現実無視の悲劇

現代医学に於ける現実無視は看過出来ないものがある。それに就て私の経験及び其他の例を挙げてみよう。私は二十数年以前慢性歯痛に悩まされた事がある。それは四本の歯が痛み続ける事一年有余に及んだのである。一時は痛苦のあまり頭脳に変調を来し、発狂の一歩手前とさへ思はれたのである。終に最後に到って幾回か自殺を企てたるにみても如何に甚だしかったかといふ事が想像されるであらう。そうして此原因が全く薬毒の為といふ事が判ったのであるが、それは一年有余苦しんだ揚句、或動機によって判明したのであった。その動機とは、万策尽き藁をも掴みたい心境になってゐた際、偶々知人から病気をよく治す某宗の行者があるといふ事を聞いたのである。早速そこへ行った。行者は「一週間で治すが、その期間は歯医者に行く事は行(ギョウ)に障るから相成らん」といふので、それ迄毎日のやうに通ってゐた歯医者行をやめたのである。

然るに、意外にも三日目か四日目頃だと思う。僅かながら痛みが軽くなったのを覚えると共に、豁然(カツゼン)として眼界が開けたやうに思はれた。それはそれ迄毎日歯医者へ通ひ、その度毎に薬を用ひられてゐた-その薬の為ではないか-といふ事である。そう意って回顧してみると、はっきりと浮び上って来た。それは最初は一本痛み、且(シバ)らくして二本痛み、次で三本四本といふやうに、漸次悪化の経路を辿って来た事である。又最初は痛んだ歯のあまりに治癒しない為抜歯した。抜歯すると隣接の歯が直ぐ痛み出すといふやうな訳で、遂に四本まで抜歯したのである。にも拘はらず未だ四本痛んだのであるから、合計八本の歯が悪かった訳である。恐らく私の歯痛位酷いのは、世の中にその例があるまいとさへ思ったのである。従而、一年余といふもの毎日歯医者へ行き、薬を注(ツ)けぬ日とては無かった。一日二回三回にも及ぶ事さへあった。東京に於ける有名な歯医者を数軒歩いたが治らないので、帝大歯科にも東京歯科医学専門学校にも行ったのであったが、効果がないばかりか、益々悪化の一途を辿るのみである。其時、前述の行者に赴いたので幸ひにも歯科医に行く事-その事が歯痛悪化の原因である事を識って、驚いてやめ、自然放置によって漸次快方に向ふことになったのである。

そうして私が薬毒の害を知ったのは此歯痛からであった。以上の如き、おそるべき慢性歯痛の最初の原因が、標題の如き「現実無視」にあったことを、私は世人に告げたいのである。それは最初前歯一本が齲歯(ムシバ)になったので、その窖(アナ)を充填すべく、歯医者に行った。その歯医者は「完全に消毒しなければいけない」といひ、消毒すること数回に及んだ。今日考へてみると、その消毒薬が強烈なためと、回数が多くあまりに念入りにやり過ぎたのが抑々の原因である事が判った。それは薬毒が歯根に滲透して痛み出したのである。然るにその痛みが全く治癒しないのにセメントの充填をしたのであったが、充填するや、間もなく強烈な痛みとなったのである。翌日歯科医に赴き、セメント充填の為の激痛と想ふから除って貰ひたいといった。すると歯科医曰く「そんな筈は絶対にない。充分消毒しての上充填したのであるから」といって肯(ガエ)んじなかった。その時私は不思議な事を言ふと思った。何となれば、痛みは現実であって、筈は理屈であるからである。いはば、理屈を以て事実を否定する訳である。歯科医又曰く「兎に角、痛む筈がないのだから、明日迄そのままにされたい。もし、明日迄治らなかったら来てくれ」といふので、やむなくその通りにした。然し翌日になっても痛みは依然たるばかりか、幾分悪化の傾向さへあった。歯科医曰く「昨夜独逸の或本を調べてみた処、貴方のやうな例は一つもなかった。どうも不思議である」といって首を傾(カタ)げるばかりであったが、致し方なく充填セメンを除ったのである。其為に痛みは大いに減少したが、軽痛は依然として治らない。従而その軽痛を治さんが為、前述の如く次々歯科医を取かへ漸次悪化し畢に難症と迄なったのである。

右の如く、現実の痛みを理屈で否定するといふ事は、甚だ不可解のやうに思ふであらうが、之に似たやうな例は尠くないので、私は患者から屡々聞く話であるが、盲腸炎の手術後、全治したるに係はらず、盲腸部に痛みのある事があり、そういふ時医家は、盲腸を除去したのであるから痛む筈がないといひ、本人は痛いといふやうな事もある。又以前私は面白い例を本人から聞いた事がある。それは五十歳位の男子で慢性眩暈の患者であった。其当時有名な脳神経専門の○○病院に行き診察を受けたる処、二ヶ月にて全治するといはれたので、信じて通院したる所、二ヶ月経ても何等の効がないので不満を漏した所、今一週間延してくれろといはれ、それを諾したがそれも更に効がないので、患者は非常に立腹し、院長に詰(ナジ)った処、院長曰く「貴方はもう病気はない。医学上如何に検診すると雖も、病的症状は認められないから、最早来なくともよい」と曰ふのである。終に患者は堪りかねて、あまりに欺瞞も甚だしいと、頗る強硬に出でたので、遂に院長は謝罪し、それまで病院へ支払った費額を全部返還したとの事である。

今一例は、四十歳位の婦人、頭脳がわるくその症状といへば、頭脳の中央に何物かが居て、その者の考へが、本人自身の考へる事を断えず妨害をするといふので、患者はその苦悩を打消すべく、常に大声を発して喋舌り続けるといふ訳で、同情に禁(タ)えぬものがあった。此患者は、帝大脳神経専門の権威で、今は物故せる〇〇博士を信頼し、約一年間通院治療を受けたのであった。然るに、一年余経た或日の事、博士曰く「貴方はもう治ったから、来なくともよろしい」といふのである。患者は「未だ頭脳の妨害者は少しも変らない」といふと、博士は「今後出来るだけ気を紛らすやうにすれば自然に治る」といふ洵に頼りない事を言はれて突放されてしまったのである。それが為、煩悶懊悩してゐる際、私の所へ来たのであった。

右の如き実例は無数にあるのであるが、私はいつも医家に対し同情が湧くのである。何となれば、医家としては、凡ゆる最新の学理や方法を究めて努力するのである。にも係はらず効果がない。患者からは不平不満を愬(ウッタ)へられるといふ訳であるから、医家たるもの悲観せざるを得ないであらう。従而如何に考ふるも医家に罪のない事は勿論である。その原因たるや、全く逆進歩である医学を真の進歩と誤り、今日迄その誤謬に目覚めないといふ結果でしかないのである。故に、以上の如き医家の並々ならぬ努力が、反って患者の不幸を招く結果を来すといふのであるから、殆んど信ずべからざる程の悲劇が、常に無数に行はれつつあるのである。

以前私は某医学博士から、左の如き詐(イツワ)らざる告白を聞いた事がある。それは医家としての最大なる悩みは、病状の悪化や、慮はざる死の転帰に際し、如何にして近親者の納得し得べき説明をなすべきかといふ事を、常に苦慮してゐるといふ事である。之は全く有り得べき事であらう。然るに、本医術の受療者は、例外ないといふ程効果があるので、患者は固より近親者の感激は絶大なるものがあり、嬉し泣きの話なども、常に弟子から聞くのである。

(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)