宗教の真の使命は、病気治しである。否、宗教の全使命が病気治しであり、それ以外には何物もないのである。故に病気治しを行はない宗教は宗教としては無価値であると謂へるのである。然し乍ら唯病気と言へば、人間の肉体的のみに解釈し易いのであるが、実はそれ以外、凡ゆるものに病気はあるのである。茲に其真相を説いてみやふ。
然らば、人間の肉体以外の病気とは、何ぞやと云へば、それは人間の思想にも病気がある。即ち不純な思想の持主は思想の病人であり。社会的不安の真因たる諸々の不正堕落は、此病的思想から胚胎(ハイタイ)された症状に外ならないのである。
即ち個人の集合による社会は、個人の病的思想によって、病的社会、不健康な社会相を現出するのは、当然な話である。立憲政治の運用が国家の進運に伴はないのは、病的思想の保持者である政治家に、因るからであるのは言を俟たない。
又不景気は、経済界が病体であるからであって、資金の偏重は血液の不循環である。富が上層へのみ集注し、下層が欠乏するのは。血液が脳にのみ上騰して脚部が冷ゆる。逆上的病状である。
又青年が、赤化の如き不健全思想に感染する原因は、美濃部博士の如く、学問至上主義に捉はれて、尊厳なる国体を無視したる学説を真理の如く信じて、それを講説するからである。
而して是等の思想は不治な肺結核の如きもので而も此結核思想病者はインテリ層に、割合多数あるらしいのであるから現代青年が、之に感染するのは洵(マコト)に困ったものである。故に之を私は思想結核病といふのである。其他国際間宗教界等、凡ゆる方面に於てそれぞれ大中小の難病に罹り、それに悩まされて居らぬは無いといふ現状が、今日の世界及び社会である。
右に述べたる如く、今日凡ゆる人間苦の根本原因は凡ゆる方面が病体であるからである。されば其病患を治すべく、宗教家も為政者も、学者も教育家も智嚢(チノウ)を搾(シボ)ってはゐるが、悲しい哉、未(イマ)だ其疾患の治療法を発見し得ないのみか其疾患の原因すら、認識把握し得ないといふ実状である。のみならず其病患は益々重症に陥りつゝあるのである。
既成宗教に在る当事者と其支持者達は、口を開けば、宗教は病気治しじゃないと誇らかに曰ふのである。又曰く、病気に超越して安心立命を得させるのが真の宗教であると言ふのである。吾々は此人達の頭脳を疑はざるを得ない-何故かといへば病気を治し得ないで何処に救ひがあるか-人間の病気を治し得ないで如何にして世を救ひ得べきや。
病苦に悩みつゝ死の不安に晒され乍ら、安心立命の出来得る人が若し在りとすれば、それは世界中卿等(ケイラ)のみである。随而、病気を治し得ない宗教は止むなく理論で人を救はふとしてゐる。理論で安心立命を得らるゝならば飯の説明丈で腹が満(ク)ちくなる筈である。予算丈で金持に成らなければならない。
本来宗教は、形而上のものであるから、神力仏力の活現でなくてはならない。古来-仏陀はじめ各聖者も、各々それを如実に表はした。即ち、霊を以て霊を救はれた。空海も親鸞も日蓮も決して物質的救済は行はなかった。又そうしろとも言はなかった。飽迄霊的で精神的で能く偉大なる崇高なる人格を以て、大衆を教化し死しての後、今も猶無言の感化を与へてゐるといふ事実は、既成宗教に携はる程の人は充分知り抜いてゐる筈である。
社会事業は、決して悪い事ではない、多々益々発展させなければならない事は勿論である。然し乍ら、社会事業其物は形而下のものである、形而上のものである宗教が社会事業に専念するといふ事は適切ではない。本来の使命を没却してゐると謂はれても、一言の辞は無いであらふ、唯、宗教の一部門として、社会事業を援助する位が、適当であらふ。
故に、吾人をして、忌憚なく言はしむれば、既成宗教家諸君が病気治しも、霊的教化も行なわないとすれば、其宗教は最早生命を失って居るので、宗教としての本質は無いのであるから、宜しく宗教家の衣を脱却し、専門的に社会事業家に成るのが至当ではなからうか、そうして殿堂も伽藍も、社会事業の為に利用した方がどの位-国家社会にとって効果的であるかは、考える余地は無いであらふ。
敢て世の既成宗教家諸君に-斯文を呈する所以である。
従而、吾人の最後の目的は健康な肉体、健康なる思想、健康な国家社会、健康な世界たらしむる事である。それが真の宗教の使命でなければならない。故に重ねて言ふ、宗教の使命とは人間の霊肉の病気治しを基調として森羅万象-一切の病気治しである事である。
(東方の光九号 昭和十一年一月一日)