岡田自観師は宇宙を生命体とみております。そしてこの宇宙生命を宇宙精神と称し、更にこの宇宙精神に普遍愛を観じて、大愛心第一主義、つまり慈悲心第一主義を高調するのであります。師が観世音菩薩に絶対的な信仰を傾けておりますのも、こうした大慈大悲の観世音菩薩が宇宙大愛心の分霊なのだと観じておるからなのであります。そして現界とか霊界とかも悉くその宇宙より生まれ出たものでありますから、師におきましては、宇宙生命はその儘神なのであります。と同時に神はまた万物の創造者であるわけであります。
前にも叙述したように、キリスト教が発祥してきて淵源であるヘブライ民族は、唯一でしかも無形な人格神の存在を信じておりました。そして此の宗教的な確信に基づきまして一切の道徳とか政治とかを処理していたところの特種な才分を備えた民族だったのであります。従ってこの民族の信仰の対象でありましたエホバの神も、正義の神-各人は善悪の行為によってそれからの酬いを得るのだという意味での正義の神-だったのであります。つまり、善人には幸福を授けて、悪人は厳格に罰するという、信賞必罰の神でありました。でありますから、エホバの神は非常に厳しい神として考えられておったようであります。
ところが、ひと度イエスが出でて神は愛なりと説くようになりますと、かの峻厳なエホバの神も恩愛の神、大慈悲心の神へと性質が変化していったわけであります。また、前に触れた意味での理智冥合を説いたり、智第一主義の仏教も、その修行を実行することが困難だったことからして、ついに他力救済への願望となり、また慈悲の仏である阿弥陀の信仰へと変ってまいったのであります。要するに、キリスト教も仏教もともに、結局大愛の神=大慈悲の仏を基幹とするようになったのであります。そしてしかも、この大愛=大慈悲が人心に滲透していって、東西両洋の文明文化を建設し、そして今日の美観を呈するようになったわけであります。この大きな事実こそ、心を潜めて考察する必要のある重要な点なのであります。
吾等は以上の事実からして、愛は人間にしっかりと具っている生命の焦点であることを思わないではいられません。人間にしっかりと具っている愛の心があるからこそ大愛の神なり、大慈悲の仏に共感を覚えますし、そこにまた確固として抜くことのできない信仰が生れてくるのであります。だから『聖書』や『仏典』にもられている哲理や、発生発展のいきさつの疑点に対しては眼を向けようとはしないのでありましょう。なおまた逆に、小宇宙である「我」の中にしっかり具わっている愛の心から推して考えてみますと宇宙生命の本質は普遍の大愛心であることも知られるのであります。
ところがたまたま近代科学は、従来の物質万能論を覆えして、物質ではないもの、つまり何等質量のない全く精神的なもの、つまり霊的なもの、精なるものを発見しております-科学者はこれを電子と名づけております-。そして其の相慕的な結合の関係が、大きいものは天体の組織から、小さいものは毛髪の組織に至るまで一貫している姿であることを確認しておるのであります。科学者はこれを親和力と呼んでおりますが、岡田自観師はそこに宇宙の根本愛、つまり大愛心を観ずると言うのであります。でありますから、師の宇宙観は科学的な基盤の上に立っておるのであります。極めて論理的でもあり、また哲学的でもあります。吾等はここに初めて、科学と哲学と宗教との一致点をみることが出来るのであります。
また、師は近代科学が説明しておる原子構成の中に、不断の活動と向上の姿とをみておりますがそれを人間の本性であるとしております。人間は働くために存在しておるのだし、向上する運命にあるのだとみて、そこに人生観を確立しておるのであります。
古来宇宙の根本実在を把握するために二つの方法がとられてまいりました。其の一つは、根本実在を客観的な存在として考え、吾等はそれを特種な霊感によって認識できるのだと説くものでありまして、「我」に対して「彼」なる神を認めるのだと説くキリスト教の古い解釈がそれなのであります。他の一つは、根本実在が吾等自身の心内に存在しておるのだとして、吾等自身の源底を探ぐってゆけば、そこに実在を証見できるのだというのであります。所謂神秘主義者の考え方がこれであります。また大乗仏教の所説は大体この部類に属しております。つまり大乗仏教においては、実在を主観的に自己の心内に求めて、一切の思慮分別を滅却してしまった無分別境の空と解釈するのであります。
けれども、両者とも知覚を超越した実在を認識しようとする目的には異りないのであります。ところが何れも知覚の世界に通用の心理説に囚われて、結局人間意識の孤立性、また主観性を真理だとしてしまうのであります。一方は主観的な心に対する客観的な「彼」を実在と定めるわけなのだし、また他方は実在を主観的な我の心の内に在るのだと定めて、これを根底として実在を探究するわけなのであります。
自観師に於いては、意識の本体は主観と客観との両界に拡がっている普遍平等な実在であって、しかも一切万法を顕現する根本原理であるとするのであります。このような師の見解は現今の心霊研究家の意見とも一致しております。つまり主観的な「我」 に対立してゆくのでもなく、また主観的な我の内にこれを探究しようとするのでもなくて、知覚世界における「我」と「他」とか、「彼」と「此」とかいう差別を超越してしまって、主客包容の宇宙法界意識-つまり、宇宙精神を開発して、吾等の自我は宇宙と一体不二であるとするのが師の実在観なのであります。
ですから、師は一般仏教学者が言っているような、神秘世界も、其処にある仏や菩薩も結局人間の主観的な観念を客観世界に投影したものなのだという説を排しております。そして仏も菩薩も、また諸々の神々も客観的に存在するのだと主張します。従って自観師の信仰している観世音菩薩も、師においては厳として霊界に存在すると認めておるのであります。
キリスト教の根底に横たわる難問題は、人間の罪悪性の解決であり、また仏教の難点とするところは無明の起源の問題であります。これ等の問題は古来いろいろに論議されてきたのでありますが結局まだ解決されてはおりません。仏教における無明は、生の衝動から生じてくるのでありますから、生衝動の必然な結果であるとの新説をとなえる仏学者がありますが、結局身体繋縛の断絶を要求するのであります。従って仏教の見地からしますと、どうしても人間の本能を排斥する結果になります。これは浄土宗や真宗などを除く一般仏教を通貫する思想であります。
浄土真宗などの他力本願の宗派におきましては、弥陀の大慈悲救済に一切をあげて委ね、ただただ念仏すればよいとされております。けれども自観師においては、宇宙生命である大愛心を自覚し、自己本来の姿にかえって、自ら大愛心に徹し、また大愛行の生活を営めば、たとえ身は知覚の世界に住んでいても、心は無尽な荘厳の神秘世界と交流することができるとし、そこにこそ神秘力を発揮することができると説くのであります。
また、自己本来の姿である大愛心に徹するとき、そこには罪悪もないし、無明もなく、心身共に大光明に包まれて、大愛心にひたり、ただ感謝と感激との生活があるのみであると主張するのであります。
でありますから、自観師の教えにおきましては、静坐思惟も、煩悩絶滅の行も不必要なのであります。ましてや自己が罪悪の塊りであるかのような念想は以っての外であるとして排斥しております。それどころか、却って自己は宇宙生命、つまり大愛心、別言すれば神から流現したものなのだと観じております。心を慈悲に満たし、慈悲への行いを徹した生活を営めば、それが菩薩の行いであり、また常楽我浄の境地なのであって、幸福は招かなくともやって来ると説いております。
従って師においては、根本罪悪観のような、また根本無明のような考え方は一つの大きな誤謬であると指摘しております。人が普遍愛から出ていながら、幽体とか肉体とかに包まれているために個性観に囚われ、また個性を護ることに専念してしまいます。そして「我」とか「他」とか、また「彼」とか「此」とかの差別観念がともすれば勝ちすぎてしまい、ついには他を犠牲にしても自己を有利にしようとする、所謂罪悪となって現われるのであります。
若し神を知り、また神の大愛を覚り、自他共にこの大愛心の同じ根本から出てきたのだというところに気がつけばそんな罪悪も消散して了うものであります。結局向上してゆく途中の一現象に過ぎないのであって、無明というのも同じことであり、根源的な存在なのではないと説くのであります。ですから、師の教えには、キリスト教や仏教が持っているような根本的な難点は存在しないのであります。
(自観叢書七 昭和二十四年十月二十五日)