病気と霊 三、癲癇

癲癇は、精神病と同じく霊的ではあるが、唯だ異なる所は、癲癇の方は一時的発作的である事と、その症状が人により頗る多種多様である事である。そうして癲癇の方は其殆んどが動物霊ではなく人霊であって、稀にはそれに動物霊が、複数的に憑依してゐる事もある。そうして死霊の憑るや、その霊の死の刹那の状態を表はすものである。例へていへば発作するや、泡を吹きながら苦悩の状を呈するのがよくあるが、之は水死の状態で、俗に水癲癇といふのであり、又火癲癇といひ、発作するや、焼けるが如き苦悩の状を呈するのがある。又水を見、火を見て発作するのを水癲癇、火癲癇といふ事もある。次に多いのは脳溢血の如き病によって急死した霊である。そういふ霊が憑ると、その通りの状態を現はすので、顔面蒼白、眼は上吊り、殆んど死せるが如き相貌と状態を呈し、片方の手足が麻痺状態となるのである。又変死--例へば轢死、縊死、墜死、殺害、による死霊等も、すべては死の刹那の苦悶の状態そのままを表はすものである。之によってみても、霊界に入るや、死の刹那の状態が持続するといふ事は間違ひないのである。

癲癇なる病気は右の如くであるから、死霊の憑依である事は一点の疑ふ余地はないので此意味に於て、医学が如何に唯物的に研究すると雖も全然的外れであるから、徒労以外の何物でもない事である。近来、医学に於ては頭脳に原因があるのではないかと想ひ、頭脳の切開手術を行ふ医家もあるが、患者に非常な苦痛と莫大な手術料を費やさしめ、不具となし、寸効もないのであって、霊的事象に盲目である唯物医学として止むを得ないとするも洵に憂ふべきである。

又、夢遊病者といって、発作するや自己意識を失ひ、所定めず彷徨する症状があるが、之等も死霊の憑依であって一種の癲癇である。そうして凡ゆる癲癇は、前頭部中央深部に死霊が憑依するといふ事は疑なき事実である。それは右の部に対し、本医術による霊的施術を行へば、忽ち常態に復するにみて明かである。

そうして右に説いたのは本格的癲癇であるが、茲に擬似癲癇なるものがある。それは全然霊的ではなく、延髄附近に溜結せる毒素が第一浄化作用による固結強化によって、一時的血管を圧迫する場合がある。その刹那何秒位の間意識を失ひ倒れるのである。之等は霊的作用ではないから、簡単に治癒するものである。

癲癇の例として、今でも私の家に使用してゐる下婢の事に就てかいてみよう。之は余程面白い例であって、最初の頃は、発作するや意識を失ひ倒れるのであるが、その面貌は物凄い程である。それは顔面蒼白、唇は紫色で大抵の場合舌を噛み、口唇から血液が流れ出てゐるので、其状は殺害された死人の如くである。それが本療法によって漸次快方に赴き、近時は、発作するも意識不明等の事はなく只だ頭脳がやや朦朧となり、不快感が伴ふ位である。其際、前頭部深部に霊を放射するや、憑霊は非常に苦しみ、助けてくれと--繰返し、悲鳴を上げるのである。それは勿論本人の口からである。其際私は『助けてやるから此肉体から離れろ』と言ふと“行く所がない”--と曰ふのである。それは、その行く所とは人間の肉体であるが、曩に説いた如く、血縁のない他人では憑依不可能であるから行き所がないといふのである。そうして霊の放射二三分にして移動するのである。それは大抵肩、腹部、左右の腕等である。その個所を一々霊射する中、終に何れへか潜んでしまひ分らなくなるのである。そうして霊が逃げつつ憑依する個所は、痛みと不快感があるから判るのである。然し乍ら、漸次霊は畏縮しつつある事は、その発作的の苦悩が軽減するに察て明かである。これは死霊とそれに憑依せる狐霊との作用である。

(明医三 昭和十八年十月二十三日)