観音信仰は、観音行を実践する事は言ふ迄もない。然し、観音信仰は昔からあったのであるが、観音行は無いと言ってもいいのである。
何となれば、真の観音行は之迄の信仰とは、余りにかけ放れてゐて殆んど反対の点が多い位である。先づその点から述べてみやふ。
一般世人が神仏へ対する信仰、その意念と形式は、一つの定型をなしてゐる事である。それは熱心であればある程、凡ゆるものを犠牲にして了ふ事である。例へてみれば、其信仰の為には家庭を捨てて顧みず、夫は妻を捨て、妻は夫を捨てる場合もあり、将来の生活の窮迫を知り乍ら、金銭物質を奉献して顧みず、殆んど第三者が見て狂人とさへ思はれる位である。
然しその当人は、純真にして、熱烈なる信仰を飽迄も思惟し、他の忠言など耳に入るべくも非ず、第三者の忠告は、反って火に油を注ぐやうな結果とさへなるのである。そうして、其時代の目的なるものは、そういふ信仰によって、祖先以来の罪障は消滅され、又、それによって、其信仰団体の理想である世界が実現するのである、と固く信じて了ってゐる事である。
然るに、こういふ状態を続けてゐる内に、段々生活は窮迫し世間的信用は失ふ。終に二進も三進も行かなくなり、抜殻の如き性格を抱く者の数は、数しきれない程多いのである。 是等は孰れも、真の信仰ではない。又其開祖及び宗団と其信仰の本質が、正しくないが為である。要するに、一将功成り万骨枯るといふ式で、信者の幸福を犠牲にして、宗団そのものが大を成さんとし、自己の理想社会を建設せんとする為である。 故に、其機構や活動を仔細に点検すれば、一種の信仰共産主義である。
然し、此様な信徒の幸福を犠牲にして顧みない宗団それ自身は、永続すべき筈がない。何れは崩壊の危機に遇ふのは当然であらふ。又、社会的に観てこういふ宗団の信徒は、一種の精神変質者であるから、往々秩序や伝統を破り勝ちであって、自然その宗団以外の交渉は絶えるのであって、言ひ換えれば、社会的、国家的異端者のやうになるので、其結果として、不敬や脱税等の行為に迄、不知不識に進むのである。 斯ういふ宗教は、時の経過によって解消するのは当然であるが、それに惑はされて気の付かない、善良なる信者こそは、実に可哀相なものである。
然るに、我観音信仰はそれと異り、否寧ろ反対の事が多いのである。極端な犠牲がない。唯大いなる御霊徳に対する感謝報恩あるのみである。又、難行苦行は絶対に観音様の忌嫌(イミキラ)ひ給ふ処である。何となれば、難行苦行は地獄である。観音様は極楽浄土に於る最高の御位で被在らるる以上、どうしても地獄的境遇には堕ちる事が出来ないのである。であるから、観音信仰は洵に易行である。
要するに一切万事常識的である。どちらにも偏らないのである。長い間狂はせられた一種の変態的信仰の型を、世人はそれが真の信仰であるかの様に錯覚して了ったのである。それへ対し我観音信仰は、新しい信仰形式が生れるのである。故に、詮じ詰めれば、人間本来行ふべき事を行ひ、為すべきを為す丈である。即ち、当然の事を適切な行為によって遂行するまでである。
(昭和十一年四月三十日)