見えざる力

本医術によって重難病を治癒されたものや本医術の修得を受けたるものが異状の感激に浸り、その効果を讃へ、空前の大医術である事を人々に説くと雖も容易に受入れる者は少いとの歎声をよく聞くのであるが、之は如何なる訳であるかといふ事を、私は説かうとするのである。それに就て、右の原因は奈辺にあるかといふ事であるが、それは全く現代人が如何に見えざる力を信じようとせず、見える物のみを主とするかといふ事である。そうしてその原因が全く猶太的教育の結果である事に気付かなければならないのである。

明治以来、日本が欧米の文化を無差別的に採入れた事は全くやむを得ざる過渡期の現象であって、之あるによって、今日の如き欧米の水準を摩すとさへ思はるる程に達した文化であるから、その事に対しては徒らなる批判は避けなければならないが、今日及び今日以後の時代に向って、尚米英的唯物文化に心酔する事は許されない事であり、勿論唯物文化の清算されなければならない時期の来た事を認識しなければならないのである。

現在戦はれつつある大東亜戦に於て、米英が物を主とし、物の量によって勝敗の計算をたてるといふ戦法に対し、物の量が劣ると雖も、精神力によって日本が勝利を得つつあるといふ事実をみれば、如何に見えざる力が物の力に打勝ってゐるかといふ事を知る好適例であらう。

然るに、明治以前の日本人は実に見えざる力を信じ、何事に対してもそれを主とする考へ方によって、凡ての行動を執ってきた事は、幾多の史的事実に現はれてゐるのである。彼の赤穂義士に於ける快挙に於て、主君浅野内匠頭の意志を具現すべく、生命を賭しての苦慮忠節によってみても、全く冷光院殿なる先君の霊を生けるものとしてその怨恨(エンコン)を晴らした事で、全く見えざる主君を対象としての行動である。

又彼の大楠公に於ける有名なる七生報国の言辞や、曽我兄弟を初め凡ゆる仇討等に至っても、見えざる霊を対象とした事は勿論である。其他神仏を敬ひ、祖先の霊によく仕へ、亡き夫に対して貞節を守り、亡き主人に対して忠節渝(カワ)らざるが如き、悉見えざる霊の実在を信じ、それを対象とした事は明白であって吾等祖先が如何に霊を信じ、来世を信ぜしかは論議の余地はあるまい。

然るに明治以後、全日本人に課せられたる教育そのものは、僅かに日本的なるものを織込まれたに過ぎず、その内容の大部分は猶太的唯物思想の注入であった。即ち見える物のみを対象となし、見えざるものは信ずべからずとなし、見えざるものを信ずるはすべて迷信なりとし、一切は物を主とし、物によってのみ価値や其他を判断するといふ思想を醸成してしまったのである。そうしてその物を左右する唯一の力として金銭を無上のものとなし、極端なる拝金主義を植付けた事は人の知る処である。

茲で私は、猶太の秘密結社であるフリーメーソンの意図を赤裸々にかいてみよう。彼等が最後に到って全世界を掌握せんとする-その方法として最も力を入れたものは各民族を去勢する事である。即ち民族特有の魂を抜く事である。その理由としては各国家の存立が強固である。その主因としてはその国民の祖国愛である。仮に日本に例をとれば、忠君愛国であり、孝道である。勿論之は見えざる意志の活動と信念の力である。従而何よりも先づ此見えざる力を抜かなくてはならないといふ事になる。その抜く方法としての逆的効果を狙ったものが即ち唯物思想である。故にその意図の下に構成されたのが今日迄の猶太文化であり、猶太的学問の機構であった。従而、彼等の理論は悉く物を本位とし、物を離れた理論は成立たないのである。此物本位の学問によって教育された所の現代人であるから、見えざる力を信じ難いのはやむを得ない事であらう。

以上説く所の意味に於て、西洋医学が薬剤や機械といふ物によって治病の目的を達せんとしたのであるから、現代人がそれを無批判的に信ずるに引換へ、見えざる力の医術を、容易に受入れ難いのは、当然である。従而、本医術を信ずるとしても、その初めに当っては理論よりも唯だその効果の顕著なるに心が動くといふ場合が大部分である。

そうして今一つ注目すべき事は、現代人は何事に対しても理論を重んじ過ぎる結果、理論に捉はれ、事実を第二義的に見るといふ欠点である。社会政策や法規や、医学衛生其他何々等の問題に対し、専門家達が智嚢(チノウ)を集め、理想案として成ったものを愈よ実行に移すと雖も、それが数年或はそれ以後に予期の如き成果が挙がらなかったり、反って失敗となったりする例がよくあるが、それ等の事実を深く検討する時、その根本原因としては全く物を重視し、見えざる力を軽視した結果に外ならない事である。その最も好適例ともいふべきは、彼のルーズベルトが樹てた天文学的数字の軍備が予期の如き成果を挙げ得ず、結局失敗に終るとさへ見らるるのは、物のみを主とした方策に頼り過ぎる結果でしかない事は勿論であらう。

故に私は卒直に言ふのである。現代の日本人が物の力を過大視し、見えざる力を軽視し勝なのは、全く唯物的猶太教育に患ひせられたそれが未だ多分に頭脳に残存してゐる為であらう。然し乍ら、時代の急転換しつつある今日、此事に最早飜然として目覚めなければならない事は勿論であり、それの自覚に後れる人こそ、時代的敗者となるより仕方がないであらう。

茲で再び注意しておきたい事は、私と雖も物の力を決して軽視するものではない。ただ私は、人間の生命と健康に関する限り、物のみの力では、絶対解決なし得ない事を力説するのである。此意味に於て、見えざる力によっての医術、即ち唯心的医術を推奨する所以である。

(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)