政府は西洋医学と民間療法との比較実験を、行って可なり 「附録」

近時西洋医学の治病能力が、余りにも薄弱であるが故に、患者は止むを得ず、他の種々の療法を求めんと焦慮する事は、寔に無理からぬのである。或者は灸治に、指圧に、或者は類似宗教に何々療法に趨るのであるが、それは実に、西洋医学よりも、何々療法の方が治癒する場合が、相当あるからである。何となれば、夫等に趨らふと心を動かす訳は殆んどが、其療法又は、其宗教によって治癒された体験者の、勧めに因るからである。そうして夫等へ赴く患者は、散々、凡ゆる医療を尽した者のみであるに関はらず、其拗れた病気が、往々治癒されるからである。此事実は、医療よりも、夫等療法の方にも、治病能力が、多分にあるといふ実證になるので、之は、如何ともし難い事であらふ。然るにも係はらず、社会一般人は、類似宗教の治病は、インチキと言ひ、民間療法は、危険と言ふのである。

今日の療病に対する法規は、西洋医学を唯一のものとして造られたる、明治時代のものである。其頃は、西洋崇拝の極、無差別的に西洋文化を採り入れたのであるから、致し方はないが、最早、今日の時代に適合しないのは当然であらふ。西洋医学を採り入れてから今日に到る迄の、長年月の実験の成果は、どうであるであらう乎。成程、黴菌による予防医学には、多少の貢献はあったと言へ、全般としての治病医学に於ては実績の上らない事、寔に情ない事実である。

それ等、実際に盲目である一般世人、殊にインテリ級の人々は、西洋医学を、絶対無二のものと思ひ込んで了って、西洋医学以上に、治るべきものは、他にあるべき筈がないと決めて了ってゐる事である。実に、科学に対しての、恐ろしい我執は、故意に眼見を狭くして、幸福を抛棄するやうなものである。西洋医学以上に、治病能力の優れたものゝ発生に、眼を蔽ふてゐるのである。西洋医学でさえ治らない病が、無数に治ってゆく療法の発生を知らない否信じられないからの事であらう。

然し医家は言ふのである。成程、民間療法も、相当治る事は認めるが、術者が、科学的病理の知識が乏しいから危険であると、主張するのである。然るに、吾々から見る時、西洋医学は、実際を無視して、学理に拘泥し過ぎる為、治るべき病患も、不結果に終る事実を、余りにも多く見せ付けられてゐる関係上、頗る危険と思ふのである。而して当局は、民間療法の取締に、腐心してゐるといふ事である。勿論、取締も必要ではあらふが、真に治病能力の確実なるものは之を助長するこそ、社会政策上、極めて必要な事ではなからう乎。

時代は、進歩して止まないものであるから数十年前に信じた、西洋医学のみに、今以て信頼を続けてゐるといふ事は、優れたる療法の発生を、知らないが故であるから、一日も早く、民間の凡ゆる治療法を、調査検討すると共に、幾多類似宗教の治病実績をも、併せて調査する必要があるであらふ。そうして、西洋医学、漢方医術、民間療法、信仰的治療等、厳正なる方針と、親切なる手段とを以て比較検討すべきである。そうして、真に効果ある療法を、発見し得たならば、それを援助すると共に、急速に社会的に、発表実施すべきであらふ。其結果として、西洋医学へ対しても又無効果なる療法も、インチキ分子のある宗教等も、公平なる、新しい規則を作って、取締る必要があるであらふ。要するに今までよりも、より、自由広義な意味に於て国民保健と衛生に対しての新しい解釈と、施設を建つる事こそ、時代を解するものと言ふべきである。

(明日の医術 昭和十一年五月十五日)