西洋医学に於る各種病原は、黴菌といふ事になってゐる。そうして黴菌の侵入によって病気発生となり、それが治癒されるのは、其血液に抗毒素なる一種の殺菌作用が発生するといふ解釈である。
然らば、其抗毒素とは一体何であるか。此点医学では未だ発見されてゐないのである。それは、新たに抗毒素なる一種の原素が自然発生する如に思ふが、決してそうではないのである。
又、医学では種々の病気に対し免疫といふ事を言ふが、之も抗毒素と同じ意味である。
前述の如く、抗毒素なる原素が無いとすれば、それは如何なる理由であるか、其説明に当って先づ順序として、病気発生から説いてみる。先づ病菌が血液又は組織に侵入し、猛烈な勢で繁殖しつつ、或程度に至って其勢は漸次衰退する事実である。それが病気軽快であるのは勿論である。
然らば、何故に菌が繁殖するのかと言へば、それは菌を養育すべき栄養即ち、解り易く言へば、血液中に菌の食物が豊富に在るからである。菌の食物とは何か、それは血液中に在る不純物である。血液以外の存在物である。
茲で、血液の本体を明かにしてみよふ。元来血液なるものは、血液そのものであって、絶対に他の何物もないのが真の血液である。そうして、純正血液の保有者は、決して病には罹らないのである。故に、真の健康者とは即純正血液の保有者である。
然し乍ら、人間が社会生活をなすに於て、血液の純正を保つ事はなかなか困難である。どうしても或程度濁らない訳にはゆかないのである。故に、造化神は此濁り即ち血液以外の不純物を排除し、絶えず血液の純正を保つべき作用を人間に与へてあるのである。其工作の一種であるのが各種の病菌である。といふよりも黴菌の発生すべき自然装置である。
右の如き、黴菌自然発生の装置とは如何なるものであるか。それは清潔な所には発生せずより不潔程発生する事である。何となれば、黴菌なるものは一個の掃除夫とも言ふべき役目のもので、清潔には掃除夫の必要がないが、不潔であればこそ其必要がある訳である。
然し、茲に面白いのは其掃除夫は他から傭って来るのではない。相応の理に由って不潔そのものが生むのである。そうして自分を生んだ不潔物を、それから生れた掃除夫が掃除するといふ事は、如何に巧妙な方法であるかに、感歎せずにはをられないのである。
此理は人間に対する場合、広義に解釈しなければならない。それは不浄血液の人間が、社会に増加すると同じ程度に於て黴菌も発生するといふ事実である。斯様に森羅万象は、必要があって存在し、発生し、必要丈の活動を為し、必要量の繁殖をするのが法則である。唯人間の眼に、其必要不必要の真相が映り得ない丈のものである。 これ故に、人間の健康を阻害する、血液内の不純物を除去する掃除夫として、黴菌なるものが発生し存在するのである。
然るに此掃除夫が不純物を掃除する方法としては、其不純物を食する事である。食しつつ生殖作用を営んでは繁殖してゆく。そうして其食物が欠乏するに従って漸次餓死してゆくのである。此場合血液は絶えず循環してゐるから血液全部に伝播するのは勿論である。そうして、病菌餓死と共に血液は純化されるから其病気は治癒するのであるから、宛かも抗毒素なるものが醸成されて治癒した如く見えるのである。
黴菌に種類があるのは、不純物に種類がある事も面白いのである。
此理に由ってみれば、黴菌そのものは、人間が健康を持続する為の血液浄化の役目を果す重要なる存在であって、若し黴菌の発生がなかったら、幾千幾万年の後には、人類は滅亡するであらふ事は想像されるのである。故に黴菌が人体を犯さない迄に予防し得たとして、果して人間の健康はどうなるであらふかを説いてみよふ。
血液の掃除夫である黴菌を近づけない事に成功したとすれば其結果は益々血液の汚濁である。それが自然浄化に由って不純物の残渣が作られ、一種の毒素となって頸部から肺尖部へ溜結する。それが進んで肺結核となるのである。又、不純血液が浄化されない毒血のままで脳を犯すそれが脳溢血である。近来、肺結核、脳溢血、近眼、其他病患者激増の真因は、此原因に由る事も多いのである。
最近当局の調査によれば、警視庁管内だけで急性伝染病に因る死亡者が一ケ年約五千人で、年々減少の傾向があるのに対し、慢性伝染病たる結核に因る死亡者は一万三千人、それも増加の傾向で、急性伝染病の方は届出通りの数であり、結核の方は届出よりも実際の方が多いに違ひないといふ事である。之は全く右の私の説を裏書してゐるのである。即ち、百人の伝染病を予防し得るとするも、其結果千人の結核患者を作ってゐるといふ訳である。
(昭和十一年五月十一日)