変態狂

今私が爰に書かうとする一種の精神病者は寔に珍らしい型である。此男は四十余歳で発病後五六年になるといふ。此患者の話振りは普通人と少しも変らない。話だけ聞く時は、理論も整然としてをり、精神病者とは全然認め得られないのである、此男の語る所は次の如きものである。

私の腹の中には、○○○といふ神様が居られる、この神様の仰有るには「私をトコトンまで修業させるから如何なる苦痛も我慢しなければならない。それには金を持たせないやうにして、貧乏のドン底に落すから、そのつもりでゐよ」と言ふのである。彼は旧(モト)相当大きな石炭屋の番頭であったが、不況時代転業をして数年に及んだ頃発病したので、発病当初は何ケ月間殆んど寝たきりであった。何となれば全身硬直して便所と食事の時以外は身体が自由にならず、床縛りになったやうな状態であった。その時腹中の神様曰く「お前は修業の為寝てゐなければいけないから、此方が縛ってゐるのである」と曰ふのである。一ケ年位経た頃漸く身体が自由となり、外出も出来得るやうになった。然しそれも神様のお差図通りより外に自己の意志ではどうにもならない。例へば「今日は何所そこへ行け」といふのでその通りするが、それ以外はどうにも足が動かなくなるといふやうな訳で、何も彼も神様に踴らされる人形に過ぎなかったのである。

然るに、あまり蓄へとてない彼は、漸次生活困難に陥った。尤も妻君の内職、子供等の工場勤務により若干の収入はあったが、一家を支えるには不足勝であった。幸ひなるかな彼の病気がやや軽減したので、旧(モト)の主人である石炭屋へ頼み、就職する事となった。これからの彼の変態性がはじまるのである。

彼の友人の勤務せる某会社でコークスが入用である事を知って、彼は知合のコークス業者との間に仲介の労をとったので、右の友人は非常に感謝し、一日彼を某料亭へ招き饗応したのである。その際謝礼として金一封を渡されたが、それには五百円と書いてあった。彼は喜んでそれを受取らうとした時、肚の中の神様が彼の意志と凡そ反対な言を彼の舌を使って喋舌らしてしまった。それは「僕は礼など貰ふつもりで世話をしたのではない。こんな事をするとは甚だ失敬ではないか。僕を見損のふにも程がある」と言ふので、先方は驚いて大いに詫び、金一封を引込めてしまった。それから芸妓に対すると、身体が硬直して一言も喋舌れなくなるのである。又其際便所へ行き用を済ませ、出るが否や、突然縁側で顛落したのである。其時神様曰く「お前は金を欲しがったり、芸者に戯れなどするから懲らしめの為、斯うしてやったんだ。以後注意せよ」と曰ふのである。

或日、主人が彼に向って“君は真似面で成績がいいから給料を増し、支配人格にしよふと思ふ”-といふので、彼は非常に喜び、受諾しよふと思ふが否や、神様は又その逆の事を喋舌らせるのである。曰く「僕は給料なんか問題にしてゐないから、増す事などは御免蒙る。又支配人などもお断りする」といふので主人も不思議に思ひ、やむを得ず撤回したのである。

或日、その主人の令嬢(二十余歳)と面会した。世間話などしてゐるうち、神様は突如予想もつかない事を喋舌らした。それは「お嬢さん僕と接吻しませうか」といふ。之には彼自身も驚いた。無論お嬢さんも仰天して、その部屋を駈けるが如く出て行った。これが原因で店は馘になってしまった。其後も職業紹介所や知人に頼みなどしてやっと職業にありつくと、必ず先方を立腹させたり、呆れさしたりするやうな事を喋舌るので、何個所も歩いた末、終に彼も諦めて、家に閉篭るの止むなき次第となってしまったのである。

その様な事情を知らない近隣の人達は妻君に向ひ、お宅の御主人は何も為すってゐないやうだから是非役員になって欲しいといはれるが、神様は「そんな事はならぬ」と言ひ、それに背けば、例の硬直手段をとられるので断はるといふやうな訳で、勤めも出来ず、町の事も出来ず只毎日ぶらぶらしてゐるので此非常時局に申訳なく、又体裁も悪いが、如何ともし難いといふ訳で、煩悶の日を送ってゐるのである。それを神様に愬(ウッタ)へると「お前はもっと貧乏にならなければいけない」-といふのであるから、どうする事も出来ないのである。右の如く、自分の意志と反対の事を喋舌らされる場合如何に努力しても寸効がなく、舌が機械的に動かされるのだそうである。

右の患者は精神病者とは言ひ難いのである。何となれば、自己意識は明瞭であって、応対の時は、普通人と些かも異らないからである。ただ前述の如く、行動と言語を、自己以外の或ものによって左右されるだけであるが、之に似通ふた患者は稀にはあるが、此男の如く深刻であり、徹底的であるのは珍らしいのである。之は私の考察によれば、前世の時、非常に深刻に、或者を苦しめた為、それに対する深刻なる復讐であると想像するのである。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)