科学で病気は防げる乎

現代医学とは、一言にして、之を言えば、凡ゆる疾患を、科学で治さうと、否、科学のみで治るものと信じて、熱心に、研究を続けてゐる学問である。そうして、其事を一般社会へ信じさせやうと、熱心に、努力しつゝあるものである。故に、一般世人は、科学的療法に依らなければ、病気は治らないものであると、決めて了ってゐる。其結果、仮令、病気は、予期の如く治らなくとも、科学的なるが故に、安心だと言ふのである。それが今日は、社会的常識とさえなって了って、何等それへ対して、疑問を挿まないまでに、なって了った事である。そうして又、海外諸国もそうであるから、猶更、安心し切って了ってゐるのも、無理はないのである。

現在医学を進歩させようとして、研究しつつある。其方法と、言へば、黴菌学と、試験管と、動物試験が、その重なるものである。そうして、黴菌を発見したと言ふ事は、病原を発見し得たとしてゐるのである。それ故、病原が不明といふ事は、其黴菌を、発見し得ないといふ事である。であるから、黴菌を発見し得ないのは、其黴菌が、余りに微小であるが為に、現在の顕微鏡では、視野に入らないからであるとなし、夫等の黴菌を名付けて濾過性黴菌と言ってゐる。

それ故に、先づ、其黴菌を発見すれば、病原を発見し得たとして、今度は、其黴菌を殺滅する方法を、研究するのである。それは、人体に無害にして、病菌を殺さうとする、薬剤や、光線や、器械力を発見しようとする。そうして、それを発見するや、其実験をモルモットや廿日鼠などに試み、其結果に由って、今度は、人体へ実験するのであるが、其成績の統計が、良好であれば初めて、一般的に施行するのである。然し、実は、此統計程不正確なものは無いのである。否、正確な統計を作る事が、非常に困難なのである。それは、其統計は、割合、短期間の成績を、基準とするが故に、一時は奏効せるが如きも年月の経過と共に、反動的に悪化する場合が、多いのである。其点非常に、不正確で、完全とは謂ひ得ないやうである。

現代医学は、大体として、右の順序なのであるから、病気に侵されないのは、病菌に侵されない事になるのであって、随而、病菌の予防さえ出来れば、健康は保てるものと、なってゐるのである。

黴菌侵犯さへ、予防出来れば、病気に罹らないと、仮に、保證し得たとして、果して絶対に、黴菌の侵犯を予防し得るであらうか、之が実に問題である。恐らく之程不可能な事はないであらう。絶対に、黴菌に侵されまいとするには、先づ、人間の来訪不可能な山奥に、一軒家を建てゝ住むより外に、方法は無いであらう、現在、此社会に呼吸しつゝ、電車汽車に乗り、劇場へ行き、日々貨幣を手に触れ、濁った空気を吸ひ、人と接触し、人と談話する、之等の動作は悉く、黴菌侵入に無関係であり得ないのである。是に於てか、現代人は、如何程黴菌侵入を予防せんとするも、或程度以上は、絶対不可能である。今日食事の前に手を洗ふとか、外出して帰宅後、直に含嗽するなどは、全く末梢的である。故に、真の健康法としては、凡ゆる病菌が絶えず侵入するものであると仮定し、それにも係はらず、感染も発病もしないといふ方法があれば、それこそ、真の衛生学であり、理想的健康法である。

然らば、病菌が侵入しても、感染も発病もしないといふ、其完全なる方法とは、如何なるものであるか、それを、之から、説明してみよう。それは、黴菌が皮膚面又は、粘膜から侵入した場合、先づ、血液を侵すのであるから、血液に殺菌力さへあれば、必ず防げるのである。感染するといふ事は、病菌に、血液の方が敗北するからである。然らば、殺菌血液とは、如何なるものであるかと言ふに、それは、濁らない浄血である。浄血程殺菌力が強いのである。此事は、西洋医学の説明も誤ってはゐないのである。

故に、浄血保有者こそ、一切の病菌に抗し得て、完全健康者なのであるから、血液を浄化する方法、之より外にはないのである。此事さへが可能であれば、問題は解決するのである。然らば科学によって、血液を浄化し得るやと言ふに、それは到底不可能である、ラヂュウムでも、レントゲンでも、凡ゆる注射服薬でも、それは、不可能である事は、医家も知悉(チシツ)して居るであらう。

然るに、本療法によれば、血液は一回毎に浄化してゆくのである。それは例外なく受療者の血色が驚く程迅速に良くなってゆく事である。又我健康法によれば、漸次、病気に罹らなくなるといふ、大事実が、之を證明して、余りあるのである。

之を要するに、科学での絶対健康法は未解決であるといふ事であって、世人は先づ、此事を、認識しなければならないのである。

(明日の医術 昭和十一年五月十五日)