外殻的文化

日本の国力が増大し、国威が八紘に輝くに従って、漸く日本人の優秀性が知らるゝに至った事は、洵に喜ぶべき現象である。それと共に、日本人の精神力が特に優れてゐるといふ事も明かになってきた事である。言ひ換へれば、精神力とは霊力であるのは、勿論である。

私が長い間、霊的研究によって日本人は世界中の如何なる国民と雖も、追随する事を得ない霊性を有ってゐる事を知ったのである。故に、本医術が生れたといふこともそれが為である。そうして唯物的方面からいへば、日本人はまだ白人文化の水準を抜けないかも知れないが、霊性に於ては、比較にならないほど優ってゐるのである。従而、本医術は霊的医術である以上、日本人によって生れ、日本人によって大成されなければならない訳である。故に、唯物的医学が唯物的人種から生れたとすれば、唯心的医術は唯心的民族から生れなければならない道理である。従而、夜の世界が終末を告げ、昼の世界となるとしたら、唯物的医学--即ち病毒固結医学は行詰る事は当然であり、それに反して、唯心的医術--即ち病毒溶解医術の発展となる事も亦当然の帰結であらう。

そうして弱肉強食的文化、言ひ換へれば、悪魔的文化から生れる処のものは、悪魔的医術であるべきであり、道義的文化から生れる処のものは、道義的医術であらねばならない。曩に説いた如く、体主霊従と霊主体従との文化の交代である。故に、本医術なるものは、生れるべくして生れたのであって全く自然であり、そこに何等人為的理由はないのである。

日本人と欧米人との霊性に就て、最も解り易くいへば、日本人は、霊六体四であるに対し、西洋人は体六霊四といふやうな訳である。故に、来るべき文化は霊五体五となるので、それが真の理想的文化の真髄である。

そうして体的文化とは、人体に例へれば肉体文化である。肉体はいはば外殻である。樹木に例ふれば枝葉であり樹皮である。西洋医学の研究と理論が、すべてに於て外殻的である事である。故に、病原は専ら黴菌となし、黴菌が外部から侵入して発病するといふのである。此意味に於て本医術が病原は西洋医学の外部から内部に向って侵入する説とは反対に、内部から外部へ向って排泄するといふのである。

故に、西洋医学の唱ふる対症療法とは、外部に表はれたる症状を抑止、鎮圧する方法で、それは外殻的である。然るに本医術は症状に対するよりも、症状として表はれたるその根源そのものを解消するのであるから、根本的である。

茲で私は文明批評を試みてみよう。それは現在迄の文化の根本理念なるものは、総てに於て外殻的であり、枝葉末節的であり、皮相的であるといふ事である。これに就て種々の例を挙げてみよう。

先づ政治であるが、その形態が最近までは民主主義であった。民主主義とは、実は外殻的綜合力を主とする事である。何となれば、大衆なるものは、国家の中心を囲繞(イジョウ)する外殻であるからである。本来正しい政治とは、中心に絶対権力があって、大衆即ち人民はそれに従属すべきものでなくてはならない。故に理論的に正しくいへば右の如くであるが、我日本は理論以上の皇国であって、即ち--上御一人を中心と崇め奉り、その大御徳によって万民が悦服するといふ国柄である。従而国民は、各々その所を得て生を楽しむといふのであって、全く理想的中心帰一の姿である。

次に、国の経済としては、事変前までのやうな、株主である大多数者の利益を本位とするやうな機構は勿論外殻的経済である。故に今後は、中心であるべき国策の嚮(ムカ)ふ所に追随しなければならない事は勿論である。

次に、教育も従来は頗る多種多様の課目を羅列し、それを一列に詰め込み、試験といふ関門を成績よく通過しさへすれば出世が出来るといふ制度であった。従而、中心であるべき人間の魂を無視し、真心は閑却され、社会に出でては才智才能さへ優れてゐれば可いといふ様になって、真の人間を作る事を忘れてゐたといふ事は否めないであらう。

又法規の条文は益々繁くして、その煩に堪えない程であり、国民は法規の条文にさへ触れなければ可いとして社会に害毒を与へ、道徳に反するやうな行為をも平然として行ひ、恬(テン)として恥ぢないといふやうな傾向になり、此処にも魂を忘れてしまったのである。私は此事を充分徹底して説いてみよう。

支那の堯舜(ギョウシュン)の世は、法三章でよく治ったといふ事である。又我国上代に於ても、彼の聖徳太子の十七箇条の憲法によって治ったといふ事なども、其理由は、その時代に於ける人間は魂の発露があったからである。然るに近代に到って猶太文化の発展は唯物思想を醸成し、それの世界的氾濫となって文化民族の魂が睡眠状態となった事である。其結果として、人間は自己の欲望を達成せんとする場合、只管(ヒタスラ)外殻のみに意を注ぎ、内面的には不正不義も問ふ所にあらずといふ思想になった。是に於て、為政者としては、法を以てその不善を取締るより道がなく、畢に法の完備となり、法治国なる名称が生れたのである。従而、一方に於ては法といふ網を作って制へんとすれば一方はその網の目を潜らうとするのであるから、漸次網の目を緻(コマ)かにするより外に方法がない訳で、法規の条文が今日の如く細密になったのも止むを得なかったのである。

是等の情勢に対し、私は忌憚なくいへば、日本は別としても、最近までの文化民族とは或意味に於て教育のある野蛮人であり、学問と知識を有する獣でしかなかったともいへよう。そうして此獣は、兎もすれば牙を剥(ム)き、爪を瞋(イカ)らし、人畜に危害を加へんとするので法律といふ網を作って押へようとする。獣の方ではそれを破らうとする--そのやうな状態であった。然るに、獣の中でもライオンの如き強力なる奴は、国際法規といふ網を平気で破ってしまって世界中を荒れ廻り、武装なき人間や弱い人間を喰殺しては、その威力を誇ったといふ--それが即ち彼の英国であったのである。

此意味に於て、今日迄の文化とは、真の意味の文化ではなかった。即ち猶太的、唯物的悪魔的文化であった。斯様な批判に対して、人はあまりにも苛酷に過ぎると思ふかも知れないが、誤謬(アヤマリ)であるとは誰も言へないであらう。

然るに逾(イヨイ)よ天の時来って、此地球上には今日迄の文化とは全然反対である処の、非悪魔的である神の文化が、今や呱々(ココ)の声を挙げんとしてゐる事である。それは唯心的で道義的で、人類愛的文化である。今我日本が、国を挙げて戦ひつつある所の此戦争なるものの真目的と雖も他なし、右の如き新文化を生まんが為であって、聖戦といふ所以も、茲処にありと思ふのである。

故に、医学に於ても根本を無視して対症療法に専念し、一時的効果のみを狙へば足りるとし、又は死体解剖や手術、注射等の残虐的方法を進歩と誤解し、今日に到った事も肯るゝであらう。

以上の如き、何れの方面に於ても、中心を無視して外殻のみを維計(コレハカ)ったといふのが、夜の文化の真相であったのである。

又、共産主義もそうである。労働者がより少時間の勤労に対し、より多くの賃金を得ようとし、それが不可能である場合、罪を他に転嫁しようとする。即ち生産や分配の社会機構が過ってゐると曰ひ、それが資本主義経済の欠陥であるとなし、遂には社会革命にまで及ぼさうとしたのである。勿論之等の思想は巧妙なるフリーメーソンの謀略によるとは謂へ、その中心の魂を忘れ、自己反省を無視しすべては外界の影響によるとなし、罪を他動的に帰するといふ考へ方であった。

又官民が一致しなかった事も長いものであった。政府は国民の無理解と認識不足をいひ、国民は政府の政策や行政機構が悪いといひ議会は政府の無能を責め、政府は議会の無理解を云々する等、茲にも自己反省がなく、凡て罪を他に転嫁するといふ悪風が漲ってゐたのである。

是等の実状を深く考察する時、その悉くは自己の魂を忘れてゐる事である。魂が輝くに於ては、当然自己反省の正義感が起らなければならないのである。人を責むる前に、先づ自己を責めなければならないのである。

右の如く魂を忘れる結果はどうなるかといふと、人は外面的一時的賞讃を求めるといふ軽薄的行動を好むやうになり、そこに真実性もなく、素朴が軽蔑されるといふやうな社会となるのである。之が米英中心の猶太的文化の謀略的思想の表はれでなくて何であらう。

外殻的文化とは、右の如きものであらうと私は思ふのである。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)