私が創成した新日本医術に依る健康法とは、如何なるものであるか。それは解り易く言へば、健康法などといふ事に無関心である事で、衛生に注意するとか、健康に合ふやうにするといふ、其事自体が最早、其目的と背馳する事が多いのである。何となれば、其解釈の基調が、自然と遠ざかるといふ理由からである。
それは今日迄は、人間は病の器と称し、病に罹り易いものであると思ひ、病によっては容易に治らないとしてゐる。それによってたてられた衛生であり、健康法である。然るに私は、之と反対であって、人は健康の器であり、病などには容易に罹るべきではなく、又、罹るとしても簡単に治癒さるるといふ事を前提とするのである。
何故に、今日迄誤ってゐたかといふと、それは、人間を余りに物質視した為である。輒(スナワ)ち、人間以外の動植物と同一視したる事である。動植物は人為的方法で、慥かに健康も改良も為し得るが、独り人間に限ってそうはゆかないのである。そこに人間としての特異な、高等霊物としての価値があるのである。
然らば、人間に対しては、如何なる健康法が合理的であるかといふと、それは飽迄も自然的でなくてはならないのである。人為的が不可なのである。それを具体的に言へば、世界の人種により、国々により、各々其人間に適すべき食欲や生活が、自然に出来てゐるのであるから、それを尊重し、それに従順でなくてはならないのである。
例へて言へば、西洋医学は西洋人を基本とし、漢方医学は支那人を基本として、創建されたものであり、日本医学が無いといふ事は、そういふ物的医術は、日本人には必要がないからである。又、食物にしても、島国である日本は、魚菜が主であるべきが本当である。海の無い大陸の住民が、獣肉を主としなければならないのと、同じ訳である。
之に気が付けば可いのである。今日の日本人が、益々多病と不健康になってゆく其最大原因としては、人間の健康を物的に解決出来得ると信ずる、其誤謬に外ならないのである。即ち此理論を、私は拾余年来、幾百幾千の人に実行せしめて、例外なく奏効してゐるにみて、断じて過りが無いのである。
(昭和十一年五月六日)