医家より観たる医学

左の一文は昭和十八年三月二十日の大東亜公論発行日赤宇治山田病院長医博小川勇氏著「科学と信仰」中に掲載されてゐるものの中から抜萃したものであるが肺結核其他に対し、現代医学の観点に立ち、最も公正無私縦横に医学の功罪を批判したる点、国民に対し裨益する所鮮少ではなからう。特に数十年の長き臨床的実際家として直接病者を取扱はれたる、その経験に基く意見であるにみて最も価値あるものといへよう。而も何等伝統や学理に拘泥する所なく信念その儘を吐露せる点等も敬服に価するものがある。最後に吉田松陰の事蹟(之は本著書の目的に関係がないから省いた)に対する氏の論評に就ても吾等全幅的に共感すると共に、国を思ふ同氏の如き医家こそ良医の典型として、私は崇敬措く能はないのである。

臨床漫筆
結核治療

結核の中でも最も其数が多くて人類に大損害を与へて居る肺結核の場合を主として述べて見るつもりである。内外各国及多数の大家、小家、専門家、非専門家等に依って宣伝せられて居る治療法とか治療薬とか云ふものは殆んど枚挙に遑ない位であるが、何れの方法を試みて見ても甲の患者には多少効果のあるやうに思はれても乙の患者には全く駄目であるといふ様な有様であるから、公平の立場で多数の患者に試みて居る中には何れの療法でも其結果は殆んど同じ様な事になって仕舞ふ場合が多いやうである。所謂専門大家と信じられて居る教授先生方の主張する療法でさへも尚且つ然りであるから、売名的や金儲主義で宣伝して居る療法及普通の新聞雑誌などに「私の体験」と題して一個半個の特殊の場合の自覚的体験を堂々と発表して、宛もそれが万人共通のものであるが如くに断定して憚らぬ所謂体験家の談ほど当てにならぬものは無い。世の同病者を迷はし時としては取返しのつかぬ大害を他人に蒙らしむることがある。

我輩は別に毛嫌をせず一通り筋の立った療法なれば誰人の主張するものでも一応は試みてみることにして居るから、AOも「やとこにん」も金も銅も「カルシュウム」も沃度も扨ては脂肪食も「ワクチン」注射も気胸療法も手を替へ品を替へ正直に之れを実行し、遂に一時八釜しかった石油療法の動物実験までも手をつけて見たけれども、其効果を信ずることが出来なかったから人間患者には使用しなかったが、併し入院患者及外来患者の中には各自勝手に石油を飲用した者もあったと云ふことを後から聞いた。如何に一小部分の素人の体験が当てにならぬかと云ふことは、あれ丈宣伝せられた石油療法の声が、全く火の消へたる如く消えてしまったことによってもわかるわけである。

東北大学の熊谷教授は結核の研究、治療に熱心であることを以前から知って居たが、殊に先年名古屋の内科学会で特別講演を聴いて以来、是非一度親しく東北大学へ行き、同教室に於ける実際を見学し、直接治療方法を伝授して貰って我病院に於ても実行して見ようと切望して居たけれども、我輩は雑用が多くて行き兼ねたから、当院内科医長の山崎博士を特派して見学せしめ、早速其方針に従って入院患者の食餌表にカロリー計算表を追加し日々患者に供給する食餌の総カロリーと各患者の実際摂取した食餌のカロリーとを調査することとし、盛んにバター、肝油等を初め脂肪に富みたるものを食せしむることと為したるため、俄然バターの市価を高からしめた位であった。斯くして一時は入院患者中多食するものは一日四千カロリー以上を摂取した者も尠くなかった。其結果体重も増加し、一般症状の良好に向ったと思はるゝ様な患者も若干見受けたけれども、又中には脂肪食の為に却って胃腸を害し、食欲減退し、病勢の増悪した様な実例もあった。昨年京都の結核学会席上で、東大の島薗教授も一寸此熊谷教授の脂肪奨励に対して次の如く批評せられた様に記憶して居る。即ち「東北の如き寒地の結核患者に対しては脂肪が効果を奏するかも知れぬが関西、九州等の如き暖地の患者にも同様奏効するとは信じ難い」と、当院に於て試みたる成績は不幸にして東北大学に於けるが如く良好で無かった事を茲に告白する次第である。

次に後輩の畏友(イユウ)で、現在は東京で光ケ丘診療所を経営し、一種独特の見識を以て結核病の診療に従事して居る本間博士は「自分の診療を受け自分の診療方針を厳守して居る結核患者は殆んど一○○%全治する」と豪語して治療成績なども発表して居るし、動物実験の成績なども同博士の報告のみを読んでみると大変良好であるから、親しく光ケ丘診療所へ同博士を訪問し診療状況も視察し、其後更に当院の内科医員を派遣して同博士特製の「ツベルクリン」の分与を受け、稀釈法(キシャクホウ)、注射法等の注意も十分厳守して昨年秋以来当院に於ても此注射療法を試みて居るが、当院へ来る結核患者は開放性のものが多くて此療法に適当した患者は実に少い。偶々適応患者と認めて同博士の方針通り此療法を継続せんとするも其程度の軽症患者は決して長く通院せず中途には治療中止となる有様であり、又折角入院中の患者に試みかけても多くは途中注射後の発熱の為め必要程度まで増量し得ざる有様で未だ良好の成績を得たりとは発表し能はざる次第である。

斯かる次第であるから、此療法の真価に対して批評することは出来ぬが、少くとも現在一般医家が希望して居る結核療法には不適当な特殊療法であると断定することを憚らぬ。何となれば医家も患者も均しく待望して居る結核療法は開放性結核に対するものか、仮令開放性ならずとも一程度まで進行したる結核に対する療法であって、レントゲン写真に現はれたる僅かな陰影又は不明の微熱、肩凝程度の者を結核患者と見做して(学理的に云へば無論此程度のものも結核患者と称して正当なるべく、此論法を以てすれば二十歳以上の社会人は殆んど全部結核患者と云ふて然るべし)此種の患者のみを治療し、開放性のものは取り扱はぬと言ふ様な療法では無いからである。本間博士の特殊療法で全治する程度の患者ならば、其療法を受けずとも其期間無理もせず御馳走でも喰べてぶらぶら遊んで居たら恐らく全治するものであらうと思はれる。

其他AOでも「ヤトコニン」でも用ひて居る中には利いたやうに思はるゝ場合もあれば、全く利かぬ場合もあるから、利いたと宣伝したい立場にある人間は利いたと思はるゝ様な症例のみを列挙し、利かぬと反対したい人間は利かなかった実例を列挙すると云ふ結果となるわけ、夫故之れを公平に判断すれば利く場合もあり利かぬ場合もある。と云ふことになるのである。否利く利かぬといふよりも治る場合と治らぬ場合があると見る方が至当であらう。又或は一程度以上容易に増悪せぬものと、比較的速かに増悪するものとがあると思はるるのである。自然治癒の傾向あるものに偶々或療法を行へば大変其療法が奏効した様に信ぜらるゝものである。速かに増悪する傾向にある結核症に対しては之を完全に治癒せしむべき療法は現在皆無であると我輩は認めて居る。

夫故結核症に対して積極的に有害なる方法でさへなければ如何なる方法でも之れを利くと信じて実行するものに対しては皆多少の効果を及ぼすものであると我輩は信じて居る。一般患者に対しても精神作用の影響は著しいものであるが、殊に結核患者に於ては此作用が一層甚大である。概して結核病に罹れば不治であると思はれて居るのであるから仮りにも「此薬を飲めば奇妙に利く」とか「此療法を施せば必ず治る」とか「此神に祈れば御利益疑無し」などゝ聞けば「溺るゝ者は藁をも捕(ツカ)む」の諺通り誰人の言でも信ずるものである。殊に何々博士とか何々教授とか云ふ令名のある人が「此れに限る」とか「此れこそ利く」と断言する療法なれば少くとも一時は偉効を奏するに相違無いのである。利くと信じて飲みさへすれば唯の水丈けでも相当の利目を示す。況や多少の滋養薬、強壮剤等を含有した物質を与へるなれば其効能は百倍することであらうと思はれる。

甲の療養所ではやれ牛乳、それ卵、牛肉、鶏肉、バター、肝油と所謂滋養物のみを多量に与へて居り、乙の療養所では其様な滋養物は一切抜きにして野菜に果物に生水を主とし玄米食に味噌汁と漬物といふ食餌を取らしめ精神修養を専らにし、なるべく病気を忘れ、病苦に超然として精神の安定と心の慰安に力めて居る。此両療養所の成績を比較するに概して甲よりも乙の方が良好であると云ふ事実がある。

近来我輩共の病院に入院する結核患者の大部分は所謂肺病型の肉体所有者では無くて、一見此れが結核患者かと疑はれる様な立派な体格の持主で、栄養も良く、自覚的症状は著明ならずして而かも他覚的病変は相当著明で喀痰中には毎回立派に結核菌を證明し得る様な患者が尠く無い。如斯患者に対して徒らに栄養食を提供し、更にバター、肝油までをすすめるが如きは、愚の骨頂である。如斯患者に限って無暗に病気を苦にし、死を恐れて居る。此種の患者は一旦胃腸を害し、食欲減退する時は、忽ち栄養衰へ病勢は速かに増悪する場合が多い様に思はれる。

之れに反して脂肪豊かならず一見栄養良好と云ひ難い様な患者でも、精神力が強固で、何か一種の信仰を有し、死生に超然として余り病気を苦にせざる様な患者は中々ねばり強くて病勢の増悪が急速で無いやうに感ぜられる。
「一剤療法と多剤療法」中より

然るに医学教育の方針が余りに物質科学主義に流れて精神教育といふことを無視し、物質科学と動物実験とに重点を置き病理学的研究が身体局部の病変に集中せられた為、局部に於ける病変の処置といふことが治療医学の眼目となり。従って局所疾病の治療と云ふ事に重点が置かれ、動物実験の結果を直ちに人間に応用して動物同様の成績の現はれん事を期待し、若し其期待に反する時は之れを怪しみて人間をして出来得る限り動物化せしめんと努力する有様であった。即ち動(ヤヤ)もすれば人間を試験動物視せんとする傾向さへあった。換言すれば病気其物に対する研究に重点を置き過ぎて大切なる病人を軽視するの弊があった。我輩の如きは既に二十数年前から此事に気付いて「医者としては病気を治すのみでは駄目だ宜しく病人を治さねばならぬ」と絶叫したものであるが、碩学稲田博士が最近「臨床医学雑誌」の文中に此意を述べ吾人の持説を肯定せられて居るのは遅蒔ながら幸である。

薬の効果
我輩は内科を専門として標榜し殆んど三十年来毎日多数の患者を診療しては居るが、薬物の利目即ち効果といふものを余り多く信ずる事の出来ぬものである。「内科医が薬物を信ぜずして治療が出来るか」と反問する人があるかも知れぬ。或は又林先生からは、薬理学を十分研究せぬからそんな事を云ふのであると叱らるゝかも知れぬが、実際近頃の如く新薬、名薬が無数に続出しては其名称と使用法とを記憶することさへ容易ではない。況んや其れを一々薬理学的に真面目に研究して居たならば、それ丈けに一生を要する有様である。発売した当時には其効能天下無類の妙薬として宣伝せられ、所謂名医大家、何十博士御揃ひの実験報告まで堂々と添附せられて居るが未だ其薬名も十分覚えぬ中に早くも姿を隠して同一製薬会社から今度は又別名の新妙薬が発売せられて居る。斯くして若し万一、少し売行のよい新薬に遭遇したことが他の会社に知れた場合には、他会社は忽ち類似の新薬を製造して別名を附けて発売するといふ有様、斯くして国内に於ける多数の会社が競争して種々の新薬を提供すると共に、海外諸国からも盛んに新薬が輸入せられて居る実情である。古人は「悉く書を信ずれば書無きに如かず」というて居るが、今は「悉く薬を信ずれば薬無きに如かず」と云はねばならぬ。権威ある医者が少数の薬を彼此適当に配合して患者に与へ患者は其医者を神の如く信じて服薬する時初めて其治病的効果は現はれるものである。現今では医者の方が多数の新薬に圧倒せられ、製薬者の宣伝的指導に左右せられて手当り次第に無料提供を患者に試用し、其日其日を糊塗して居る様な無定見の不徳義者も往々あると云ふことである。如斯は医者が薬を使用するのでは無くて、薬が医者を使用して居る様なものであるから危険千万である。医者が病気を治癒せしめ得るものであると確信して居る医者は剣呑(ケンノン)であると同様に、薬が病気を治し得るものであると盲信して居る医者も危険である。例えば今熱病で苦しんで居る患者がある。熱さへ取り去れば病気は治ると信ずる医者があって宣伝新薬中から解熱薬を探し出して多量を頓服せしめたとする。熱は間もなく去ったが患者の四肢は冷却しチアノーゼを呈して虚脱状態に陥ると云ふ様なこともあり得る。実際利く薬は使用法に十分の注意を払はなければ却って危険である。

前にも縷々(ルル)述べた通り日進月歩と云はれて居る現代医学も殊に内科領域に於ては、積極的徹底的に疾病を全治せしむるという薬とか処置とかは殆んど無いというてもよい位である。多くは消極的、対症的に疾病の経過を観測して居るうちに自然治癒を来すものと漸次増悪するものとがあるわけである。而して病気の性質が後者に属する場合は、医者としては唯姑息なる手段を施して自然の成行を見るの外現在医者に許されて居る権限内に於ては如何に患者が苦しんでも、例へば死に勝る苦しみがあっても注射とか酸素吸入とかの方法によって死期を延長しつゝ患者の苦しむ期間を長くするのみである。人間の生を絶つことは人道に反するから飽まで生を保たしめねばならぬという所謂人道主義は患者をなぶり殺しにせよと云ふ様な結果となるのであって、文明の世の中に此れ程無情なことは無いと思はるゝが如何にや。
「人道主義の矛盾」中より

又肺結核患者として入院中、腹膜炎と喉頭結核とを併発し病勢は益々増悪し、咳嗽、喀痰、腹痛が共に甚だしくなって食餌は素より薬物も嚥下が出来ぬ。麻酔剤、強心剤、酸素吸入等凡ゆる対症処置は行へど苦痛は仲々去らぬ。患者は遂に「殺して呉れよ」と嗄声(シワガレゴエ)を発する有様、本当に一思ひに殺してやったなればどんなに楽であらうと同情禁じ難いものがあれど国法はそれを許さぬ。

我病院には約五ケ年入院して居る一青年がある。相当の家に生れたものであるらしいが両親に死に別れ兄弟二人暮しであった処、兄が先づ肺を病んで入院加療中弟も入院して来た。兄は病増悪して割合早く死んだ。弟も結核性には相違無いが未だに菌は出ぬ。或は肋膜炎を発し又は腹膜炎を起し、時としては気管支炎の症状を示しつつも病勢増悪に至らずして約五ケ年の久しき間院内にベッド生活を送ってゐる。

格別親類も無いらしい。最初は病院施療であったが後支部施療、ラジオ費に依る結核救療等期限の許す限り各種施療救済の方法も受け尽して、今は市の救療を受けて居る。今猶肋膜炎の痕は歴然として抵抗強く時々「ラッセル」が出たり隠れたりして居り、腹痛下痢などを訴へることもあるが、体温は高くて三十七度三、四分と云ふ大した苦痛は無いのであるから廻診の度毎に戯を云って「来年は花見に行けるだらう」とか「兵隊検査は受けられるだらう。鉄砲が担げるか」などと冷かしながら気を紛らすやうにして来たのであるが、最近少しく咳嗽喀痰が増加し、胸痛を覚え、体温も上昇して来たので大に悲観し始めた。他覚的にも「ラッセル」の数が増加して居る。仮令全快して退院が出来ても親兄弟は無く、近い親戚も無いらしいから楽しみの少い。況んや病気が増悪することを自覚すれば今まで五ケ年間の病院生活を回想して感慨無量なるものがあるであらう。今日も我輩の廻診の際つくづく思ひに沈んで居たが診察を終るや、我輩の顔を見上げて「先生どうぞ殺して下さい」と云はれた時には転(ウタ)た同情の熱涙を禁じ得なかった。

鳴呼医者は苦しい。死の外に彼の病苦を取り去るべき手段のないことを知りつゝも、それとは云へず色々の虚言や諦言を述べて姑息の手段を施しつつ徒らに死期を待たねばならぬ医者は苦しい。
「信仰と治病」中より

今や物質科学と精神科学とは互に其研究的方面が相接近して来て、所謂物質の基原と所謂精神の基原とは結局同一に帰着するものであると考へられて来た。我輩の如き医学を研究した者に取っても最も興味深く感ぜらるる事は、生の基原と死の刹那に於ける霊肉の関係である。

動物実験の価値
現代医学の進歩発達は殆んど動物実験の賜物と云うても差支無い位に医学者間に動物試験といふものが重視せられて居り解剖、生理、病理、薬物の方面は素より栄養学、治療学に於ても動物試験は研究上欠くべからざる一条件となって居り、私の如きも今日迄は之を尊重し重視し来たわけでありますが、併し所謂現代医学なるものが余りに動物実験を重視し過ぎた結果栄養学でも、治療学でも今日の如き行詰を来したのではなからうかと私は考へざるを得なくなったのであります。劇毒薬の致死量を定める為には先づ動物試験を行ってから体重比較により人間の致死量を推定しても或は大差ないやうであるが、人間の栄養価を動物並に定むる事は不合理であり、又或病気に対する効果を動物実験によって直に人間に当はめんとするのは無謀であります。現代医学に於ては動物実験に於て斯様な効力があるから人間にもそれ丈けの効果がある筈である。否無くてはならぬ筈であると為して、動物的に人間を取扱はんとする傾向があります。此事が抑々の誤であります。人間には動物と異った精神作用のある事を忘れて居る学者が少く無い。例へば動物には一定の食物を与へて「カロリー」を高めさへすれば栄養が高まって肥満し、強健になるから人間にも所謂「カロリー」に富んだ栄養食を与へさへすれば益々栄養が高まって強健になるものと見做して居るのが今日の栄養学者でありますが、実際問題としてはいくら「カロリー」価の高い食物を多量に与へても栄養は高まらずして、却って比較的「カロリー」の少い食物を取って居るものの方が栄養状態良好であると云ふ様な皮肉な事実が沢山あります。

一、富家の主婦と女中との例。

二、今日の青年は富家の主婦に似たり。昔の日本青年は富家の女中の如かりし。

三、壮丁の体位低下は決して物質的に栄養不足の為にあらずして精神力薄弱の結果なり。

四、結核罹病者の多きも栄養不良の為と云はんよりも精神力衰弱の為なり。

故に結核予防の方法としては徒らに肉体的(動物的)の栄養不足を補はんと苦慮するよりも先づ以て精神力の鍛練強化を計る事が、最も肝要にして目下の急務であります。厚生省の如き宜しく此点に重点を置いて国民厚生の実を挙ぐべきであります。

結核治療の要諦
総ての病気治療上に精神作用の関係することは以上述べ来ったところに依って明らかでありますが、特に結核病に罹って居る人は精神作用が非常に過敏であるから其精神作用を善用すると悪用するとによって、其治療成績が全く反対となるわけであるから其点に十二分の注意を払って、診療に従事する事が臨床家に取っては最も大切なことであると私は確信して居るのであります。

人間の精神力を最も旺盛強化ならしむるものは宗教的信仰であると思ひます。真に神と結びついた精神を持って居る人は肉体の生死を超越して居るから其精神力は自由自在に肉体を支配する事が出来ます。従って精神さへ強壮なれば肉体の病の如きは忽ち之を癒すことも出来ます。否真に強壮なる精神の宿って居る肉体は病魔に冒さるることの無いものであります。

「精神内守病安従来」と支那の素問と云ふ本に見えて居り「信仰は山をも移す」とイヱスは云ふて居り、又「精神一到何事か成らざらん」とは云ひ古した格言であります。昔の日本人には此精神が最も強大であったが、今の日本人殊に青少年の間には此精神力が大に衰へて居る様に見受けられます。此も矢張物質文明の悪影響であるから今後は大に之が打破矯正に努力せねばならぬと思ひます。
「医者と非医者」中より

天理教、黒住教其他の宗教的信仰に基く祈願、祈祷等の為に病者の治癒する古今東西決して其実例に乏しくないのであって、吾々の如く所謂現代科学を基礎とせる実験医学の立場に立って、日々患者を取扱ひつゝある内科医の実地的経験より之を見ても医薬其ものゝ効力と見るよりも、患者が医者に対する信用の力、即ち宗教的に之を云へば全く患者自身の信仰の力によって病気の治癒する場合が甚だ多いものである事を私は認めて居るから人間以上の神を信ずる人にありては其信仰の力によって、或種の病気が治癒する位の事は別に不可思議でないと思ふ。今飜って多数の人々が金城鉄壁の如く、信頼して居る科学の研究し尽したりと公言し得る範囲は果して如何、他は暫く措き日進月歩の称ある吾々医学の方面のみに就て之を見ても未知未解決の問題は頗る多く単に臨床的治療の方面に於ても確実に医者が患者を治癒せしめ得べき場合は、内科的領域に於ては「マラリヤ」に対する「キニーネ」療法、「ヂフテリー」にたいする血清療法、「アメーバ」赤痢に対する「ヱメチン」療法位のもので、其他の病に至りては其増進を防ぎ、自然治癒を補助促進し生くべきを生かしめ、死すべきを満足して死なしむれば良医の名を博するのであって、庸医は之さへも為し得ず、放置せば軽快すべきものに手を下して却て増悪せしめ、又は生くべきものを死なしむるのである。進歩したといふ現代医学でさへも其実情は斯の如きものであるから、吾々は決して現代の医学、医術によって総ての病気を治癒せしめ得べしとは云はぬ。さればこそ吾人は日夜汲々として之が研究を怠らぬのである。
「西洋医学と支那医学」中より

今日欧米及日本のインテリ階級に於て信用せられて居る現代医学、即ち西洋医学なるものの進歩発達が徹頭徹尾人道的結果を示して居るものであらうか。所謂文化的眩惑から脱出して冷静に考へて見る時、大なる疑義が起って来るのである。現代医学は非常に進んで居ると云ひ、更に日進月歩殆んど停止するところが無いと信ぜられて居る。併し私共の如く直接現代医学の城廓に身を寄せて、日々病人の治療に従事して居る者の立場から忌憚なく自白する事を許さるるならば、現代医学の進歩発達が果して無限に人類の幸福を増進せしめ得るものとは思はれぬ。殊に内科患者の如きは、少しく衛生に注意して早く用心さへすれば自然治癒を来すものが多いので、現代医学の力によって治癒し得たと確信する事の出来る場合は頗る稀なものである。「御前は医学の知識乏しく、医術が下手であるから其様な感を懐くのである。それは決して現代医学の罪では無い」と私を非難する人が少くないかも知れぬが、私をして無遠慮に云はしむれば私よりも下手な医者が天下には甚だ少くない様に思はれる。其證拠には他の医師から私の手許へ送って来る患者の中には、静かに放任して置けば自然治癒を取るべき患者に対して所謂現代的新療法を加へたり、新薬の能書のみを信じて無暗に種々の新薬を使用する事によって、却って本病の自然治癒を妨害して居る様な実例も決して乏しく無いからである。

内科以外の患者に於ても、治療を受けて全快した数と、治療を受けても治癒せぬもの及び却って多少増悪したものを合計した数とを正直に比較する事が出来たなれば思ひ半ばに過ぐるものがあらうと思ふ。殊に近来の様な病院制度になって大学病院を初め其他評判の良い病院では患者が無暗に多いから、仮令良医が居ても一定時間内に総ての患者に完全の診療を施すわけには行かず、患者が少くて時間の余裕の充分ある様な病院には良医の居らぬ事が多い。現代医学を習得した医師でも、唯学問と技術とにのみ没頭して人格的修養無きものは、患者の為を計るよりも其不幸に乗じて自己の利欲を貪る様な場合さへあるであらう、少くとも現代の如き社会制度に於ては「医は仁術也」と称して自己の衣食も顧みず病人の為のみを計るといふことは許されぬわけである。此様な人格の欠点や制度の欠陥を別問題として、医学医術其もののみに就て考察して見ても、現代医学の行方には大いに非難すべき点があり、現代医学者としては大いに反省せねばならぬ点があると私には思はれる。現代医学の進歩発達といふことは専門分科が益々多くなって、其所謂専門方面の事を深く深く研究すると云ふ傾向が著しくなって来た事である。それ故近来は医学雑誌を見ても医学会に出席して講演を聞いて見ても自分の専門科目といふ丈けでは殆んど理解の出来ぬ様な講演が実に多くなり、又講演者はそれを以て得意として居る。聞く方でも解らなかった講演を賞讃して居る有様である。実際講演者と全く同一の問題に就て自分も直接研究して居るのでなかったなれば、到底理解も出来ず批評も出来ぬと云ふのが近来の実情である。

「モルモット」と家兎の二、三百頭を犠牲に供し、二年位の日子(ニッシ)を費しさへすれば、大学を卒業した位の人間なれば誰でも医学博士になれる時代であるから医学博士といふ肩書が、決して病人診療に秀でて居る医者であると云ふ事を示して居るものでは無い。近来は医者でない医学博士さへも出来るのであるから医学博士が良医の表象で無い事は明らかなる事実である。それ故医学博士を良医名医と解するのは解するものの誤りである事は云ふまでもないが、往々其誤解を利用せんが為に態々(ワザワザ)学位を得て、之れを振り廻す者あるに至っては罪は其医者にあるわけである。

之れを要するに現代医学は動物医学で、人間の治病を主眼としたる研究とは思へぬ位である。換言すれば学位を得んが為の研究である。それ故研究は微に入り細を極めて蝿の足の先に「チフス」菌が何疋附着し得るか、「モルモット」の睾丸の重量が何瓦あるかと云ふ様な事から、人間の毛と猿の毛と果して三本違って居るか否かを一々数へて見る様な学者は居るが、結核病、癩病、癌腫等の根治法を一生涯でも二生涯でも研究しようと云ふ様な、大抱負を持って居る医学者は現在の日本には殆んど無い様である。

現代医学の進歩発達の点に於ては決して他に劣ってゐないといふ定評のある日本医学界の現状が之れである以上、現代医学と云ふものゝ真価も略々推定する事が出来る。治病医学の立場から見る時には現代医学は根治的と云ふよりも寧ろ対症的に傾いて居る。殊に病気を其発生したる局所に分類して処置せんとする傾向著しきが故に、其治療法も勢ひ局所的に傾き対症的に陥る様に思はれる。例へば結核病の如く極めて広義に解釈すれば全身病と見做すべきものでさへも、偶々眼底に発生すれば眼科に、関節に発生すれば外科に、喉頭に来れば耳鼻咽喉科に、皮膚に現はるれば皮膚科に、肺に来れば内科にといふ有様で先づ以て局所的に対症療法を行ふのが普通である。黴菌に因するものさへも其発生したる局所のみを処置する庸医がある。癌腫に就ても外科では根治手術などと云ふ言葉がある。乳癌なれば乳房を、子宮癌なれば子宮を、胃癌なれば胃の大部分をその癌腫と共に切除する事を云ふのである。併し私は之れとても一種の対症療法であって真の根治療法で無いと思ふ。根治とは病気のみが根本的に治癒するのでなくてはならぬ。乳癌で乳房全部を癌腫と共に切り去ると云ふ事は、癌の為に大切なる乳房一つを失ふ事であって本当の治癒とは云へぬ。若し両側の肺結核の場合に、両肺全部を切除し肺結核の根治療法であると云へるであらうか。成程肺結核は無くなったが、同時に生命も無くなるのであるから決して真の根治ではない。現代医学は兎角病気を主として病人を主とせぬ傾向があるから、病気は除去せられたが病人は全治せぬと云ふ様な実例も乏しくない。極めて厳格なる意義に解する時現代医学の療法中病者の身体に何等の損傷をも残さざるやう根治し得べき病気が幾つあるであらうか。急性伝染病中には根治と見做すべきものが無いでも無いが、其他には殆んど無い。仮令あっても極めて僅少なるものである。斯く考へ来る時は大いに進歩して居ると云ふ現代医学も、一種の対症的姑息療法に過ぎぬわけである。それ故人道的と云ふ理由の下に施されつつある現代医学的療法も之れを仔細に考究する時には、寧ろ非人道的結果に陥ってゐるのでは無いかと私には思はれる。若し現代医学の発達なくば、早く死する病人も少く無いであらうけれども、早く全快するものも多く社会全体としては無病者が多くなり、人類全体としての健康は増進したであらうと思はれる。

現代医学は第二次的の病源にのみ注意して第一次的の根本原因を忘却して居る。而して既に発生した病気其物に対して対症療法を研究して居るに過ぎぬわけである。云はば泉を断たずして噴き出る水を汲み乾さんと努力して居る様なものである。現代医学の行き方ではいくら研究が進み新薬新療法が発見せられても病気の数は多くなり病人は増加するのみであると思はれる。

私は現代医学の教育を受け、其御陰を以て今日の地位も得て居るわけであるから、現代医学の有難味を感じ其長所も十分之れを認めて居るが、又既に述べた通り大なる欠陥のある事も認めて居る。

現代医学者が今の中に早く此欠陥を認めて之れが改良を自(ミズカ)ら行ふ事に努力するにあらざれば、折角の現代医学も却って人類の健康なる発達を阻害し、社会に害毒を流すものと認めらるるに至り、今吾人の軽蔑し嘲笑して居る非医者、及漢方医者の為に圧倒せらるる時期が来るかも知れぬ。現代医学者たるもの動物医学に等しき西洋医学をのみ、崇拝し、徒らに日進月歩の発達を自負する事をやめて、自らの為しつつある日常行為を反省すると共に、衛生法と精神修養を主眼とする支那医学を正視して、長短相補ふところがなくてはならぬと思ふ。

(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)