霊的医術

私は種々の方面から「昼の世界とは霊主体従の世界である」といふ事を説いたのである。此意味を人体に当嵌める時、病気の根源である毒素とは、肉体に集溜してゐる物質を指すのであるが、此場合、霊体は如何なる状態であるかといふに、肉体の毒素のある部分は、霊体の方には其部に曇があるのである。

此意味に於て、肉体の毒素を解消せんとするには、肉体のみの毒素を排除すると雖も、それは一時的であって、時を経て再び毒素は発生するのである。何となれば、それは霊主体従の法則によるからである。故に、根本的毒素の排除方法はどうしても霊体の曇を解消しなければならないので、之が治病の目的を完全に達する正しい方法である。

然るに、今日迄の凡ゆる療法は肉体を対象となし、肉体のみの毒素を排除又は固める事を以て唯一の方法としてゐるから一時的であって根本的治癒ではない事は勿論で、何よりも再発の言葉がそれを物語ってゐるのである。右の如く毒素排除の方法として、医学に於ては二つの方法しかないのである。一は固め療法、一は手術によって毒素を除去しようとする。又民間療法に於ては、電気又は光線療法等によって固めるか、或は灸によって火傷させて膿を集溜排除せしむる等の方法である。

然るに、本療法に於ては、霊体の曇を解消するのを根本とする。その方法としては、施術者の手指から、火素が主である一種の霊波を放射させるのである。その霊波を私は仮に神秘線と名付けておかう。そうして此神秘線なる光線は何人と雖も或程度の量を有してゐるのである。といふよりも、その光線は此地球上の空間否霊界に無限に遍満してゐるのである。

茲で、知っておかねばならない事は、右のやうに霊波によって曇を解消するといふ治病法は、何故今日迄誰もが発見なし得なかったかといふに、それは曩に述べた通り夜の世界であったが為である。即ち、夜の世界は暗であって、光としては月光の程度であるから、治病力即ち曇を解消すべき程の神秘線を得る事は不可能であったからである。勿論、全然無い訳ではなかった。其例として一部の宗教家、行者等が治病法を行ひ、或程度の効果はあったので、その宗教や教祖をして相当の名を成さしめた事は、世人のよく知る所である。然し乍ら、月光では水素が主であるから、治病力は或種の病気に限られ、又或期間だけの効果に過ぎなかったのである。それは月光は水素的冷性であるから固め療法となるからである。

然るに、この日本医術に於ては火素が主であるから、如何なる毒結も溶解するので偉効を奏する訳である。故に、私の治病法発見の根本動機としては、夜の世界が昼の世界に転換せんとする事を知り得た事と、昼の世界は火素の分子が増量するので、その火素を人体に集中透過さすに於て、強力なる治病光線が生れ、患部に放射せしむるに於て偉大なる治病効果を現はすといふ事の二つに外ならないのである。

爰で、断はっておきたい事は、斯様な事は宗教的に思はれ易いといふ事であって、昔からキリストや一宗の開祖等が行った事に類似してゐるのであるが、私は飽迄宗教化されないやうにしたいのである。何となれば宗教的に行ふ場合、必ず社会から迷信視せられるからである。それは今日迄、幾多の人々が迷信邪教に煩はされ不幸に陥った例があまりにも多いと共に、当局に於ても、その弊害を防止すべく厳重な取締を執ってゐる事である。又神仏基其他凡ゆる宗教の信者が病患に悩まされつゝも、宗教的分子が聊かにてもある場合受療に躊躇するといふ点もあらうからである。

又宗教とすれば、曩に説いた如く、信仰といふ自力観念の援助によって、治病効果を挙げるといふ事になるから、実は治病力が薄弱であるといふ事を告白する訳である。此事は医学に於ても或程度ある事は否めない。例へば医学博士の称号とか、大学教授、大病院の院長、その専門の権威、上流階級の主治医等の故を以て、患者は受療以前に相当の崇敬と信頼の観念を有つべきは勿論であるから、その観念の力が或程度の効果を加へる事は当然であって、宗教に対する信仰的観念と共通の点がないとはいへないであらう。

然るに、私の医術に於ては、右の如き観念の援助は更に要らないのであるから、宗教化するといふ必要がないのみか、前述の如き幾多の不利があるのである。故に私は飽迄科学を以て自認し、科学として世に問はんとするのである。即ち未来の科学、最尖端科学として、日本人によって創始せる世界的医術たらしめん事を期するものである。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)