続きで、私は、これ程よい事をしているに拘らず、この様に失敗や不幸続きは解らんと、何か信仰に入らうと、いろいろ調べたが其の頃新聞で大本教の広告のあったのを見て引きつけられて、信者になる動機を得たのであります。


昭和二年神憑りとなり、色々のお知らせを受けたのであります。何十万年前からの歴史及過去未来の色々の事を知らされたのであります。これから述べることは、この時にお知らせがあったのであります。

大使命を知らされ、光明世界建設の事も、この時に知らされたが、最初私は是れを疑って居りましたが、其の後沢山奇蹟が続出したのであります。この状態が三月ばかり続きましたが、其の後半ケ年位後に、大本教へ行った時出口先生が神憑りで知らされた通りの事を言って、あなたは病気治しをすれば、何程でも治ると知らされたので、家に帰って病気治しをやって見ると良く癒るので、いよいよ神様から大使命のあった事を悟って、三年かかって商業を廃め、神様専門になった訳であります。


近頃の流行語にインチキといふ事が沢山あります。インチキ宗教とか、インチキ野郎とか、あれはインチキだとかいふやうに、馬鹿に流行ってゐる。で、インチキといふ言葉は怪しげなものに対し、ピンと来る一番適当な言葉です。一番よく使はれてゐるのは宗教に使はれるインチキ宗とか邪教とか、新聞雑誌等によく出てをります。私はその度に思ふ。遠慮なくいへば、今日如何なる宗教もインチキでないものはない、全部がインチキであると断定出来るんであります。

インチキといふ事は、他の言葉でいふと、インチキの言葉が一番よく表はしてゐるんで他の言葉にいゝのがない。古い言葉で言へば誤魔化しとか、贋物とか、まやかしものとかいふ意味で、要するに本当のものではないといふ意味であります。

そういふ意味からいふと、宗教以外に沢山あり、本当らしい顔をして本当でないものが沢山ある。

新しい宗教を多くインチキインチキといひますが、或はそうかもしれぬが、然し観音会丈は絶対にその名称は当てはまらぬ。如何なる宗教でも何でも、手前味噌は言ふのですがこういふ言訳は効目はないが、ここにお出での方は判ってるが、世間では又味噌を言ってるやうに言ふ。


先刻米沢さんが言ったやうに、観音運動は当然の事を行ふといふのが観音運動の根本で、当然の事を行ひ又行はなければならぬといふ事は、如何に世の中の人が当然の事を行はなくなってるかといふ事になる。兎に角脱線が多過ぎるといふ訳になる。此事をしっかり判れば観音行は一番よく判るんであります。よく判るやうにいろいろお話してゐるんで、今迄の世の中の事とは大分違ふ。

ともすれば今迄の癖が出て観音行にならなくなるといふのは、その前に観音運動の根本としては、人間個人をよりよくする、要するに人間らしい人間を造るといふ訳で、実際今日世の中を見渡して、人間らしい人間は実に少なくなった。見付けるに骨が折れる。それでは一般に沢山の人間はありますが、誰かの歌に“人の皮着た獣なりけり”といふやうな歌があったが、獣のやうではないが、人間よりは以下になってる心や行になってゐる。


神が人間を造られた目的は、今日の人間のやうなものでなかった。然し之も必要があって今迄そういふ風になってゐた。で、今度いよいよ人間らしい人間を造るといふ事になるんであります。それは何かといふと、人間として行ふべき事考ふべき事はちゃんと決ってゐる。それ以外に脱出しやうとする為に、いろいろ面倒が起る。病貧争の根本はそこにあるのでありますから、今日の人間は殆んど病人で、どんな方をみても本当に無病息災といふ人はない。

殆んどが病人で、身体はよくみえても心は本当でない。心と身体とは使ふもの。お腹に虫が涌くのは何の為かと聞く人があって、それはお腹が虫の涌く位腐ってゐるからだと答へたのです。之は本当で、人間の身体には虫の涌くべきものではない。虫といっても蛆虫ですが、肚に蛆が湧く程に肚が汚い、肚が汚いといふことは心が汚い、心が綺麗ならば肚に虫の湧く道理はない。では子供はどういふ訳かといふと、子供は親の分身であり枝ですから、枝がわるくなるのは、この根がわるいに決ってゐる。それ位に人間がわるくなってゐる。

ですからいつもいふ通り、病気治しは血を浄める事、浄化する事ですから、私はおワイ屋と埃とりと兼帯でしてるんで、人間の身体に湧いた塵やおワイをとるのと同じで、之は本当の事で、それ程に汚くなってゐる。それ程心が汚れてる。その肉体を綺麗にし、心を綺麗にし立派なものにする。それが観音運動で、肉体を綺麗にするのは、健康にする事で、心の間違ってゐるのは、心が病体なんで、心と肉体即ち霊体を健康にする事は誰もしなかった。


心を治すのに宗教があり、肉体を治すのにお医者があった。宗教も三千年も前から、世界中にはいろんな偉い人が出て、生命を犠牲にする位にして人間の心を治さうとし、医者も何千年前からやってゐる。こうして一生懸命宗教家も医者もやりながら、人間はさっぱり精神肉体共に健康にならない。反って反対に病体に余計なりつつある。之は何処かに欠陥がなくてはならぬ。斯んなにひどくなるとは可笑しい。

こんなにひどく不健康な人間が出来たといふのは、霊体共に治す所の宗教や医学が皆インチキだったからで、もし本当のものが出来てゐたら、もっと結果がよくならなくてはならぬ筈であります。然し、まやかし物でもまるっきりまやかしものなら存在の価値はなくなる。いい点も沢山ある。もし今日迄、宗教や医学がなかったなら、もっと人間の健康はひどかったかもしれぬ。或はもっとひどくならずにすんだか、それは判らぬ。それは試してみなければ判らぬ。

宗教はそうではないが、医学の方は、もしなかったならばもっと健康は害はれてゐなかったと思ふ。観音運動は宗教や医学を本当のものにするんで観音様の思召もそこにあるんであります。本当の宗教と医術を拵えて、人間を本当に健康にすれば、それでよいのであります。


今夜の夕刊に大本教の事が出てゐたといふ事ですが、国体変革の証拠あり、建物全部を破壊して根絶する方針とか出てゐたんですが、之等も実に当然の事をしなかった為で、何といっても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。然るに何ぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから、全然宗教の埓外に出ているから、当然大鉄槌を食ふに決ってゐる。

当然の事とは、宗教は宗教としての使命がある。商人は商人として、軍人は軍人としての各々するべき事、すべからざる事と判然と自ら決ってゐる。之以外の事をやれば滅びるに決ってゐる。今日の宗教は、社会事業をやってゐますが、之が間違ってゐる。そういふ社会事業の背景となる事はいいが、それを直接するといふ事は全然間違ってゐる。


大きな事は、小さい事で一人一人個人個人よい事をすればよい。良い個人が沢山寄れば政治等も完全になる。敢て政治等に嘴を入れなくていい。政治は政治家がやる。宗教は霊肉を完全にする。それ丈やればいい。所が人間を完全にする丈の力のある宗教はない。精神が健全なれば、肉体は健全になるに決ってゐる。行が当然な行をし、間違った事をしなければ健全になるに決ってゐる。


昔から「健康なる精神は、健康なる肉体に宿る」といひますが、之はちっと疑問がある。随分大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規等肺の初期になって、反って大作を残した。石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。ですから健康な肉体に健全な精神が宿るといへば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。

然し、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作る事が根本で、凡ゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。然し乍ら、如何なる宗教の信者も病人のない宗教はない。信者でも信者でない人も、健康状態は同じ様なものです。それは力のない事を証明してをります。

ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、大体此二つで世の中はよくなる。政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。宗教改革といっても、ルーテルのやうなものでない、もっと大きい。


今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。


各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。こういふ事を真面目にいふと、甚だお気の毒ですから、反って反感を持つといかんから、滑稽にする。最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最近は屁の玉宗、今度は南無諦め宗といふのを作りました。今読んでもらひます。

「南無諦め宗」(御発表)

此次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗といふのをやるつもりです。 観音運動の目的は只今お話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然の事をする人間を造る事は、非常に簡単であってなかなか難しい。何故かといへば、今迄のものは、人間が当然な事をしなかった為に、どっちかへ脱線する癖がついてゐる。その癖を直すのが観音運動にもなる。

観音運動は御承知の通り、観音様はどちらへも片よらぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、又火と水のお働きをなさる。火と水両方合したもの、丁度お湯で、人間を湯へ入らせるやうに、いい気持にさせる。之は先だって言った事ですが、丁度気候でいへば春と秋で、寒からず暑からずといふ具合です。

之が人間の行になり、心になればよろしい。どういふ行かといふと、どっちへも片よらぬ、極端にならぬ行で、今迄の宗教とは、その点が反対な程違ふ。今迄の宗教は、非常に熱心になる程極端になる。狂人じみてくる。狂信になる。そういふ信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人からは反対され、結局信者丈の附合になって、それで神様の思召に合ってると思ふ。

所が観音行は信仰が進む程、信仰してるのかどうだか判らなくなる。此点が判らぬ事で、要するに味噌くさくなくなる訳であります。例えてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいふものはないのであります。

陽気が変るやうに、天が晴れたり曇ったりするやふに、水の流るる如く少しも拘泥してはいかぬ。

「天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり」

森羅万象、天地一切、凡ゆるものの動きが観音行になってゐる。之を人間一切の行にする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止る、行詰る。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じ事で、個人がそうなれば必ず栄えて行くに定ってゐる。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れる事のないやう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるやうに人間は造られてゐる。

そうならないのは間違ってゐる。人と話しするにも、丁度その時いゝ気持で聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方が未だその気にならないでをれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がゐても、その人達や、その場の空気によって言ふべき事や、態度とか座り方など丁度いい所がある。そういふ事が判り、自然にそういふやうに行が出来れば、魂の磨けた人で、根本は飽迄平和で行かなければならぬ。


観音様は天国ですから、争がないから、地獄的なことは絶対にいけない。争などの場合は観音行とは全然違ふ。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のする事であります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやる事で、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言ってゐる。 養生法でも食物でも、東京人はどういふ物を食ひ、どういふ風に働くかちゃんと誰も決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、未だ未だ複雑な世界に、昨日と今日と同じ行ではいけない。

自然天然に観音様の守護をうければ、丁度いい行になる。で、非難もどうする事も出来ぬ。反って世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間におくべきものは床の間に置く。

当然の事をするのは訳はない事で、又或は今日の世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならない事になって来てゐる。今ははっきり判りませんが、いづれは今迄の考えを持ってゐると、生存する事の出来ない程の時期が来てゐる。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化の方は世界は恒久の平和になってゐるが、人間の精神の方は後れてゐる。之を神様は急がれてゐるんであります。

個人をみて私は、その方の口の利き方挙動によってもよく判る事がある。その場、その時に合ってる事をいふ人は、よほど研(ミガ)けた人で、その場に外れてる事をいふ人がある。観音行に外れてゐて浄ってゐない。


斯ういふ風に、士農工商の凡ゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人達等、各々自己の階級職業等により、丁度合ってる社会が出来る。そういふ世の中が出来れば、悪魔の目的は大変齟齬(ソゴ)するんで、之をさせまいとする。その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導かふとする。

之が彼等の目的で、今日の学校教育なども破壊し狂はせる事を教へる。学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。こういふ事に対して観音運動は、狂はせないやうにする。宗教そのものも狂はそうとしてゐる。

大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。そのくせ一方では人類愛善運動などしてゐる。之は自分達が神の選民と思はせる。そして社会の一般人よりは一等上だといふのですから、社会の人間は眼下に見下す。平民をみるような態度で、社会から特殊扱ひにされると偉がる。又そういふ人は団体中でも、信仰が進んでる等といはれて威張る。

第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化物と、両方がそうですから、大いに狂人と化物にならなければならぬといふので、殆んど狂人じみないと信仰が進んだといへない。そして当り前な事をすると、あれは未だ駄目だといふのです。それで、その団体が気違ひじみる。大本のみでなく他の各団体にもこういふ団体は沢山あります。

之は悪魔が各宗教を通じて物を狂はせやうとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、そういふやうな宗教と、後は全然無力な宗教との二種ですが、無力宗教の方は売薬の如うなもので看過してもいいですから、今迄の宗教は、真理だと有難がった中にも、人心を狂はせやうとする働きが沢山あります。

親鸞が言った「善人尚往生を遂ぐ、况んや悪人に於てをや」といふやうに、悪を栄えさせるやうな事、あゝいふ様な事が各宗教に沢山あって、生長の家でいふ「物体は心の影なり」といふのは、狂はせやうとする大きなものであります。之も物を狂はせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥には或悪魔がゐる。ですからお気の毒だが滅びるんであります。

もし皆の人があゝいふ思想になれば、折角発達した世界がどうなるか知れない。当然の事、当然の物が本当のものなんであります。

森羅万象一切に狂ふものはない。草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂はぬ。天地自然の運行は狂はぬ。

悪魔は破壊しやうとして、その為に人間を狂はさうとするのです。

神様は之を救はれる訳であります。