観音心と観音行

観音心とは観世音の御心の具現であり、観音行とは其具現の実行である。

然らば観音心とは如何なるものであるか、之を出来るだけ判り易く説いて見やう。序に言ふが此の観音心は、思想として未だ甞(カ)つて人類の経験にも、哲学にも無いのであって、端的に言へば現在の思想が清算されての後に来るもの、即ち明日の思想である。

此の観音心とは一言にして言へば、応変自在融通無碍の心的活動である。今日までの凡ゆる思想宗教哲学等は、一定の法則主義主張又は戒律を造りそれを実践せんとして飽まで固着する結果、限られたる一定期の成果は在るが、時所位に依る変化物象の流転に応化する能はずして、終に其生命力を失墜して了ふのは、余りにも瞭かな事実である。例へて言へば、国と国とは国是国策を遂行せんとする固執によって一歩も枉(マ)げず終に戦をも起し、又政治団体は主義に依って党派を生じ、階級は其利益の固執に由って軋轢し、宗教は解釈意識の相違に由って、派を立てゝ相争ふ結果を生ずるのである。是が実に人類社会闘争の根源であって、優勝劣敗も、弱肉強食も悉くがこの産物と云っても可いのである。

此の根本に気が附かなければならない。仏陀は慈悲を説き諭した、因果の法則を示した、基督は愛と犠牲を、孔子は人倫の道を、モーゼは戒律をそれぞれ人類の為めに説いたことは尠からず役立って居るのは否定す可くもない。しかし是等各々が持つ特殊性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。何となれば其孰れもが、教理を立て戒律を造って居る。それはそれ自身が既に限度を示して居る。此の故に完全ではない、教の無い教、戒律の無い戒律、主義の無い主義でなければならない。即ち応対変通である。それこそ宇宙の運行と倶なる真理の具現である。之を卑近な例にとって見やう。人間の不正を矯めるに法律がある。此の法律は斯くす可からずの項目が何百何千もあるが、如何に努力するとも所期の目的を達し得ないのである。それは法規の文字によって範囲と限度とを示して居るからである。不正な人間は此の限られたる法文以外に不正な手段を発見しやうとするのが、何よりの実證である。法網粗であった時代より、法網益々密になって、犯罪は減少しなければならない筈であるのに、事実は其反対の結果をさへ示すと云ふ皮肉は、私の説を裏書して居る。

彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しいと、思ふのである。

此故に人間悪を絶対に匡正(キョウセイ)する方法それは人間内面に在る魂の工作でなくては根本的ではない。その魂さへ浄化清澄であったなら、例へば法律の無い世界に住して居ても不正をやらないのは自明の理であるが、此状態の魂こそは、法規や道徳や戒律に何等束縛をされて居ないところの、実に自由無礙自主的活現であるからである。天地と共なる真理其儘の姿であるからである。是れ即ち観音心である。

(昭和十一年四月十一日)