人は神の子にして又罪の子なり

時事論壇

近来「人は神の子である、否罪の子である」といふ論議が、相当行はれてゐるが、之は今始まった問題ではない、二千年もの前からの懸案であってそれが今日に到って尚未(マ)だ解決付かないといふだけの事ではあるが、之は左程むづかしい問題ではないので、簡単に解決せらるると思ふ、それは何かといふに、凡ての物に表裏のある如く、人は神の子であって、又罪の子である。

元来人間は神性と獣性と両方面を具有してゐるので、向上すれば神の如くにもなり、堕落すれば獣類の如くにもなるのであって、彼の死して護国の鬼とまつらるゝ如き人は、それは神性に迄向上したからである。

動(ヤヤ)もすれば、獣性に堕ちんとする人間を、さうさせまいとするのが、宗教、教育、道徳の役目である。

唯物主義は、往々人間を獣性にする傾きがある。唯心主義は、人間を神性に導く力がある。然し之も絶対とは言へない、反って逆の場合もある、例えば唯物主義にしても人類の福祉を増進する発明をなし、又は発見をする人は、立派な神格者である、それに引換へ、唯心主義者と雖も、余りに物質を無視し、霊に偏よる結果は、一種の敗残者となり社会的に無為無用の人間となり、世を救ふと言ひつゝ実は自己が親戚知人に救はれなければ生存が出来ないといふ人があるが、是等は一種の獣的堕落者であらふ。

之を要するに、如何様に説くと雖も、結論は飽迄「人は神の子であって又罪の子である」故に世の宗教家教育者は、罪の子を造らぬやう、又罪に堕した者と雖も、神の子たらしむべく、努力しなければならないのである。

之を今一層適切に言へば人間は一日の中にも一時間否一分間の中にも神の子となり、又罪の子にもなるのである、それは善を思ひ善を行はんとする時は、神の子であり、不正を思ひ、不善を行はんとする時は罪の子である、最近、某氏の誇らかに説く漫然と人は神の子仏の子であると断定するのは、半面の見方であって、未(マ)だ全真底に触れてゐない、謬った説き方であるといふ事である。

之を要するに、神の子又は罪の子と、一方的に決定する処に誤謬を生ずるのであると思ふのである。

(東方の光九号 昭和十一年一月一日)