悪魔の囁き、とは映画の題名の如であるが、之は誰もが体験する事なのである。大抵の人が、最初観音信仰に入信した時、それは嘗て覚えない程、感激に溢れるものである。それは、今迄諸々の信仰に懲りたり、又、何程信仰しても、御利益がなかったり、又は、真理を掴めなかったりして、失望してゐる所へ長い間、求め求めて熄まなかった宝玉を、見当た様なものであるから、其歓びに浸るのも無理はないのである。 然るに、此処に恐るべき危機が伏在してゐる。それは、悪魔が其人に対し、隙あらば信仰を引落さふと、狙ひ詰める事である。
元来、此娑婆に於ては、昔から目には見えないが、絶えず、神と悪魔が戦ひ続けてゐるのである。其戦といふのは、大にしては国同志であり、次は党派と党派、階級と階級、小にしては個人と個人、今一層小にしては、一個の人間の心の中での、神と悪魔の戦、即ち善悪の争闘である。故に、最大の拡がりは国家間の争闘であり、最小の縮まりは、個人の心に於る争闘である。
然るに、此心なるものは今日迄大部分は、悪に属し易かったのである。謂はば、悪魔の家来が多かったのである。然し、多くの人は悪魔の家来である事を、勿論、意識はしてない。何となれば、意識をすれば最早それは悪魔から放れる事になるからである。
然し終に、神に救はれる人は、此無意識で悪魔の家来になってゐる人が多いのである。それは其人の盲目の眼の開く、可能性があるからである。それ等の人の無意識とは何か、それは其人の善と信じてゐる事が、悪であったり、正神と思って拝んでゐる、それが邪神であったり、真理と思ってゐる事が、不真理であったりする事である。
そうしてそれが、救の光に依って、夫等誤謬の正体が、暴露する事である。 然し、右は救はれる側の人であって、茲に絶対救はれない人もある。それは勿論、少数ではあらふが、はっきりした意識の下に、悪を行ふ人がある。又、悪を好む人もある。此意識的の悪人こそは、滅多に救はれないのであって、之は、最後の清算期に滅びて了ふ憐むべき人々である。
茲で又、前へ戻って説明をしよふ。真の信仰を把握し、過去の誤りに目醒め、感激の喜びに浸ってゐる時、悪魔は己の家来を奪はれた痛恨事に、切歯するのである。よし再び彼を、己に引戻さずに惜くべきやと、其機会を狙ひつめる。故に此事に気の付かない人間は、何等かの折に触れて、迷ひを生ずる。それは多くの場合、親戚知人の親切な忠告や誠しやかな非難の言葉で、其人の心を乱さうとする。
それは悪魔が其親切な言葉といふ、仮面を被って、実は其人を引堕す弾丸である。そうして其第一歩として心に間隙を生ぜしめんと努力するのである。其際余程確固不動の信念を有しない限り、成程、それもそうかなと思ふ。其刹那の想念こそ、実に悪魔の弾丸による、信仰の一部破綻である。此破綻は、例えば戦争の時、城塞の一角が崩された如なもので、其処から敵が続々侵入し、遂に其城廓全部を悪魔軍の手に帰する様なものである。
心に悪魔軍が侵入した其状態は、斯ふである。それは必ず、信仰を離れさせるべき、いとも巧妙な理屈を作るものである。即ち其信仰の欠点を探さうとするので、それが悪魔の囁きである。其時は常識で批判すれば、馬鹿々々しいと思ふやうな事を、さも欠点らしく意識させる。
そうして飽迄も其信仰を非なるもののやうに、理屈づけるが、それは実に巧妙極まるものであって、普通人には到底観破出来難いものである。そうしてさういふ時は、必ず本部へ接近させないやう、本部へ参拝しやふとする時は、些かの支障にも理由付けて、接近させまいとする。それは何故かといふと、悪魔は強い光を非常に恐れるからである。悪魔にとって光程恐ろしいものはない。光に遇ふ時、悪魔は其悪魔力が弱るものである。
万に一つも、助かる見込のない重患が、観音力によって助けられたとする。其時は自分の生命は、観音様から戴いたものであるから、生命を捧げても惜しくないといふ、熱烈な信仰心が起るもので、又、それを口へ出す人も尠くないのである。
それが幾日も経ち、幾月も経つ裡に、不思議な程忘れて了ふ人がある。実に浮薄、驚くべきである。それは、そういふ浮薄な人こそ、巧妙な悪魔の術策に陥り易い人で、折角一度、観音様の家来になり乍ら、惜しくも再び悪魔の虜となるのである。 そうして信仰を離れた人は、例外が無いと言ひ度い程不幸に陥って了ふ事実である。それを常に余りに多く見せつけられてゐる。
然し、そういふ人も早い内に気が付いて、再び救を求めて来る人はいいが、偶には時機を失して了ふ人がある。そういふ人は、不幸の極、悲惨にも滅びるやうになる人さへよく見るので、恰度、一旦乗ったノアの方舟から、海中へ墜ちて溺れるやうなものである。
真に救はれた人は、此点能々注意すべきである。
(昭和十一年四月十九日)