今日、如何なる人と雖も、西洋医学を以て科学である事を信じない者はないであらう。然し私は、西洋医学は科学とは思へないのである。本来、自然科学とは、あるが儘の自然の実体を掘り下げて、その法則を知る事である。そうしてそれによって文化の進歩向上に役立たせる事である。従而、真に自然の法則を把握するに於ては一定の規準なるものが生れる筈である。然し乍らそれは人間以外のものであって、例へば動植物は固より凡有(アラユ)る無機質類に至るまで、科学する事によってその本質を把握し、法則を、基準を知る事を得るのである。
右の如く科学は、人間以外のすべてに対して神秘を暴き、福利を増進せしめ得るので、この功績に幻惑し、人間をもそれと同一であると思惟し、科学し続けてゐるのであるが、その事自体が一大誤謬である事を私は発見したのである。私の言はんとする所は其点であって、人間なるものは一切とは別の存在で、他の一切の範疇(ハンチュウ)には入らない事である。即ち人間は現代科学では絶対解決出来得ないといふ事を先づ知る事が人間を科学する法則の第一歩である。そうして、人間以外の一切を科学する方法が悉く機械によってゐる。科学と器械とは分離出来得ない事実である。従而、人間の生命をも機械によって解決しようと企図したのが西洋医学の根本理念であった。
右の意味を端的にいへば、本来唯心的である人間に対し、唯物的に解決しようとする-それが根本的誤謬である。何となれば唯心的である人間に対しては唯心的に解決すべきでそれが真の科学的法則である。勿論人間は肉体を有ってはゐるが、その肉体と雖も、人間に於ては唯心的に解決され得るので、それが根本原則である。そうして唯心とは精霊であり、唯物とは肉体であるが、その関係は別に詳細説くつもりである。之によって、真の意味に於ける人間科学を知り得るであらう。勿論、非人間科学と人間科学との隔たりが如何に大きいかといふ事も知り得るであらう。之を識るに於て、現在の唯物的科学を以て人間に対する時、それは非科学的になる事である。
以上の意味によってモルモットや廿日鼠を如何程研究して人間に応用しようとしても、それは意味をなさないのである。又第一人間と他の動物とを比較してみるがいい。その思想感情や、その形体動作、体質、食餌、生活等あらゆる点に於て人間との異ひさの余りにも大きい事である。彼は足が四本あって尾があり直立して歩けない。全身の厚皮、硬毛は勿論、言語も嗅覚も聴覚もすべての異ひさは之以上書く必要はあるまい。その位異ふ動物を研究したとて、人間に当嵌まる訳はないのである。故に一言にしていへば、形而下的理論と方法を以て、形而上の問題を解決しようとしてゐるのが、現在迄の医学である。
此意味に於て、医学上進歩したと思惟し、発見し得たと喜ぶ凡ゆる方法は、実は真の解決ではなく、一時的非科学的解決でしかないのである。而もその一時的解決と其方法が、反って、その方法施行以前よりも悪結果を及ぼすといふ事に想ひ到らない-その短見である。故に、医学は進歩したといふに拘はらず実際に於て、病気が治らない。病人が増える体位が低下する。結核の蔓延、人口の逓減等々の逆効果の顕著なるのは、やむを得ない事であらう。以上は全く、私の言ふ。非科学的医学の進歩による逆効果に外ならないのである。
そうして、現代人の中にも、西洋医学の余りにも無力であるのに対し、漢方医学や鍼灸(シンキュウ)や民間療法に趨る者が、日に月に増えつつあるのは周知の事実である。又、医学専門家の中にも、漢方医学を研究したり、灸点を応用してゐるといふ話も往々耳にする処である。然し乍ら一般人としては、西洋医学の無力と不合理を疑ひつつも、誤謬の一部をさへ窺知し得ないが為、それに生命を委するより外、途がないといふのが、現在の社会状態である。彼のロックフェラー研究所の碩学(セキガク)アレキシス・カレルのノーベル賞を貰った名著「人間と未知なるもの」の要旨を一言にしていへば、現代科学は「人間に就ては何も知らない」-といふことである。
次に私は、種々の例を挙げてみよう。
茲に、医家の子女が病気に罹ったとする。然るに、不思議な事には、大抵は父である医家が診療しないで、友人等の他の医師に依頼するのである。常識で考えても大切なわが子女の病気を、自分の手にかけないで、他人の手に委せるといふ事は、全く自己の医術に自己が、信頼出来得ないからであらう。実験上、自分が診療するよりも、他人に委した方が、より結果が好いからである。然らば、これは如何なる訳であらうか。医家としても、恐らくこの説明は出来得ないであらう。それに対し私は斯う思ふのである。医学は、浄化停止であるから、医療を加へるほど病気は悪化する。わが子女である以上、熱心と、能ふかぎりの療法を行ふ。勿論、薬剤も高級薬を選ぶであらう(高級薬ほど、薬毒が強烈である。)から、結果はわるいに定ってゐる。然るに、他人に於ては、普通の療法を行ふから悪化の程度が少い。それで、治癒率が良いのである。又、医家に於て、斯ういふ経験が良くあると聞いてゐる。それは、是非治したいと思ふ患者ほど治り難く、それほど関心をもたない患者は、反って治りが好いといふことである。これ等も、前者と同様の理に由る事は勿論である。
又、少し難病になると、医家の診断が区々(マチマチ)である。一人の患者に対し、五人の医家が診断するに於て、おそらく五人とも診断が異るであらう。これ等も、科学的基準がないからである。故に、私は、医学は機械的ではあるが、科学的ではないと言ふのである。
そうして、西洋医学の診断及び療法が、如何に無力であるかを、最近の例を以て示してみよう。それは、先頃物故した、帝大名誉教授長与又郎博士である。同博士は、癌研究に於ては、実に世界的権威者とされてゐる。それで、同博士は以前から“自分は癌で斃れる”と言はれてゐたそうであるが、果せるかな、死因は癌病であったのである。発病するや、各名国手も、博士自身も、疾患は肺臓癌と診たのであった。然るに、死後解剖の結果、癌の本源は腸に在って、それが、肺臓内へ移行したとのことであるから、此の腸癌は、生前発見されなかったのである。この事実によって、私は冷静に検討してみる時、斯ういふ結論になると思ふ。
一、長与博士程の大家が、自身の癌発生を防止し得なかった事。
二、又、自身腸癌の存在が、明確に知るを得なかった事。
三、各国手が診察しても、腸癌の発見が出来得なかった事。
四、博士自身は固より、各国手が如何に協力しても治癒し得なかった事。
右に対し、私は多くをいふ必要はないと思ふ。唯だ、現代医学の価値を、事実が證明したと思ふのである。
次に、数年前物故した有名な入沢達吉博士の死因は盲腸炎といふ事である。其際各地から恩師の重態を聞いて集った博士は百二拾数名の多きを算したといふ事である。斯様な多数の博士が頭脳を搾り、大国手自身に於ても無論苦心されたと思ふがそれにも関はらず治癒し易い盲腸炎の如き病気が治癒し得なかったといふ事は情ないと私は思ふのである。其時同博士は、次の如き和歌を一首詠んだといふ事である。
「効かずとはおもえどこれも義理なれば人に服ませし薬われのむ」
そうして医家が診断に臨んで、過去に於ける関聯的事項として、父母の死因や兄弟姉妹の死因又は病気の有無、患者自身の病歴等、実に微に入り細に渉って訊問しそれ等を参考として診断を下すのである。勿論、慎重を期するといふ理由からであらうが、実は患者の身体だけの診査のみでは、適確なる診断を下せない結果、やむを得ず右のやうな手段を採らざるを得ないのであらう。然乍ら、私は思ふのである。本当に進歩した医学とすれば患者現在の肉体を診査しただけで、病原は明確に判明しなければならない筈である。然し乍ら、その様に簡単にして速かなる診断は可能でありやと言ふであらうが、私はその可能である事を明言するのである。何となれば、私が治療に従事してゐた時、そうであったからである。
又、真の医術とはその療法が聊かも患者に苦痛を与へない事である。寧ろ治療の場合快感を伴ふ程でなくてはならない-と私は思ふのである。そうして治癒迄の期間が速かなる事を条件とし、治癒後に於て何年経るも絶対に再発しない事の保證が出来なければならないのである。そればかりではない。予後の健康法を教へ、それによって患者は、発病以前よりも健康を増し、再び医師の厄介にならないやうにならなくてはならないのである。斯様な理想否空想とも思はれる医術が果して生れるであらうか。といふ疑は何人も起るであらう。がそれは已(スデ)に生れてゐるのである。
然るに、西洋医学の現在を見るがいい。その余りにも非文化的ではないか。にも関はらず、その非文化的である程、反って文化的と思惟する現代人の錯覚と迷蒙は憐れむべきものがある。見よ、一寸した病気に対してさへ肉を切り、血液を消耗させ、痛苦を与へ、不快に悩まし、而もそれ等に対し、手術料の名の下に、驚くべき高価な料金を費やさしめ而も治癒迄に長時日を要し、再発の憂を無くするには、身体の一部を毀損(キソン)しなければならないのである。之等の現実に対し、医学は進歩したといふが、それは全く、真の医術なるものを知らないからである。
今や、此地上には、病気滅消の時が来たのである。私は徒(イタズ)らに大言壮語するのではない。真の狂人に非ざる限り、確実なる論拠と実證とを把握し得ないで、斯の如き言を吐けるであらうか。之を譬へていふならば、既成医学は鷄卵である。已に内部にある雛は、時来って小さな嘴(クチバシ)を以て、殻を破らんとしてゐるのである。今や人類にとって真に役立つ所のいきた雛が呱々(ココ)の声を挙げんとしてゐる。それを私は、一日も速く、我同胞に知らしめたいのである。
(明日の医術 第一篇 昭和十七年九月二十八日)