本医術を以て宗教的と見たり、信仰的と思ったりする人も偶々あるやうである。之に就て私は、宗教でも信仰でもない事を述べようとするのである。
先づ宗教であるが、宗教とは、読んで字の如く、何々宗といふ一個の団体を作り、教義を樹立し、その教を説き、その教の主旨に従って行動しなければならないのである。又何々如来とか何々菩薩、何の神、何の尊、キリスト又はその宗派の開祖の像を朝夕礼拝しなければならない事になってゐる。勿論宗教によっては種々の形式や行事等の差別はあるが大観すれば右の如きものであらう。
次に信仰とは文字の通りで一言にして曰へば、私は信用と信頼が、時日を経るに従って漸次強度となり、それが畢に極点に達するに及んで崇敬の念を生じ、信仰といふ観念にまで育成さるると思ふのである。故に此の意味によって考ふる時、信仰とは神仏に限らず、凡ゆるものに通暁するのである。暁に日の出を拝むのも信仰であり、武士道も科学も一種の信仰である。従而、曩に述べた如く西洋医学と雖も、一種の信仰に外ならないであらう。特に医学に於ける信仰は、実に絶対ともいふべきものである。何となれば貴重なる生命を委ね、効果如何に係はらず安心してゐるにみてもそう言へるであらう。
然るに、以上の如き宗教的分子や信仰的観念が、本医術に於ては異なる事である。それは本医術に於ては宗教的分子は勿論ない。ただ信仰的からいへばないとはいへない。医師から死の宣告を受けた者や、絶望的な難病が起死回生の喜びを生むといふ以上、その感激が信仰にまでも及ぶのは当然な帰結であらう。然し、それは効果に対する自然の観念であるから、迷信ではない事である。
茲で私は医家に言ひたい事がある。それは医家は兎もすれば、医学以外の療法が効果のあった場合、必ず信ずるから治ったといふのである。然し乍ら、其様な観方には理由がある。それは西洋医学に於ての多くの経験から生れた解釈であらうが、例へていへば、患者の信頼する医家の薬剤は特に効く事である。即ち同一の薬剤であっても、有名な博士の処方は卓越せる効果を挙げ、無名な医家の処方は効果が薄いといふやうな実例が多くある事も医師がよくいふ処である。之等は全く観念の作用であって、薬剤そのものの効果ではないといふ事を立證してゐる。従而、医家が信ずるから治るといふ既成観念に支配されるのもやむを得ないであらう。
然るに、本医術に限り、再三述べた如く、如何程疑ふ人と雖も、信ずる人と効果は同一である。その證左として特に幼児は偉効を奏する事である。例へば、医家が最も恐れる彼の疫痢が、医学に於ては治病率は恐らく十パーセント以内であるに対し、本医術に於ては九十パーセント以上といふにみても明かである。私は常に言ふのである。『戦争は勝てばいい。病気は治ればいい』--ただそれだけである。
(明日の医術 第二篇 昭和十八年十月五日)