私は曩に「病気は神の最大なる恩恵である」と言った。その理由は最早読者は充分認識されたであらう。然るに世間、闘病などの文字を使用し、病と闘ひ、病を征服する事を以て治病の要諦と解してゐるが、之等が如何に誤りであるかは、爰に言ふ必要はあるまい。
私は、病と闘ふといふ其観念は、病に対し如何に作用するかといふ事を考へてみるのである。そうしてこれまでは、病それ自体が苦痛の代名詞となってゐる。従而、闘病心とは苦痛と闘ふ意味である。苦痛を敵視する事である。言ひ換へれば自国内に敵軍が侵入蟠居してゐる-その敵を征服し、拝撃しようとするのである。然るに、予期の如くならない場合、病苦以外の敵に勝てないといふ煩悶や焦燥感が起るのは当然であらう。其結果、病気の外に苦痛を排除せんとしようとする苦痛が加はる訳である。 然るに、私の言ふ病気なるものは、神の恩恵であって、病気なる浄化作用によって、体内の毒素が軽減又は排除さるるのであるといふ意味を思ふ時、洵に感謝に堪へない気持が湧くであらう。寧ろ病気の一層強烈であれかしと願ふ心にさへなるものである。又病気恢復後、毒素軽減による健康増進の希望も起る以上、それが亦一つの楽しみとなるのである。
右述べた如き二様の解釈は、精神的には如何に影響するやといふに、闘病観念は病に対する恐怖と、不安焦燥の悩みを生み、天恵観念に於ては、感謝と希望と楽しみを生むといふ事にならうから、本医術を知るに於て、人生の幸福圏内に一歩踏み入ったといふ訳である。
以上の如き病気の真諦を、日本人全部が認識し得たとしたらどういふ状態になるであらう事を想像されたいのである。いふまでもなく、最大不安の焦点であったものが、その反対である事を知るに於て、国民全般が如何に安易な気持を持ちつつ職域奉公に邁進さるるかである。能率増進は固より、社会的明朗感は素晴しいものがあらう。之によって日本が廿世紀の蓬莱島となるであらう。と私は信ずるのである。
(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)