よく吾々が医学に対し非難しすぎると云って注意をする人があるが、吾等は決して医学を非難しようとする意図は毫もない。唯何物にも捉はれず、独自の見地からの研究によって得たる説を発表するのである。然しその説たるや、飽迄事実に即しているのである。そうして、研究に於ては医学は動物実験を基本とするのに対し、吾々の方は人間を実験台とする。
医学が何故人間の病を研究するのに人間以外の動物を資料とするかといふと、之は万一を慮い危険を避ける意味からで亦止むを得ないと云えよう。右に対し吾々の方は見込違ひなどは絶対にない。若し仮りにありとすればそれは効果が予期したより少ないと云うだけで、些かの危険も伴はないのである。
何よりもおかげ話の感謝に満ちた報告が机上に山をなし本紙に載せきれない程であるに見て明かである。然し、こういふ見方をする人もあらう。おかげ話は成績のよいのだけが報告され、不良なのは出さないから誠に都合が良いといふかも知れない。然し此疑ひは訳なく打破出来るというのは本教の異常な発展がよく物語ってゐる。
「本教は都合の良い宣伝や無理な勧誘は決して行らない方針だ。よく昔から新規開業などの場合チラシを出したいと云って来るがそれを許さない」何となれば、そういふ行り方は甚だ力が弱いからである。どうしても「自分の難病が治り、感激の余り病苦に悩む人を見るに見兼ねて、自己の体験から浄霊や信仰を奨めるのであるから力がある」それは「神に感謝報恩の誠が滲み出てゐるからである以上、人を動かさずにはおかない訳である」するとそれに応じ浄霊を受けるや、忽ち大きなお蔭を戴くので此人も感激の余り他の人を勧誘する。斯くして漸次発展する。それが本当の行り方である以上本教も此方針で進んで行くのである。
之によってみても成績良好者の多いからである事は疑ひの余地はあるまい。のみならず、「世間筆に口に本教を迷信邪教、インチキなどと凡ゆる非難の声を浴びせるがそれにも拘らずビクともしないで発展を遂げつつあるのは、どこかに力強い何物かがなくてはならない筈である」之に無関心である人もあるがそれこそ食はずぎらいの人である。右の事実を充分頭に入れて、これから解く説を心読されん事である。
抑々全世界の医学者が幾世紀に亘って苦心さん澹努力の結晶とも言ふべき現代医学であるから、如何なる人間と雖もこれ以上のものは絶対にないと信じ、病気に罹れば医者に行き、薬をのみ種々な最新の療法をうけ、安心して貴重なる生命をまかせるのである。若し予期に反し思うように病気は治らず、悪化するようになっても医学に対し些かの疑心も起さない処か却って理くつをつける。自分の体質が弱いからだとか、病気が悪質の為とか、手おくれだったからとかいって飽迄も医学に頼ろうとする。
実に其信念の固いのは驚く程である。勿論、医師もそう説明するからそう思ふのである。それで万一不幸の場合、運がなかったからと言って諦める。中には何々病院何人の博士に診て貰らっても駄目だったからよくよく命運がなかったからだと思って済んで了う。之が現代社会のあるがままの姿である。然し、右のやうな事実を日々見つつある専門家諸君も常に思ふであろう。
どうもあの病気は不思議だ、あれ程高価な薬剤や、進歩せる療法や、充分な手当を施したに拘らずよくならない処か漸次悪化し遂に死んで了ったといふのはどうも判らない。又あの病人は最新の療法をあれ程一生懸命に施してもとうとう駄目だった、学理から云っても治らない訳はない筈だと言って、歎声を漏らす事もあるようだ。又やっと治ってやれやれと安心するかしない中再発と云ふ、百日の説法屁一つと言ふ事もよくある。
あれ程医師の言を守り、細心の注意を払ひ、多額の費用と歳月を費したに拘らず、斯ふなるのは実に判らないと言って首をひねる事もよくあろう。茲で面白い事には医師の家族が罹病した場合、大事な妻や子供であるから、どこ迄も自分が治療しなければ安心出来ない筈だのに之又摩訶不思議である。と云ふのはどうも自分の家族は恐ろしくて手が出せない。
仕方ないので友人の医師に診て貰ふ事もよく聞く話である。こんな理屈に合はない話はないではないか、此理由は漸次読むに従って肯けるであろう。又一人の病人を数人の医師が診察すると夫々見立てが違う事もよくある。之はどうした訳か、科学的とすればそんな訳でありよう筈がないが、これでは易者の身上判断と同様でマグレ当り的と言えよう。此様な話は未だ未だあるがきりがないから此辺でやめて、次に一つの疑問符を投げてみよう。
一体人間の病気と言うものは何が為に存在するのであるかといふ事である。造物主が人間を造っておき乍ら、病気という人間最大な苦痛と生命を脅かすやうな、厄介至極のものを拵えたのは如何なる理由であるか、神は愛と言ひ乍ら人間を苦しめる嫌なものを造ったのは、実に訳が判らないと言ひたくなる。先づ何の為に風邪を引くのか、而も何の予告もなく人間の都合などはお構ひなしに突如として襲ふのだから、甚だ始末が悪い処か寧ろ無慈悲と言うべきだ。
処で風邪を引くと寒気がする。身体中がだるくなる。頭も節々も痛い、之は熱が出た為としたら一体熱という奴はどこから出るのだとすると、勿ち咳、痰、水洟、盗汗、下痢、等々代る代るやって来る。一体これは何の為だ、どうも判らない。又いよいよこれからと言ふ年頃になると結核と言う誠に以て恐ろしい命取りの病気に見舞はれる。それも旨く通り越すと今度は神経痛や、リョウマチ、胃痙攣、痔、脳膜炎など我慢の出来ない程の痛い目に遭せる。又少し面白くなかったり心配したりすると、男は神経衰弱、女はヒステリーとなる。ひどいのは精神病と言う。太宰治じゃないが、人間失格と言う言葉通りになるのであるのだからやり切れない。
年を取れば取ったで脳溢血、中風と言ふ半身不随で身体を動かす事も、喋舌る事も出来ないと言う生ける屍になって、何年も苦しみ抜いた揚句、彼世行と言う悲惨な運命となる人も数え切れない程ある。ザットかいても右の通りだが、また病気の種類と来たら昔でさえ四百四病もあったのに、文化が進歩した今日益々殖えてその種類は何千に上るか判らない程であろう。之も摩訶不思議というべきだ。
それで医学は進歩したと言って喜んでゐるのは人間様だ、健康上から言うと動物の方が優ってゐるかも知れないと思ふとは之も可笑しな話だ。御承知の通り霊験神の如き新薬が続出するし、手術と来ては停止するなき進歩によって、脳疾患には頭蓋骨を切り開いたり、肺病は肋骨を切取って代りにプラスチックスを嵌めたり、最近はピンポンの玉を入れると言うのだから、驚くべき巧妙な技術である。
又少し悪い処があるとメスで切りとって了ふ、腎臓などは両方なくともよい、片方だけで充分だと言って除って了うかと思えば、気胸療法といって片一方の肺臓の呼吸を止めたりする。此様に医学は進歩したと言って感心したり有難がってゐる姿を人間を造った神様が御覧になったら、何と仰言るだろう。お喜びになるか、お歎きになるか神様に伺ってみたいものである。
以上長々述べたやうに、全世界の学者は研究室に閉じ籠り、動物試験に、顕微鏡に、臨床に、新薬発見に苦心惨澹、幾多の新学説を生み出し、ノーベル賞の獲得を最後の目的としているのである。処が驚くべし、吾々からみれば右は医学の進歩処でなく、最初から医学ではないのである。実を言ふと医学はまだ広い世界に一つも生れてゐないのであるというと、馬鹿を言え、これ程立派な医学が出来ており、而も益々進歩発達しつつあるではないかと仰言るだろうが、実は真の医学と言うものにまだ出遭った事がないからである。
真の医学を知らない以上、致し方ないのであると言うのは、早く言えば医学に似たものを真の医学と錯覚して来たので、実に素晴しい迷蒙であったのである。然らば、真の医学とはどう言うものであるか、それを何人にも納得ゆくよう徹底的にかいて見よう。
(昭和二十五年五月二十一日)