不思議な団体

我観音会下付の観世音菩薩の御神体を奉斎して会員となり、月に一回乃至三回本部の祭典又は講話会に出席をなし、半ケ年か一ケ年を経過するに於て、一家より病魔が退散するといふのは、実に不思議な事である。一家に病気が無い以上、自然物質は裕かにならざるを得ない。病人が無く、物質が豊かであるとすれば、不和や争の起りやう筈がない。茲に全く病貧争の不幸は解消する。斯うなった以上、総ては順調に向ふのは当然な話である。

是に於て、如何なる人と雖も、感謝の心が湧起しない訳にはゆかない。其結果として、報恩の心は近親へまでも其恵みを頒ち与えずには措かないといふ事は必然の理である。又、其天国的家庭を見た誰もが、其事実に心を動かさずにはをられないから、終には共鳴者たるやうになるのは勿論の事である。此点に就て黙視出来ない事がある。それは世間往々貧に苦しみ、病に苦しみ、信仰地獄的状態に在りながら猶、人に信仰を奨めやうとする宗団があるが、実に沙汰の限りである。

苦しんでゐるといふ事は、地獄に堕ちてゐるのである。自分自身、地獄に墜ちてゐながら、人を天国に救える道理は有り得ない。之は大変に誤ってゐる。其人達の曰ふ事は斯うである。それは、苦しむといふ事は、罪障が深いのであるから、其罪障を消すべく大いに信仰を励まなければならないと言ふので、苦悩が来れば来る程、一層馬力を掛けるといふ悲惨なる喜劇である。

仕方なく泣く、斯ういふ状態を何時迄も続けてゐるといふ悲劇が到る処無数に行はれてゐるのである。恰度、病気で苦しいから医療をする、其医療が病気を悪化させる。悪化するから、医療が足りないと思ひ、多々益々医療を行ふといふのと同じ経路である。本来、信仰をすればする程、其徳に由って罪障が消滅し、幸福の境遇になり、無病息災にならなければならないのに、それが反対に苦悩が持続する。それが常態になって了って誰もが怪しまないといふのが実状である。

不幸を除去し得ない宗教は止むを得ずトリックを使ふ。それは、不幸や苦痛も神の恩恵として感謝しなければならないといふ、洵に変態的心境にして了ふのである。嗚呼、何と驚くべき悲惨事ではなからふ乎。

然るに、我観音会の信者即ち入会者は、全然之とは異って、病貧争が全く無くなるのである。如何程会員が増えても、増える丈会員の家庭に病人が発生しないのである。此事実こそ、恐らく全世界に、又、人類の歴史にも無いであらふ。私に言はせれば、病の無い世界、それは容易(タヤス)い事である。全人類が挙って観音会員になればそれで可いのである。

斯の様な、洵に痴人の夢にも等しい一大福音が既に現はれてゐるのであるから、一日も速く大衆に知らせる事、それが何物にも増しての人類救済である。之に由って結核療養所も、癩療養所も、病院も、養老院も、孤児院も、終には警察も裁判所も要らない時代が来るであらふ。繰返して言ふ。それは観音会といふ団体が拡充する事に由ってである事を--。

(昭和十一年)