我大日本帝国は、世界に一あって二無き、神聖犯すべからざる皇国にして、畏多くも上御一人の大御稜威と御洪徳によって全世界を知召し、億兆をして各々其所に安んぜしめ、明朗なる道義世界を建設する、それが皇国本来の使命であり、それによって既往の弱肉強食的猶太文化に代って、日本的世界観による新文化を樹立するといふ、天賦的使命を達成すべき国柄である事を充分認識しなければならないのである。
此意味に於て、戦略と雖も敵米英の如き侵略や海賊的行為は許されないのであって、其事は既に事実の上に示されてゐる。それに気附かねばならない。それは彼のガダルカナルに於ける、皇軍としては洵に前例なき程の犠牲者を出した事であり、次のアッツ島に於ける同様の戦績である。そこに深遠なる神の意志である事を窺知し得るであらう。いふまでもなくガダルカナルは英領であり、アッツ島は米領であるから、厳正なる意味に於て侵略でないとはいへないであらう。
又、彼のキスカ島に於ける守備兵撤退が、非常なる好結果に恵まれたといふ事をも惟ふ時、ここにも神意に叶ふ故である事を知り得るのである。従而、現在戦ひつつあるソロモン方面と雖も、結局は撤退の止むなき事態に立至るであらう事を懼るるのである。
以上の意味によって深く考察する時、大義名分の伴はざる戦争には勝利の信念薄弱である如く、神意に副(ソ)はざる作戦は困難のみ多く犠牲に対し得る所予期に反するといふ事である。之は独り戦争のみではない。凡ゆるものに通有するのである。
従而、作戦途上に於て、予期の戦果を挙げ得ざる場合、その作戦理念を凝視し、非理を悟るに於ては、速かに撤退又は作戦の変更をなすべきである。そうする事によって最小の犠牲と、次の作戦行動への利益となるであらう。勿論一時的の面目等に捉はるる事なく、執着を去るべきである。
要するに、他国の領土を犯さざると共に、亜細亜の寸土と雖も侵すを許さざるを以て、厳然たる神国の様相といへよう。畏多くも、「皇祖皇宗の神霊上に在り」と宣はせ給ひし御宸言は、此事に在りと拝察さるるのである。
(昭和十六年)