医学の神聖化

私は現代医学の構成に就て、常に不可解に思ってゐる事がある。それは何であるかといふと、医学に対し、専門家以外の者、即ち第三者をして一歩も容喙(ヨウカイ)せしめないやうになってゐる事である。臨床上に於て特に然りである。即ち病気や健康、衛生に関する凡ゆる部面に、第三者の容喙する事を以て危険とさへされてゐる。その著るしい現はれとしては、素人療法は危険であるとか、民間療術者を非医者なるが故に擯斥(ヒンセキ)しようとする傾向も多分にあるやうである。斯様に西洋医学以外のものを危険視し、価値を認めないといふ態度は如何なる訳であらうかを考へてみるに、多分その理由としては、科学に立脚してゐないからといふのであらう。従而、そのものの効果如何は全然問題にしないといふのが実情であって、その独善的なる、殆んど医学を神聖化して了ってゐるかとさへ思へるのである。

然るに吾々としては『病気は治ればいい』と言ふのである。『病気が治って完全健康体になる』ただそれだけである。それ以外に何を求め、何を望む必要があるであらうか。吾々の生命も肉体も、その保健は現実の問題である。この現実を破壊する学理も科学もあり得ない。此意味に於て私は、病気が治ればそれは真の医学であり、治らなければ非医学だと思ふのである。故に治る医術を信ずる事が正信であり、治らざる医学を信ずる事が迷信である事はいふまでもない。又病原を徹底的に説明し得られ、現実と些かの矛盾も来さないものが真の医学であり、病原は不明として説明し得ず、現実と齟齬(ソゴ)するといふ医術は非医学である。医博国島貴八郎氏の著書「結核と人生」の中に斯う出てゐる。「彼のチフスが、百年前も全治に四週間を要したが、今日でもやはり四週間を要し、肺炎も同様でやはり一週間を要するといふ訳であるから、治療医学の進歩は聊かも認め得られないのである」といふにみても明かであらう。

そうして神聖化されたる医学によって、仮令、医療の結果、医家の言の如く快方に向はざる場合と雖も、其理由を訊ねる者は滅多にないのである。又誤診誤療によって不幸に陥る場合、相当の疑を有ちつつも何等の抗議も苦情も言はれないのである。それは医学の神聖を冒涜するかのやうに見られ、又医術を施行する上は支障を及ぼすといふ理由で、法的にも不問に附するといふ傾向である。注射後即時に死亡したといふ例も吾等は余りに多く聞かされてゐる。チフスの予防注射後反ってチフスに犯されたといふ例も尠くないやうである。

そうして学問至上主義の弊は、此所にも現はれてゐる。それは研究の為として、可成大胆と思はれるやうな手術や新薬の応用である。それによって幾多の尊い人命が犠牲になってゐるであらう。もし之等隠れたる事実が明かにされたら人々は如何に驚くであらうか。然し、それは神秘の殿堂を覗く由もない機構となってゐる以上致方ないのである。医学者は言ふであらう。仮令一人の生命を犠牲にしても、万人の生命を助ければいいではないかと、それに対し私は、万人を殺しても一人も助け得られないではないかと思ふのである。

又斯ういふ原因もある。いふ迄もなく現在の日本の医学は独逸医学である。独逸医学を学ぶ最初の頁には「もし病原の判らざる場合先づメスを以て皮膚と肉を切り開いてみるべし」と出てゐるそうである。忠実なる医学は此教を丸呑みにして手術をするのであらう。切り開いて病気が無かったといふ事実は、よく聞く所で、その犠牲になった患者は洵に気の毒なものである。然し、切り開いて何も無かったから元通りに縫ひ、疵は癒えたとしても、全体の健康に尠からず悪影響を及ぼす事は、私の多くの経験によって知らるるのである。

再三言ふが如く、西洋医学は驀地(マッシグラ)に邪道を進んでゐるのであるから、進歩する程人類に対する危険率は増加するといふ結果にならざるを得ないのである。然るに、人類は全く西洋医学に盲信してしまって、誤謬の片鱗だも観破し得られないから、寔に歎かはしいのである。前述の如き国島医博の言の如く、百年以前と今日と比べて、些かの進歩もないとすれば、医学に携はる多数者の労力及び資材等の消耗が、人類にとって何等の裨益する所がない訳である。私をして忌憚なく言はしむれば、右の如き大消耗によって得る処のものは、福利に非ずして人類の健康を弱め、病者を氾濫させ、生命を脅かすといふのでありとすれば驚かざるを得ないのである。

私は、医学に携はる多くの人達が目覚めなければならない時が、必ず近き将来に来るべき事を信ずるのである。其時如何にすべきやといふ事も考慮しなければならない問題である。然し乍ら、相当経験を有ち、堪能である医家にして、西洋医学の行詰りに対し目覚めてゐる者の相当多い事も私は知ってゐる。従而、或時期に至れば本医術を肯定し、此医術によって国民の健康を解決すべきであるとする医家の続出する事も、私は充分信じて疑はないのである。但だ然し、現在としては医家としても行掛りや地位や経済問題等の種々なる障碍の為、遅疑する人達もある訳であるが、之等良心的医家の決意を促したいのである。茲で一番困る事は、西洋医学を絶対無上のものと盲信し、それ以上の優れたる医術はないとし、又生れるべくもないと確く定めてゐる医家の未だ多数ある事である。之等の人達の啓蒙こそ、今後に於ける最も努力を要する問題であらう。然し乍ら凡ゆる事物の転換期に当っては、如何なるものと雖も大勢に抗する事は不可能である事を知れば問題はないであらう。

(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)