現在進歩せりと誇称し、世人も亦そう信じてゐる医療なるものは、恐るべき程の大誤謬に陥ってゐる事である。それが為に病が治癒される所ではない。病は大いに悪化されてゐたら、それを治ると信じて行ってゐるとは、何と恐るべき事ではないか。
難症といふ程でない一寸した病気に罹っても、容易に治らないといふのはそれが為であり、又一度病気に罹るや持病になったり、慢性になったりするのもそれが為である。多額の費用を使ひ苦痛を堪え忍びつつ受くる医療が病気を良化するのでなくて悪化さしてゐるといふ事は、何と恐るべき事ではないか。忌憚なく言へば、医療に救はれるよりか、医療に害はれる方が多いといふ事は事実である。例へて言へば、三人助けて七人殺すといふ様な訳である。
此根本的大誤謬は、近き将来に於て必ず専門家は固より一般に知識さるべき事は、火を睹るよりも瞭かである。何となれば、誤謬や錯覚は決して長く続くものではない。然し乍ら、暴露するとしても、一日早ければ一日丈人類は救はれるのである。私は夫等の点に就て悉しく述べてみよふ。
病気とは、人間自身の自然浄化作用の課程現象であるといふ事は、再三述べてある通りである。故に、発病するや発熱する。此発熱なるものは頗る貴重なものであって、発熱によって半分は治病されるのである。之に就て実際の例を挙げてみよふ。
結核患者に於る発熱に対し、医学は病勢悪化の為と解釈してゐるが、之は大いなる謬りである。医学に於る結核患者と見做すものは、其殆んどが頸部附近の水膿溜結と胸部脊部に於る或部分の肋骨膜及び、その附近の水膿溜結であり、又、肺より出づると思ふ咳嗽は実はそうでなくて、喘息の為のそれである場合が殆んどである。未だ医学では喘息の原因が判らないが、之は胃部及び肝臓部附近に滞溜せる水膿が喀痰となって排泄される為の咳嗽である。
故に、発熱に由って各部に滞溜せる病原である水膿溜結が溶解されるのである。溶解した膿結は喀痰となり、又は排便と共に出づるのである。故に、発熱が高ければ高い程それは水膿がより固結せる為である。
此理に由って病気治療上、発熱程貴重なものはないのであるに係らず、それに盲目である医学は、発熱を非常に恐れて下降せしめんとするのである。之が為に、折角膿結を溶解せんとする作用を妨害するのであるから治癒する筈がないのである。此理に由って、医療を加へず放置してをく方が治癒する可能性がある訳である。
今一つの例を述べよふ。それは扁桃腺炎である。本療法によって扁桃腺炎は一、二回で完全に全治するのであるが、之は発熱がよく溶解させるからである。然るに、小児の扁桃腺肥大は治癒するのに、本療法によるも十数回を要するのである。何となれば、発熱がないからである。発熱がないといふ事は、患者が弱性の為に浄化活力が欠乏してゐるからである。浄化力旺盛が発熱をさせるのである。
今一つの例を挙げてみる。本療法によって驚く程速かに治癒する病種は先づ、盲腸炎、肺炎、肋膜炎、腎孟炎、睾丸炎等の熱性病であるにみても明かな事実である。
次に結核予防として、風邪に罹る事を非常に恐れるのであるが、之も非常な誤りである。結核の原因となる各部に滞溜すべき水膿溜結を、少量の時代に簡単に排除する自然浄化が風邪なのである。故に、風邪こそ結核予防上最大な効果があるものである。故に、風邪に再三罹る程、其浄化に由って結核を免れ得るのである。
之に盲目である医学は、反対に風邪に罹らせまいとするから、そうすればする程、結核に犯されるといふ結果になるのである。之を以て今日叫ばれてゐる結核防止の手段は、実は結核増加の手段を執っているのであるから、官民ともに如何に努力すると雖も、益々激増するのは当然な訳である。噫、医学の誤謬や寔に恐るべきである。
次に、薬剤による病気悪化は、黙視出来ないものがある。就中、最も恐るべきは消化薬、下剤、解熱薬、強心剤、沃度剤等である。その一々を説明してみよふ。近来頗る多数に上りつつある慢性胃病患者はその原因として尽く消化薬である事は一点の疑がないのである。之は私が毎度言ふ通り、消化薬を服みつつ、消化のいいものを食する時は胃が退化する。
胃が退化するからそれを行ふといふ循還作用に因って終に重症となるのである。之と同じ様に、下剤を服めば排便器能が退化するから便沁する、便沁するから下剤を服むといふ循還作用に由って、頑固性便沁症になるのである。そうして、薬剤はその成分は殆んどが毒素である。毒素であるが故に、効果があるのである。それは実際をみれば能く判るのである。
(昭和十一年)