此問題を説くに当って断はっておきたい事は、或程度宗教的に思はれ易いのであるが、私の説く所は宗教的ではなく寧ろ道徳的と思ふのである。然し、罪穢(ザイエ)といふ言葉そのものは宗教家がよく用ひるが、それは仮説でもなく作為的でもない、全くの事実である事は、以下私の所説を読めば肯かるるであらう。
前項に述べた如く、人は悪を想ひ、悪の行為を重ぬるに従って、それだけ霊体に曇が増量し、漸次その濃度を増すのである。然るに、右の濃度が或程度に達すると、自然的解消作用が起るのである。勿論、厳とした霊界の法則であるから止むを得ないので、如何なる人と雖も免るる事は出来得ないのである。そうして右の浄化作用の多くは病気となって現はれるものであるが、時として、其他の形となって現はれる事もある。然るに病気の場合如何に医療を竭(ツク)すと雖も聊かの効果もないのは、それは霊的原因に対するに器械や薬などの物質で解決しようとするからで、全然見当違ひであるからである。又此場合神仏に祈願を篭める人もあるが、それは多少の効果はあるものである。勿論神仏の本体は霊であるからその霊の恵みによって幾分の曇は軽減するが長年積み累ねた罪穢であるから神仏と雖も否正しい神仏であればある程公正であるから、軽苦では済まされないのである。之を例へていへば国家の法規に触れた者は、如何に悔悟歎願すると雖も全然赦さるるといふ事はあり得ない。但だ改悛(カイシュン)の情顕著なる者が罪一等を減じ得らるる位である事と同様である。
然し乍ら、自然浄化作用が発生するより以前に浄化作用が起る場合がある。其際は比較的曇が濃度に到らない為浄化作用が軽く済むのである。之は如何なる訳かといふと或動機によって悔改めるといふ場合である。右の動機とは、宗教的説話や聖書の如きもの、又は先輩や名士の経験談や言説、偉人の伝記等によって精神的に覚醒する事である。此意味に於て人間の魂即ち良心を喚び覚すべきものとして、良き書籍及び講演、良き映画や演劇等必要なる事は言を須(マ)たないのである。
右の如く、人間が覚醒する場合、霊体に如何なる作用が起るかを説いてみよう。本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になってゐるのである。そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。即ち、魂本来は日月玉の如き光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。故に、明鏡止水の如き心境にあれば、魂は晴天の日月の如く輝くのである。
右の如く人間が覚醒するといふ事は、睡眠状態であった魂が、豁然(カツゼン)として輝き出す事である。その手段として今日迄は、右に説いた如く、説話や読書等の道徳的手段があるのみで、それによって先づ魂が覚醒し輝き出すから心の曇が解消し、次で霊体が浄化さるるといふ順序である。右によってみるも、魂・心・霊の三者は、常に明暗の状態が平均してゐるのである。
然るに、私は腎臓医術の項目に於て、百万語のお説教よりも、腎臓を健全にする方が効果があると言ったが、それは如何なる訳かといふと、前述の如き道徳的手段を要しない事であるばかりか、道徳的手段に於ては、百パーセントの効果は期し難いが、本療法によれば百パーセントの効果があるのである。それは前述の如き道徳的手段に於ては、先づ魂を覚醒させ、次に心及び霊体が浄化さるるのであるが、本療法に於ては此反対であって、外部からの施術によって先づ霊体が浄化され、それによって心の曇が解消し、否が応でも魂は覚醒する事になるのである。又、道徳的手段によって魂や心が覚醒する場合、本人自身は克己的苦痛が伴ふと共に、それが霊体に及ぼし、病気其他の苦しみを受けなければならないが、本療法は、疾患が治癒しながら不知不識の裡に魂が覚醒するのであるから、理想的心身改造法といふべきである。
右の如く、霊的浄化を発生さすその根源としての機能が腎臓であるから、腎臓の活動を促進さす事こそ、心身改造の根本である訳で彼の神道に於ける祓戸四柱の神の活動が、人体に於ては腎臓に相応すると想ふのである。曩に説いた如く心臓は日であり、肺臓は月であり、胃は土であり、天地間の汚濁を清める神が祓戸の神であるとすれば、腎臓は左右及び副腎と合せて四つあり、祓戸の神も四柱あるにみて、意味がないとはいへないであらう。
(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)