観音力療病は観念療法に非ず

医薬療法以外の療法例へば信仰的霊的療法によって、難病が治療せられた事実を見て、多くの批判者は決り切って曰ふのである。それは神仏に頼ってゐるといふ、患者の観念が一種の安心を得るから、それに依って治病されるのである。言はば神経作用である。随而それは特殊の病気に限られてゐるので、多くは神経系統に属するものであると-斯ふ「さも真相に触れた如に」断定するのである。

尤も是等は「生長の家」等が主張する病気が無いと思えば治るといふ説や「人の道」が言ってゐる。お振替又は神宣によって病気が治るといふやうな事から生れた一種の客観的常識批判とも謂ふべきもので、一面無理のない見方でもある。

然るに、我観音力療病に於ては、右等とは全然-相異してゐる。其点を発表したのである。それは何かと言ふに絶対に精神作用や観念療法でない事である。

先づ一例を挙げてみやふ、茲に或患者がある。其患者に向って経験済の知人が、観音力治病を奨める。其場合患者は、絶対に信用しない。そんな方法で治るものかと否定する。然し知人は一回でもいゝから、斯されたと思って行けと飽迄勧めるので、患者は止むを得ず、其好意に対し断りかねて渋々来るのである。其時の患者の態度に見てアリアリと判るのである。

それに薬剤も器械も用ひず、唯指頭の技術のみであるから、治癒する筈がないと思ふのも無理はないのである。故に最初は仕方なしに治療を受けてゐるといふ訳であって、全快の後よく其時の心境を語って、大笑ひする事があるのである。故に些かたりとも軽快になるなどゝは、夢想してもみないのであるから-其際-観念は零である。然るにも係はらず、驚く程速かに軽快に向ふので其時の患者の驚愕は、実に滑稽と思はるゝ程である。

そうして間もなく治癒されて了ふ。その不思議さに誰しも人間以外の力超人的観音力の存在を信じない訳にはゆかないのである。

此力が素晴しければ素晴らしい程体験のない第三者としては、益々信じられないといふ困った事実である。他の療法は茲では云々しない。唯我観音力療法は絶対に観念の加はらない事を言へばいいのである。今一つの例は、観念力の有り様のない小児が、反って能く治癒されるといふ事実も附加へたいのである。

故に我療法は患者が病気が無いと思はなくともいい。病気が在ると思っても治癒されて了ふ、否自分の病気は治らないと諦めてゐても、何程疑ってゐても治癒されて了ふ此不思議なる大事実を知るならば、批判者は何と言ふであらふか。

今一つを加えよふ、それは発狂が治癒される事である。狂人に向っては観念療法は到底行はるべくもない事は明かである。其他梅毒、癌腫、痔瘻、喘息、脳炎、中風、結核等、観念論者が、想像し得られない病気が、続々治癒される事実である。

之を要するに、薬剤療法に非ず、物理療法に非ず、信仰や祈祷療法に非ず、観念や精神力に非ずして凡ゆる療法によるも治癒し難い難症の治病率が、八十パーセンテージ以上を挙げつゝあるといふ、生きた事実である。

之を爰(ココ)に発表して、世の専門家乃至識者に問ひ度いのである。

(東方の光九号 昭和十一年一月一日)