治病に於ける観音力に就て

肺結核、喘息、痔瘻、癌腫、中風、梅毒、近眼等、従来難治とされてゐた疾患が、僅少なる日数を以て治癒されるといふ驚くべき奇蹟が、日々顕はれつつある実際を、現代人の少年期から、科学一点張りで、叩き込まれた頭脳へ、理解させる程困難な事は、恐らくはあるまい。それは、未開人に向って、空気の説明をするよりも、猶至難であらふ。

その時代の文化そのものは一つの定型を成してゐる。その定型のレベルから、数段をも跳躍したアルモノが生れた時、識者達はそれを、今迄のレベルの物指で測らふとするのであるが、無論其物指には合はない。

そうした時に決り切って其、アルモノを罵詈(バリ)非難するのも、一つの人的定型である。唯、其中に、其時代の文化に満足出来ないで、より高跳的、破型的のアルモノの出づるのを期待翹望(ギョウボウ)する処の、少数者も亦、必ずあるものであって、此人達が、新生のアルモノを使命の様に高揚発展させて呉れるのも不思議である。所謂、先覚者なるものがそれである。

毎号本紙には観音力による多数の治病実績を掲載してゐるが実は掲載し切れない程の多数の奇蹟が日々続出しつゝあるのである。故に本紙に掲載するのはホンの一部でしかないのである。

而も、第三者から見て各記事が誇大とされ勝ちであるが、之は寧ろ反対であって、却て、実際の儘を書けば、誇大にさるるのを虞(オソ)れて、余程控え目にしてゐるのである。

その如く、難病治療者達が、自己の体験を第三者に語る時、そんな奇蹟があるものかと、信じて呉れないと言ふ事の嘆声は日々聞く処であって、滑稽なのは、数年来の痼疾(コシツ)が、短時日で治療した為、家族の者さへ信じないといふ、嗤(ワラ)えない事実も時々あるのである。それが為に、掲載者の宿所番地まで、詳細に記入し直接本人に訊かれるやう便してある訳である。

斯の様な治病の大偉力が新しく発生されたと言ふ事は誰よりも先づ医師諸君が怪しまなければならない筈である。其の結果徹底的に検討すべく吾々に訪ねて来なければならないと思ふのである。何となれば医学其のものゝ目的は人類から病気を無くするそれより以外には無い筈であるから。

又医学以外で治った実例、記事などを見る人はよく曰ふのである。それは、治ったの丈けを発表するのであって、治らないのは発表しないのであると。之は無理のない見方で確にそういふのも、世間には相当あるであらう事も知ってゐる。然し正直に発表するが、吾々に来る患者は、種々(シュジュ)の療法で治らなかった者が、殆んど大部分である。それにも拘はらず、八十パーセンテージ以上の治病率を挙げてゐる。一点の誇張もない事実である。

斯くの如き治病成績は世界の何処にも歴史にも絶対無いであらふが、事実は歪める事を出来ない。そうして医師諸君に吾々の冀ふのは、吾々の此報告を一先づ受入れて事実其のものを突き止めらるの労を惜まれない事である、そうして我門に足を運んで参観されてもいいが成可くは習得されて欲しいのである。それも専門家であれば、一週間位で済むし其結果、従来の西洋医学と比較して呉れたなら其治病効果の如何に優れるかに於いて驚歎する事は断言し得るのである。今迄一ケ月の治病日数を要したものが三日で治るであらう。

猶且つ諸君は、病理解剖等、専門的な技能を有されてゐるから、それに観音治病力を併有せらるるに於ては、諺に言ふ鬼に金棒である。然し乍ら、観音治病力などと言ったら、其言葉丈で、迷信として笑殺して了ふかも知れないが、其点である、百の学理も、一の事実には如かないと言ふ。其事実を冷静に凝視されたいのである。全病患者は、病患の説明をされるよりも、治癒される事を如何に希望してゐるかを充分知られてゐる筈である。若し、事実に眼を蔽ひ、或は事実を知っても雲烟過眼視(ウンエンカガンシ)して、相変らず、科学一点張りで進むといふ事は、文化人としての怠慢ではなからう乎。

又今他の新興宗教に於ても、そういへるのである。無医薬的な治病の、奇蹟的成績を旺んに発表してゐる。無論、是等も進んで研究されなければならないのは、言ふ迄もない事である。医療を棄てて、多くの人が、夫等宗教へ趨ると言ふのは、医療以上の、アルモノがあるからではないか、そういふ人達を目して、一概に迷信であると片付けて平然たるは、余りに独断過ぎて、孰が迷信してゐるかは、区別を付けられないであらふと思ふ。

然るに西洋で、医学上の新発見をしたといふ報告は、最大級の関心を持つのが常のやうであるが夫等多くは、基礎医学に属するもので、実際の治病法発見は、洵に少ないのである。のみならず、今日迄の実績に徴すれば 最初発見された薬剤も治療法も、時日の経過によって、其殆んどが、発見当時の、救世主的待遇がいつしか稀薄になってゆくといふ事実を、余りにも多くを、見せつけられてゐる。

彼の六○六号の如き、又ラヂュウムの如きでさへ、東郷大将の喉頭癌が、三十五万円のラヂュウムを使用しても終に治らなかったと言ふ事実は、余りにも雄弁に無効果を證明してゐる。然るにも関はらず、手近な、日本に於ての治癒成績は、如何に顕著であらふとも、全然触れやふともしないで、否定して了ってゐるのである。唯然し、それは、科学的でないといふ、それ丈けの理由でしかないのである。

人類の病患が科学以外には治療の方法が無いと断定されてる時代の人類こそ如何に憐むべきであらふか、何となれば科学を幾層倍超越した素晴らしい治病法が発生されたとしてもそれは一部の者より外、全般が其の恩恵に浴する事が出来ないといふ不合理である。

今日の文明が、協力して進歩して来た事ははっきりと歴史が物語ってゐる。唯然し、今日迄は学問の上にのみ、それが多かった事で、言ひ換れば西洋的なものに限られてゐた事であった、然るに近時、西洋人に目覚めて来た、日本研究や、仏教研究等がそれである。又一部の医家が、漢法灸治等の研究に手を染めて来たのも、褒むべき事である。

故に私は提唱する。医学は、人類から、病患を絶滅するといふ、最高目標を建ててる以上、社会の凡ゆるものの治病成果を、調査検討すると倶に科学の垣根を撤廃して、宗教的でも、霊的でも、精神的でもいゝから、事実を主に、学理を従として、大乗的に進まれ度い事である。そして、真に治る、短期に奏効する、再発しない、大医学を、我日本から、創見しやうではないか。

此大事業は当事者のみでは足りない、政府も科学のみに偏せずして、事実を調査検討、真に人類を救ふに足るべきものが在ったら、進んで援助され度い事である。政府者の或人々が、西洋医学を絶対として他は何物も排斥するといふ態度も考慮されたいのである、茲で申(カサ)ねて云ふ、文明は協力される事によってのみ発達するといふ原則を。

兎もあれ、科学文明の一大転換期が来つゝある様に、医療の一大転換期も、迫り来たのは、争えない事実である。何となれば、現在の科学からみて、夢想だも出来ない程の、大治病力が、既に発生されて、日々其奇蹟が加速度的に増加しつゝあるといふ、其事実が證明して余りあるであらふ。

停止する事を知らない人類の進化から言へば、少しも怪しむに足らない発生事であるが、科学に固着して、何物をも見ないといふ、頑迷的態度こそ、如何に文化の進歩と人類の福祉とを、阻害する行為であるかに、目醒める事である。そうでないと、誰かが言った、文化的野蛮人の言葉を、消す由がないであらふ。

(東方の光八号 昭和十年十月二十一日)