病原の解釈

「病気の本体」といふと『病気の原因と病気現象一切』をひっくるめていふのですが、それに就て、今日行はれてゐる種々の解釈を述べてみませう。

先づ西洋医学の方では、大体『細胞の衰弱説」であります。

何故、細胞が衰弱するか-といふと-人間の不摂生や環境、遺伝等によるものとなってをり、細胞の衰弱した際病気が侵犯するといふことになっております。

又「細胞衰弱の原因」として、不純な空気、営養不良や運動不足、食事の不規則とか、睡眠不足なども-原因に数へております。

不純血液、つまり「先天性黴毒」も原因に数へられてゐますが、之は、吾々の方でいふ-『水膿』の事である-と思ふのであります。

独逸の何とかいふ学者は-「あらゆる病原は尿酸だ」といっております。つまり「尿毒が身体中へ廻ってゆく。その為に病が起る』といふのですが、之は、一部的には確かにそうであるが、全部の病気がそうだとは思へませんが、実際からいって「尿毒」が原因になる場合は、非常に多いのであります。

之は、どういふ訳かといふと-腎臓の周囲に水膿が溜結する、それが腎臓を圧迫するから、腎臓が尿全部を処分し切れず、其ため『一種の余剰毒素』が血管を通じて身体中へ廻り『各種の病原』となるのであります。

リョウマチス、肩の凝り、喘息、腹膜炎、腰痛等の原因ともなるのであります。 医学の説の中に或種の病原として『大便秘結の為、自家中毒を起す』といふのですが、之は首肯出来ない。

何となれば、実験上、何程秘結しても、害が現はれた事を見ないのである。

以前、私が扱った胃癌の患者で、二十八日間便通が無かったが、何の異常もなく、胃癌は全治して、今日頗る健康で、業務に活動してゐるのであります。

漢方医学の方では、確たる理論構成はなく大体『不摂生の結果、五臓六腑の調和が破れる』又は-『気候不順等の為に“邪気”を受ける』-といふやうであります。

宗教方面では、病気の原因として、仏教などでは-『四大調和の破綻』又は『祖先の悪因縁』又は『仏罰』など謂ひますが、実際、今日の仏教者は、病気に対しては、甚だ無関心であるのが大部分であるやうです。「仏力では、病気は治らない」-としてゐる。従而「病気に罹れば医療に頼れ」-といふ事になってゐる。「病気や不幸や死」は如何ともなし難いものであるから、それに超越せよ、ただ諦めよ、それが「真の覚り」である、といふやうに説いて、之が「正しい宗教の見方」としてゐるやうであります。

神道の方では、多く『罪穢』といふ事になっております。

「人の道」などでは「病気は神の御示らせ」といひ、人間の行為に間違った事がある時は、病気によって神が示らすのであるから、よく省みてそれを発見し改めれば治る-といふのであります。

「生長の家」などでは「念の作用」-といっております。それは「病気になりはしないか。なりはしないか」-といふ念が一つの病気を作る。それ故に「病気はない」-と思へば、その「念力」で治る-といふのであります。

処が、いくら「病気はない」と思っても治らない-といふ人の話を常に聞かされるのであります。之は、一時的自己錯覚療法であります。

注意しなくてはならぬのは、天理教の所説であります。

同教の説く所によれば「病気の原因は、人間が財物を貯めてゐるからである。本来此世一切の物質は、神の所有であるのに、それを人間が所有してゐる。それが罪であるから、之を悉く神様へ返還すれば治る」-といふのであります。

然し、実際神様へ差上げても治らない場合が、往々あるのですが、相手が神様であるから掛合ふ事も出来ず、結局泣寝入りに終る事をよく聞くのであります。

然しながら、財物を作る事が罪になるなら、今日の資本主義とは逆である。国民の財物を悉く神様へ還したならば、資本の蓄積は零となるから、大きい産業は興し得ない事になり、満洲の開発なども不可能となり、茲に産業は萎靡し、国力は疲弊する事になるので『亡国的教義』であると思ふのであります。

日蓮宗や其他の行者などは「病気は憑霊の業だ」-といひます。それ故「その憑霊」を退散又は得度させよふとして、数珠で殴ったり、種々な物で叩いたり、蹴ったりして、憑物を出そうとする。然し、憑霊は霊ですから、肉体とは関係はないので、どんなに肉体を苦しめても霊は感じないから、肉体こそいい迷惑であります。

そうして慥かに憑物の場合もありますが、そうでない場合もあるのに、何でも彼でも憑霊と因縁に決めてしもうのであります。

よく「祖先の霊」が憑いて病気にする-といふが、祖先ともあらふものが、子孫に憑いて病気にしたり苦しめるのは変である。

子孫を愛すべきであり、守るべき筈であるといふ苦情を聞きますが、無理もない筈であります。然し、之は、絶対ではないので、祖霊の或者が、何かの目的を達しよふとして、憑る場合がありますが、それ等は稀であります。

基督教など、病気に対しては案外無関心であり、中には『神の試練だ』ともいひます。

神の試しならば、病気などで苦しめなくとも外に良い方法がありそうなものだ-といふ人があります。

又聖書には「鬼が憑いてゐるのを、イエスが追出した」-といふ事がありますが、此時代既に「憑霊現象」を認めた事が判ります。

処が、此「憑霊を追出して治す」といふ事は、一時的であります。何故なれば一旦それを追出しても、そのままでは又他へ憑くから、誰かが亦同じ様に病気になる訳であります。

本当の救ひは、悪霊を善霊にするのでなくてはならないのであります。
変ったのになると『脂肪説』といふのがあります。

『病気は全部脂肪の塊である』-といふ、此説は、民間療法の大家の説で、今日も依然として、刊行物等で宣伝しております。此脂肪説は、水膿溜結の事らしいのであります。

私の知る限りに於ての今日迄世の中で行はれてゐる種々の病原説は以上の如くであります。

処が、吾々の方では、再三述べた通り、病気とは「健康保持上、欠くべからざる浄化作用」といふのであります。之は全く“前人未発の説”と思ひます。従而今日迄は“人生病気程恐るべきものはない”-と思っておった処、吾々の方では「病気ほど結構なものはない」ので、之あるが為、健康は保たれてゆく。故に「大抵の病気は、何の手当もせず、自然に放置しておけば治る」-といふ-世に謂ふ“自然療法論”であります。

罹病するや、世人は出来るだけの治療法を行ふが、それが「逆効果」となって浄化を停滞させたり、病気を押込めたりする事になる-それを誰も知らなかったのであります。

然らば、病気は何故浄化作用であるか-それは逐次説明する事に致します。

(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)