科学の使命

人間が、科学の力に依って、機械の進歩は言はずもがな、有生物である植物の種子を改良したり、科学的肥料を与えて、増大又は増産させたり、花の色を思う儘、変化させたり果実を大きく生らせたりする事は、驚くべき進歩である。又、動物や家畜を改良したり、鶏に卵を多く産ませたり、最近は、牛や馬の精虫を、飛行機で輸送して、受胎させるといふ、驚くべき報告さへあるのである。其他、小禽や金魚等迄も、欲する儘に改変出来る程に、進歩した事である。それは人間を、形而上の存在とすれば、それ等凡ゆるものは形而下のものであるから、人間の意思の儘に出来得るのは、当然な事である、森羅万象に対する自然法則は、そうなってゐるからである。

それであればこそ、人間が、人間を自由にする事は、出来得ないのである。それは同じレベルの存在である人間同志だからであって、若し、人間を自由にするものがあるとすれば、それは人間ではない、人間以上の或物であって、超人間、又は、神と名付くべきものである。

此理に由って、科学は人間が造ったのであるから、同じレベルの存在である人間を自由にする事は、法則が許さないのである。随而、其科学から成立った処の医学で、人間の病患を治癒し、健康を増進させようとしてもそれは、自然法則に反する訳である。

此事に現代人は、目覚めなければならない、今日の社会に於て、此自然法則に背反する事物も多くあるが、其中で、医学は、其最たるものである。故に、人間の病患を治する其力こそは、人間以上の或者でなくてはならない事は、寔に自明な理である。恰度、動物や植物を、自由にする力は、動植物自身には無い、それは、動植物以上の存在である、人間が有ってゐるのみである。又、言ひ換へれば、人間と同じレベルの科学で、人間を治さうとするのは、下剋上でもあり、共産主義的でもあらう事である。共産主義を作った猶太人が、医学を作ったといふ事は、面白い事である。

人間の病気を治すべきものは、人間以上の或存在であるとすれば、それは、神である。故に科学は僣上にも、その神のみが有ち給ふ、治病権を犯してゐるのである。それの現はれとしての西洋医学は、人間をして、神に対する様に、拝跪さしてゐる。

猶太人の生んだ共産主義は、絶対に神を否定してゐる。そうしてをいて一方、科学を神の王座にまで登らせて、人間に拝跪させようとしてゐる。そればかりではない、科学は、其産物である医学を以て、終に人間の生命をさへ、自由にして了った事で、世界中の大部分の人間は、此医学の掌中に、握られて了ったのである。人間の生命は、元々創造神の御手のものであって、決して科学の手中に、あるべきものではない。それが、今日はどうであらう、人間の生命の所有主である-神の手から、科学は、奪取して了って、思ふが儘に自由にしてゐる。日本人の平均寿齢、四十余歳迄に、短縮されて了ってゐても、尚未だ眼覚めないばかりか、益々崇信してゐる事である。

矢張り、科学は科学としての、自らなる使命がある。それは人間より以下の存在への進歩発達、それが、真の使命である。故に、私達の運動は、立入るべからざる処へ立入って、自然法則を破って、軌を脱してゐる科学を科学本来の使命へ戻してやる事である、つまり科学に奪取されてゐる、人間の生命と霊魂を、再び、本来の所有主である神へ、返還さす事である。それに依って初めて、人類の生命は延長し、病無き時代が来るのである。其具体化としての事業が、本療病術であり、之が吾等の、天よりの使命である。

(明日の医術 昭和十一年五月十五日)