見よ、近来の作品を。日本絵具を油の代用にしてゐる迄だ。之は自己を生かさんとして、自己を殺す事だ。然し乍らレベル以下の画人層は自己満足でそれでいいだろうが、レベルの上に立つ画人は浮薄なる流行を追ふ事は出来ない、と言って超然たる事も出来ない。それは時代の落伍者扱ひを受けるからだといふジレンマにかかってゐる。それが作品によく現はれてゐるから致し方ない。
そうして院展の存在確保の為にも御大はじめ、三羽烏の出品は欠くべからざるものであらう。其お座なり的が作品に現はれてゐて、生気なき事夥しい。吾等はそぞろ悲哀を感ぜざるを得ない。世間言ふ如く大観老たるか、今度画伯の鳴戸の絵を観て、右の言の否めない事を知った。何等新味なく相変らずの唐墨で描いた黒い岩と緑青と岩絵具の波である。水が一段低い処へ流下し、出来た二つの渦巻がある、どうみても変だ。何とか今少し工夫がありそうなものだと思った。
数年前の此種の絵の方が数段上だと思ふのは、吾等のみではあるまい。又古径氏の女と壷の絵にしても落款がなければ見過ごす処であった。靭彦氏の大観先生の像は可もなく不可もなしか、青邨氏の鯉は凡である。