仏教は有神論のようでもありますし、無神論のようにも思われます。また汎神論のようでもありますし、多神論のようにも見えます。諸経が説くところは極めて多岐でありまして、いずれに付いてよいのやら、迷わざるを得ないのであります。
けれども、キリスト教が説くような意味での創造の神であるとか、生類の運命を支配する主宰神としての神であるとか、また生類の善悪を審判する司法神としての神などを仏教が認めていないことは明瞭でありまして、この点ではキリスト教とくっきり異った一線を引くことが出来ると思います。「諸法無我」というのは仏教全体に通ずる確固として抜くことのできない思想であります。従来屡々キリスト教及び仏教両者の論戦が行われましたことは周知の事実でありますが、何れも根本的な異同を以上の点においてお互に論難を交えておるように見受けられるのであります。
高楠順次郎博士によりますと、仏教においては、人間は神の創造によるのではなくて、自己の意志から生ずる業力不滅の力によって自己を造り、他と共同に世界を造ったのだとされます。人間の運命も神によって主宰されるのではなくて、自己主宰であって、所謂自業自得なのだとされるのであります。また苦因善果、悪因悪果という因果応報の理は全く自然法なのであって、神の裁きによるものではないとされております。
仏といっても結局それは人格が向上した結果であって、声聞、縁覚阿羅漢、そして菩薩などと次第に向上して遂に到達した人格の位なので、人間の向上以外に仏という別個の存在は認めていないと見るようであります。
更に同博士は、仏教においては、理と智とは全くの別物であって、これを人類活動の両方面としておるのだと見ると言っております。自然界には自然の理法が具わっていて、我々はその理に制せられて活動させられておる。そして理の世界では人間も動物の一部類なのでありまして、決して万物の霊長でもなんでもない。しかし乍ら、我々は他方智の世界で活動しております。智は個性界の中心であって智の世界も自然の理法を離れて活動できるものではありません。
けれども智の世界においては特に我々は自由をもっております。我々は理の世界においては、時間とか空間とか因果律の制限を離れられるものではありません。けれども智の世界に於いてはこれを超越して、自由に思索し、また瞑想することが出来ます。人間はこの思想なり、観念なりによって自然界の不自由を自由へと転換することが出来ます。ここに人間が万物の霊長となる資格があると説いております。
我々の智を鏡として、理をその中に映写し、植物を写せば植物学者となり、天文を写すと天文学者となり、人生の理を写せば人生観となり、宇宙の理を写すと宇宙観となるなど、あらゆる理の世界を悉く智の世界に取り入れて、理の世界と智の世界とが同一のものとなる。これを理智冥合ともまた理智不二とも言うのであります。
この地位に達したものを仏位とし、また自覚者と称えるのであります。これが向上門の究極でありまして、人間の智活動の極位なのであります。智がこの地位に達しますと、その後は向下門に入り、自らの智活動を以って他の智活動を促進させようとする慈悲の活動となります。つまり情意活動の圏内に入るのであります。これが覚他でありまして、覚他を伴わなければ、本当の自覚とは言えないと言うのであります。
井上哲次郎博士も大体において高楠博士の所論を肯定し、その上に無我主義と、無霊魂主義とを加えるべきだと主張しております。
「法」についても、いろいろの意義がありますが、実在とか原理とかいう意味があります。大乗仏教の哲学では、所謂実相だの法性だの、仏性だの、真如だの、一如だの、さては如如だのと言われておりますが、皆原理としての「法」を意味するものなのであります。高楠博士は原理ということは「媒」なのであるが、哲学上では、こういうものを原理と言うのだと申しております。
原理としての「法」は、永遠無窮のものでありまして、時間、空間を超越しております。釈迦は之を体現して仏となったのであります。過去仏でも、未来仏でも、またどんな仏でも、苟も仏である以上は、必ずこの原理としての「法」を体現したものでなければならないとします。
現象人(ホモ・フェノメノン)としては違っていても、実在人(ホモ・ヌーメノン)としては一体だとみねばなりません。実在人としての仏陀は、我々凡夫の中にもあります。つまり内に見出すところの原理としての「法」なのであります。
儒教において、孔子が聖人となったのは、道を体現したからでありました。神道の祭神は惟神の道を実行された方々と見てよいでありましょう。これ等は哲学上から観ますと仏陀が仏陀となったのと同じ訳であると言っております。
井上博士の所説は高楠博士の所説に較べて積極的ではありますが、所謂「原理」なるものについての説明が未だ不十分な憾みがあります。そしてしかも、前にも述べましたように仏教の思想は至って複雑多岐であるために、定義づけることは容易な業ではありません。
本尊論においても、釈迦を本尊とするもの、阿弥陀を本尊とするもの、大日如来を本尊とするものなど、極めて多様であります。また従来龍谷及び大谷の諸大学、それから浄土宗及び真宗に跨って、頻りに異安心問題についての葛藤があるなどのように全く悩みはたえないのであります。なかには正信偈の「不可思議如来」を恰もキリスト教が説いている神と同一のように説明しようとするものさえあるのであります。
要するに、原始仏教は、崇拝の対象物を認めなかったのでありますから、無神論の立場に立っておったようであります。つまり釈迦は成道後に、弟子達に「吾よく因果相続して、流転輪廻する業界より解脱して仏果を得たり、汝等もかくの如くなさば仏果を得べし」と説かれました。そのように、理智的な自力修行に依って仏果を得る道を教えたのであります。
ところが弟子達は、その教えに従って仏果を得ようとしてみましたけれども、結局実行の困難なことが判りました。そして次第次第に如来に帰依して、その引導によって仏果を得ようとする傾向が強くなったのであります。そして遂に人間釈迦への信頼が転じて、人間釈迦は過去本仏の転身であると考えるようになったのであります。
ここに本仏の信仰が生じたわけでありまして、この本仏が阿弥陀仏でもあったし、また大日如来ともなったと思われるのであります。そして阿弥陀の信仰によって他力信仰が発達し、それが浄土宗、就中真宗となるに及んで完成したのだと見るべきでありましょう。つまり、哲学的な自力的仏教が、他力的仏教へと転換したと見てよいのであります。
言い換えますと、智を第一として、解脱も智によって達せられるのだと教えた仏教も、やがては真如が如来となり、仏陀となり、また阿弥陀の信仰となり、遂には慈悲心の昂揚となったのであります。そしてこの慈悲心の具現は観世音菩薩となるに及んでその極致に達したわけであります。
数多い仏菩薩の中でも、この観世音菩薩ほど一般から慕われ、敬まわれ、また信仰されておるものはありません。我国においても、仏教各宗各派を通じて、此の菩薩だけは距てなく信仰されておりますし、また仏教徒ではない人達からも盛んに信仰されておるのであります。
仏教が広く東洋人の間に伝播し、人心に滲透して、東洋思想となり、東洋文化を形成するに至ったのも、この大慈悲心に基づくところが極めて大きいのであります。
故前田慧雲博士は、仏教を二大別して哲学と宗教とし、浄土宗以外の各宗は宗教ではないと言っておられます。これは、仏教が智的なものより情的なものに転換したことを意味しており、他力救済、つまり大慈悲心のない哲学的な思索では宗教にならないと主張されたものと解釈できると思います。
博士の所論の当っているか、いないかは別としまして、ともかく仏教信徒の大多数が仏陀の慈悲心を愛慕し、また潟仰して信仰を傾けていることは争う余地のない事実であります。
いずれにせよ、仏教が東洋文化に寄与したことがどんなに大きいものであるかは今更申す必要もないわけで、若しも東洋に仏教の興隆がなかったと仮定したら、東洋思想も東洋文化も共に今日の壮観な様相を呈することは到底望むことができないでありましょう。これは誰にも異存のないことだと信じます。
(自観叢書七 昭和二十四年十月二十五日)