御 垂 示 録 (第二十号)

五月一日

今日は何も話を用意して来なかったので、すぐに質問してよいです。それによって話も出てくるでしょう。

「今度の結核の御本を一般人、医学関係者に読んでもらい、忌憚のない批評を聞いておりますが、こういう質問がございました。あの御本や又他の御神書によって、病気の原因が薬毒であり魂の曇りである、それは体的に言えば血が濁っている、血というのは霊の物質化したものだ。又霊の曇りは不純水素である、それで仮りに浄霊すると不純分が浄化されて、その残渣が体外に出る、それが漿液の中にはいるという事はあるが、その血液と漿液の関係、何故漿液の中にはいるかという事は、外に御説明がないが、どう考えるか、という質問がありました」 

あれは説明の仕方がまだ半分なのです。あんまり細(コマ)かくなってややこしくなるから、あのくらいでよいと思ったのです。血液と漿液は半分々々なのです。それで血液の不純分子が漿液の中にはいると、それは膿になるのです。赤と白がありますが、血液の中の不純分子は赤です。その不純分子がだんだん時がたつに従って変化して膿になるのです。それが漿液の中にはいるのです。ですから血液の不純分子をとると、漿液の中にはいって膿となるべき物をそれで済んでしまうという事になります。あれは書き足りなかったわけです。血膿と言いますが、血と膿が両方混じっているのです。血液と漿液と両方ですが、漿液の方は膿です。血液の方は赤い不純分子で、漿液の方は白いのです。それは共通しているのです。血液の不純分子は白に変化して漿液の中にはいっているのです。そこまで書かなくても、あれでよいと思ったのです。

「漿液と不純分子の関係はどういうようになりましょうか」

漿液は水です。それで漿液と血液は密着しているものです。血液でも水分ですから液体ですから、血液の液体の分だけが漿液になるのです。だから医学の方で白血球が増えるという事を言いますが、あれは血液の不純分子が変化して膿になったのです。膿というのは白いのです。ですからこの間の、子供の白血球が多いという病気はそういうわけです。そうしてそれが又固まりますから、白い物が固まった物が本当の毒素になるわけです。切って膿が出るというものです。ところが固まらないで、白いままで相当濃厚なのがありますが、それは白血球過多症というのです。つまり変化という事を、医学の方ではまだ頭にはいってないのです。だからこう(御浄霊)やっているうちにも僅かずつは不純分子という物は白血球になりつつあるわけです。ちょうど人間の白髪(シラガ)と同じようなもので、年限がたつうちに赤いのが白くなるというわけです。

「そう致しますと、御浄霊によって純粋の物が血液に混入するというのは、御浄霊で浄くなるという説明で宜しいわけでございますか」

それでよいです。私は試した事がありますが、中耳炎のなおりかけで、穴があいて中の方から膿が出て、毎日浄霊しているうちに薄くなって、しまいには水晶の水のようになったのです。いわゆる白血球がとれてしまって、浄い水になるのです。それで白いというのは、赤い不純分子のものでしょう。

「もう一カ所は“空気は水なり”という御言葉がありますが」

水ばかりではないのです。ただ水の方が多いのです。空気は水が主で霊が従なのです。ところが霊気の方は霊が主で水が従になるのです。

「今の白血球のお話の場合に、原爆にやられると白血球が急激に減少して、白血球のバランスがとれなくなるという原子病というものは、膿が固まってそうなるのでございましょうか」

そうではありません。白血球が原爆の熱によって焼かれるのです。赤い血よりも白い血の方が焼けるのです。

「度合が強いのでございますか」

そうです。白いというのは活力がなくなって薄くなって白くなるのです。そこで木なら、生木よりも枯れた木の方が燃えやすいでしょう。それと同じで、白血球の方が年をとっているわけです。それで燃えやすいから、熱によって先に燃えてしまうのです。

「肉食の害が白血球過多症を起すそうですが、肉の影響があるものでございましょうか」

あります。大体肉というものは、食物としては年をとっているのです。言わば野菜の方が若いのです。というのは野菜の方が土から生えるのですから原始的なものです。それで肉というのは動物から作られるから老廃物に近いのです。ですから白い物が増えるというのは理窟に合ってます。ところで肉食は滋養があるという事は逆になるわけです。これは完成した、年をとったものですから、人間が完成すれば年寄になるのと同じです。赤ん坊は若いものですから、植物がそういう事になります。だから植物を食べていると、一時は栄養が少ないようだが、その方が粗雑なだけにまだ活力を持ってます。そこで体のためにはその方が本当に力が強いわけです。それが真理ですから、この理窟さえ分れば何事でも同じ事なのです。未完成のものがだんだん完成になるという理窟が、何にでも現われてます。そうして老廃して、それが亡びてしまって、それから又新しいものが生まれてくる。そうしてだんだん成育して、それが又老廃する。という工合に、循環して行くわけです。ちょうど冬から春が来て、だんだん夏になって、秋から冬になるというのと同じです。だから赤ん坊と言って、出来立ての方が赤いわけです。そうして年をとるに従って白くなって、白髪になると言うわけです。「⇒結核信仰療法」の本で、今言っただけでも大変なものです。

「説明に困り、まことに不勉強でありまして申し訳ありません」

そこまでは説明できないのが当り前です。なにしろ医学の方では、そこまでどころではなく、ずっと手前の方でウロウロしているのですから。

「ただああいう人達は言葉尻をつかまえて参りますので」

それから細かい事だけを言います。病気の原因は根の方にあるのに、葉の先の方の事を言っているのです。黴菌という事を言いますが、医学では徹底してやっているかというと、徹底してないのです。ですから黴菌というのは宙ぶらりんなのです。ですから黴菌というものに全然無関心でいるか、ずっと徹底的に根本までやるか、そのどっちかならよいのですが、宙ぶらりんなのです。だから医学というのは幼稚なものなのです。私は二十年くらい前に“今の医学というものは子供瞞ましだ”とまで言ったものですが、それは誰にも全然分る人はなかったのです。まあ子供瞞ましです。だから心臓の手術に成功したとか、脳の手術がどうとか言って、大変な新発見したと新聞に出てますが、子供が自分で何かオモチャでもこしらえて、出来たと言って嬉しがっているのと同じだと言うのです。普通なら「⇒結核信仰療法」を見れば、医者の方で何か苦情を言わなければならないのです。それが何とも言って来ないのです。それはまあ子供が大人の事を何だ彼んだ言うようなものですから、何にも言えないのでしょう。

「毒素の解消という項目で、毒素は雲のようなものだ、鱗雲なら結構だが、という所がございますが、鱗雲でも何でも雲はみんな悪いのだと解釈しなければならないだろう、とつっ込んで参りました」

それはこういう解釈をしたらよいです。善でも、善ばかりではいけないので、悪も混じらなければならない。又悪でも、悪ばかりという事はないので、善が混じっているのです。雲でも良い働きをするものがある。ですから絶対の善もなければ絶対の悪もないのです。善の中にも悪があるのです。救世教でいろいろな救いをやっているが、医学の方の間違いを徹底すると、医者の方でメシが食えなくなるのが出る、そうすればそれは悪です。だから全体の雲でもそういう事があるのです。前に人殺しという事で、三宅雪嶺の説を読んだ事がありますが、うまい事を言ってます。“殺人という事もなくてはならないというのです。若しそれがなければ、如何に人を苦しめるか分らない。しかし殺人というものがあるために、人を苦しめるという事が或る程度でくいとめられる”という事を書いてましたが、これは真理です。あんまり酷い事をすると、若しかすると彼は自分を殺しやしないかという事があるから、或る程度で弱まるわけです。ですからそういった殺人というのは善の働きもあるわけです。

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「チフスは高熱にかかわらず脈が低いという原因は何でございましょうか」

それは考えてなかったです。大体医学の方で医者でも言うし、本でも見ましたが、脈というものは心臓の方です。熱は何処からでも出ますが、心臓に近いほど熱が脈に影響するのです。それからもう一つはこういう理窟があるのです。下半身の事は上半身への影響は薄いのです。そのかわり上半身の病気は下半身に強く影響するのです。これは国でも分りますが、首脳者、大臣、政治家という指導階級の人の悪い事は、下の方に非常に大きく影響しますが、下の方の者が何か悪い事をしたり、悪い考えを持っても、部分的に済むものです。ちょうどピラミツドのようなもので、上に行くほど小さくて力が大きくなるのです。そこでチフスは下の方の病気だから心臓に行くのが少なくなるわけです。

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「山本久子(三十五才)大変に不仕合せな人で二回の結婚に破れております。二年前より親類に分らせたいとて茨城県の方に帰っており、毎日十人程度の方を御浄霊させていただいております。二十四才になる弟があり、入信致しておりますが、月給取りとして通っております。先月の十二、三日頃に大変酒を飲んで帰り姉さんと喧嘩をし、大変申し訳ございませんが、御神体を毀つけ、姉さんをヒバシで体中方々を突きさしました。首には致しませんでしたが、以前肋膜をした時の固まりに突きさしたそうです。御浄霊をいただきまして良くさせていただきました。この弟は御守様をいただいてはおりましたが、首にはおかけしていなかったそうでございます。御神体につきましては、御詫びの事が御垂示録に出ておりましたので、そのとおりに勿体なくないようにお焼きして埋めさせていただきました。なお、今後この者は御手伝いをさせていただいて宜しいものでございましょうか」

御神体がなくなったから新しくいただきたい、神様のお手伝いも続いてやれるかというのですか。それは結構です。しかしこういう事はやっぱり原因があるのです。この人は名前がごく悪いから変えた方がよいです。名前はあなたからでも付けて、私が選んで上げますから、係に出しなさい。

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「四十六才の婦人。主人は二十五年一月入信、直に御屏風観音様を御奉斎させていただき、三月に御神体を御奉斎させていただいております。本年一月十七日朝御参りの際御神体の巻き紐が根元から刃物で切ったように切れて落ちており、教会にて御詫びして紐の取替えの手続きをいたしました。祖霊の知らせではないかと思い、仏壇が粗末でしたので新しいのに致しました。一月十八日より子供(入信者、十四才)が頭痛、発熱、貧血等の御浄化をいただき、真青になり死相の現われた事もございました。又京都の伏見稲荷を信仰しておりまして、主人は御利益をいただいた事もあり、まだ執着がとれず、室内に祀っております。主人の無理解のため稲荷の話をすると目の色を変えて怒りますので、屋外に移す事もできません。私も人工流産をした事がございまして、罪深い者でございます。これらの事に関係がございましょうか」

伏見稲荷は何時から信仰してますか。

「十年前からでございます」

今何処に祀ってますか。

「御神体は二階に、稲荷は階下でございます」

紐を切って、今は紐をつけて掛けてあるのですか。

「紐を新しく致しまして御掛けしております」

しかしそれはそのままではいけないのです。紐を取り替えて、私が浄めなければならないのです。

「まことに申し訳ございません」

そうでなければ光明如来様の本当の光は出ないのです。一旦落ちたものは霊を入れ替えなければなりません。早速そうしなさい。それから伏見のお稲荷さんには悪い狐が随分居ますから、やっぱりそれを改心させなければならないです。二、三年もたてば大抵改心しますが、それはまだ執着がある狐とみえます。だから幾らかは何かやります。しかし光明如来様の光で、そういう事はだんだんできなくなりますが、今のように落ちたりすると本当の光が出ません。これは御詫びぐらいでは駄目なのです。ちゃんと霊を入れて上げますから、それから一年以上たてばお稲荷さんを処分してもよいです。それまでは処分してはいけません。ですからよく雨の染みができたり、いろんな事があって経師屋に直させたりしますが、それは必ず私の所に浄めに持って来ます。それをしなければいけないのです。

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「明主様の御写真をいただき、おあげさせていただきましたが、紐が切れて落ち、ガラスが割れて、御頭に毀がつきました。一週間ほど前の事でございます。如何致しましたら宜しいでしょうか」

持って来て見せて御覧なさい。

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「地方の農家では、二階はございますが、農機具、藁、ムシロ等を置いております所が多いので、御神体をいただくのに苦しんでおりますので、床の間だけを二階のない方の外に廂のような物を出しますのでございますが、その場合でもすぐに二階は見えるわけでございます。こういう事は御許しいただけますでしょうか」

その場合に、廂をどのくらい出すか、その寸法によっては、ごく良くもないが仕方がないです。少なくとも三尺くらい出して床の間にするのならよいです。その間の三尺は畳を一畳敷くとかして、その先に床の間を作るのならよいです。

「もう一つは、やはり田舎でございますが、ハエが多くて御神体にたかりますので申し訳ないと思いますが、セロファンか何かで覆いを致しますのは如何でございましょうか」

そういう事は必要ありません。ハエのクソでも、鳥でも、人間以外のものは御無礼にはなりません。そういう事を言うと、神社の屋根に鳥がクソをかけるからと、瓦に何かしなければならない事になります。

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「支部を移りまして床の間が低いために、御神体を床の間に合わせてお切りしまして、本部にお持ちする留守の間は光明如来様を御奉斎させていただきまして宜しいでしょうか」

表装は幾ら切っても構いません。

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「夫が中国人、奥さんが日本人の国際結婚でございますが、両名とも入信致しております。奥さんは御屏風観音様をいただき、仏壇で祀りたいと申し、主人も反対ではございませんが、主人は道教だそうでございます。如何致しましたら宜しいでしょうか」

日本の仏様でお祀りして結構です。

「位牌はどのように致しましたら宜しいでしょうか」

位牌はただ何々之霊とすればよいです。名前だけでは生きている人の扱いで嘘ですから。

「まだ両親は健在だそうでございますから、何々家先祖代々之霊位という位牌で宜しいでしょうか」

それでよいです。

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「親戚の者で、後を祀る者が居なくなった場合には、私の方の仏壇の中にお祀りして宜しいのでございましょうか」

結構です。一人でも多く祀るほどよいです。ただその時の地位はずっと下でなければなりません。あんまり崇めてはいけません。

「その場合、知人でも構いませんでしょうか」

結構です。

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「御屏風観音様につきまして御伺い致します。以前日蓮宗の行者でありまして、お曼陀羅を祀っておりますが、御屏風観音様の御奉斎を希望しております。しかし行者であったために霊的の事が強いようで、御取替するのが怖いそうです。すぐに御取替して構わないものでございましょうか」

構いませんが、そういうのは霊が邪魔するから、取替えなくても曼陀羅の地位を下にすればよいのです。御屏風観音様より下にならよいです。それから仏教で、よく阿彌陀さんの絵とか像がありますが、お像の方は木でも金でも同じですが、それは御屏風観音様の前に安置すればよいです。御掛軸の方は阿彌陀さんを後にして御屏風様を前でよいです。

「それはそのまま続けて宜しいのでございますか」

何年でもよいです。阿彌陀さんと観音様との関係というものを知ればよいです。阿彌陀さんと観音様は夫婦関係にもなってます。観音様が夫で阿彌陀さんは妻になるわけです。それから親子関係もあります。観音様は子になって阿彌陀さんは親になるのです。ですからどっちを上にしても差し支えないし、並べても差し支えありません。それで阿彌陀さんは月で観音様は日ですから、日月になるので、一緒で構わないのです。しかし位は観音様の方が上なのです。位が上だから、本当は観音様の方を上にしなければならないが、ちょうど天皇と同じようなもので、天皇陛下となると親よりも上になりますが、しかし親子だから血筋の方からゆくと親の方が上になります。そういう解釈によればどっちでもよいです。しかし厳密に言えば観音様の方が上になります。

「一度お下げした阿彌陀さんのお姿を再びお掛けしても宜しいでしょうか」

よいです。

「その場合に、阿彌陀さんの像が非常に大きく、前からお姿を拝せないような場合には如何致しましたら宜しいでしょうか」

そういうのは観音様の御顔が見えるだけの台をして上にすればよいです。

「仏壇が狭いために阿彌陀さんを観音様の右にお祀りしておりましたが、これはそのままで宜しいものでしょうか」

向って右に阿彌陀さん、真中に観音様でしょう。それでよいです。

「お掛軸は後という事でございますが、全然見えない事になりますが」

それは構いません。

「御屏風観音様が動くのは祖霊の戒告でしょうか」

動くとはどういうのですか。

「台からはみ出します」

はみ出てはいけません。

「一度直しましたが、三時間ほどしますと、又なります」

自動的に動くのですか。それは何か間違っているのです。今度仏壇を前から見た図を書いて来なさい、見てあげます。話でも分ればよいですが……。仏壇は何段になってますか。

「三段で、その上に台をおいて御屏風観音様を御奉斎しております」

台は必要ないでしょう。三段の一番上に戒名があるのでしょう。

「横に戒名があります」

上の段には戒名を祀ってはいけません。戒名は下の二段にお祀りするのです。それが間違っているのです。そうすると御先祖様が苦しいのです。つまり同列になるから苦しいのです。それは台くらいの違いではいけません。だから御先祖様が知らせるのです。やっぱり霊界ですから上中下となっているのですから、観音様は上段で、御先祖以下は中段以下にならなければなりません。観音様と同じ段では苦しいのです。「十光中教会の鈴木でございます。只今の事につきまして、人が立ちますと仏壇より高くなりますので、その関係ではないかと思いましたが」  それも面白くないです。しかしその関係ばかりではないので、今の三段の方です。立っている時は高くても、お参りする時には人間の方が低くなりますから、そう大きな御無礼ではありませんが、三段の事は絶対にいけません。仏壇の中は一つの霊界で、大変に大きな極楽界ですから、その順序がちょっとでも違ったら大変です。それから人間が立ってそれより低いというのは、非常に悪いわけではないのです。そういう家は沢山あります。だからなるべくなら仏様が上の方が結構ですが、しかし人間が立った上だと、仏様はばかに上になってしまいます。坐ると、かえって仏様は見えなくなります。ですからそこは臨機応変にやる事です。

「私がお取次して、御屏風観音様に台をして、同じ段に先祖代々之霊を祀らせました。御詫び申し上げます」

それはいけません。

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「本家と分家とはどちらが主になりますのでございましょうか」

それはやっぱり本家を主にしなければなりません。分家は枝です。それでよいのです。

「亡くなった姉と家内の里とはどちらが上でございましょうか」

姉さんの方が上です。御家内の方は、つまり居候になるわけです。これは法律で言う第一等親第二等親のその順序でよいのです。

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「田舎の方で同姓の森山家の墓というのが発見されまして、私の家の本家筋に当るようでございます。詳しい事は分りませんが、お寺や発見者の人から聞きますと、やはり私の先祖で大分前から断えていて、嫁に行った人が祀っていましたが、その後無縁になっていたとの事で、これから供養をしたいと思いますが、これは森山家先祖代々にはいるものでございましょうか」

それは一緒にするわけにはゆきません。つまり傍系的にすればよいのです。今度発見された名前は分っていますか。

「数名は分っております」

それを一々は面倒くさいから、合同してよいでしょう。

「かえってこちらの方が傍系のようでございますが」

そういう場合にはあっちの方が傍系になるわけです。普通の傍系とは違います。子孫が断えたという事は、何か理由があるのです。その理由というのは罪です。そこで罪が許されたから発見されたのです。ですから直ぐから先祖として祀る事は嘘ですから、一時そのままでよいわけです。先祖の名前があるとすれば、誰が一番主になる人か調べて、中心になる人があったらそれを中心にしてやればよいです。土地は違うのですか。

「私の先祖の墓と同一市内でございます。しかし宗旨も寺も違います」

そこに区別があるわけです。とに角あなたの先祖と混じるといけないから、そこの違いさを戒名に入れてすればよいのです。その中の主なる人の名前を調べて、主になる人を祀ってやればよいです。

「主になる人だけで宜しいのでございますか」

森山家先祖の霊として、寺に行って、あなたが言葉で今度これに祀る事になるが、何の何某も今度出来た戒名の霊位の中に共にお祀りしたから、その家の一員として、そのつもりにしてもらいたい、とそれでよいです。そうすればあなたの仏壇に来れます。

「同じ仏壇に先祖代々之霊位が二つになりますのでございますか」

それは仕方がありません。

「本家の仏壇の中にも、先祖代々之霊位にはいらない部類もあるわけでございますか」

そういう事になります。だから霊界の事は単純ではないのです。祖霊がずっと祀られてますが、その中の一人が大変悪い事をしたとすると、そのために先祖の名前を穢すという事になるから、一時刑罰を受けて祀られてないのです。ところがその子孫のうちで、信仰にはいって罪を許されるから祀られるというわけです。

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「大阪方面では、不幸があった家では四十九日が終るまでは結婚式とか、そういう事は絶対にしてはいけない事になってますが」

それはそうですよ。

「信者ですが、そういう事がありまして、結婚の日が決まっていたが四十九日間は結婚をできないという事になりますが、四十九日を一週間を五日ずつにするという事はいけないのでしょうか」

それはいけません。四十九日くらい待っても、何でもないではありませんか。それは待つのが本当です。

「それでは待つ方がよいでしょう、と申します」

よいでしょう、ではないので、待たなければならないのです。一週間を五日間にするという事は絶対にできません。太陽が出る事を止めるような事です。

「四十九日が終らなければいけないというのは、謂(イワレ)があるのでしょうか」

あります。霊というものは、亡くなったら五十日の間は其処から離れる事はできないで、其処に居るのです。そうすると死んだ人に対する生きている人間が哀悼の意を表しなければならないので、それが当り前です。それで結婚式というのは目出度い事で、そういう哀悼とか悲しみという事は全然忘れてしまう事になりますから、甚だ面白くない事になります。まだ霊が其処に居るのですから……。重病人がうんと苦しんでいる時に、其処で歌をうたったりするようなものです。

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「阿彌陀さんは一緒に奉斎して宜しいとの事ですが、弘法大師の場合は如何でしょうか」

弘法大師はずっと下です。

「そういう場合にはお軸を外して横の方に」

弘法大師は止(ヤ)めてよいです。その方が弘法大師は喜びます。弘法大師は観音様の横に祀られたら、苦しくて、かえって怒ります。

「お釈迦さん阿彌陀さんの場合には宜しいのでございますか」

そうです。しかしお釈迦さんは仏壇にお祀りするという事はないわけです。それは止(ヨ)した方がよいです。大体阿彌陀さんはお釈迦さんの時代に、法蔵菩薩となってお釈迦さんに会って、自分は西方に極楽浄土を作るから仏になった者はみんな寄越してくれと言って、そこで寄越したのですから、お釈迦さんは霊界における救いはやらないわけです。観音様は日になり阿彌陀さんは月になり、日と月は霊界ですから、形でないのです。ですからお釈迦さんを仏様として仏壇に祀るのは嘘です。仏壇以外に祀るのはよいですが、仏壇に祀るというのは合っていません。

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「四十九日を過ぎると黒の位牌にするのは、理由があるのでしょうか」

あります。白木に字を書いてあるのは仮りであって正式ではないのです。そうして黒の位牌に金で文字を書くのは正式に決められている事なのです。

「四十九日を待たずに黒の位牌にしてもよいのでしょうか」

しかし何にもなりません。そういうように決められているのだから、四十九日前は金の文字の方にはいるというわけにはいきません。だから四十九日が過ぎてから金文字の新しい位牌を作って、それにお移りを願うという、霊界の一つの約束になっているのですから、そのとおりにやるべきです。

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「お通夜の場合に、祭壇は御神前で宜しいのでございましょうか」

結構です。

「その場合、御写真、御神体には何かおかけすべきものでしょうか」

かけないで、そのままの方がよいのです。やっぱり霊が救われます。

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「父が人の道を熱心に信仰し、その時に父の兄が戦死しました。母はその兄の妻に当り、弟嫁となって私を産みました。……兄が戦死し、おじいさんは財産が分けるのが惜しいので、弟たる私の父と一緒にしたわけです……。(中略)家中人の道を信仰しておりましたが、人の道がつぶれましたので、神社神道の大神宮にはいっておりました。父も亡くなり、先祖代々は全部尊になっておりますが、父は熱心に人の道を信仰しまして仏界の方にはいってます。現在家はほとんど無神論のようになっております。如何致しましたら宜しいでしょうか。私は支部の御用をさせていただいております」

如何も何もありません。放っておけばよいです。面倒くさいです。そうしてあなたは支部をやっているのですから、一生懸命に救世教のお手伝いをやっているうちに、神様がよいようにしてくれます。だから時節を待つのです。今何うこうという事は言わないでそのままにしておいて、一生懸命にやっていると、時日がたつとちゃんとなります。それまでにいろんな変化があるでしょうが、それは整理ですからそれでよいのです。

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「弘法大師、地蔵さん、長谷の観音様の像を母の時代から祀っておりますが、如何致しましたら宜しいでしょうか」

光明如来様の床の間に台をして、其処に安置したらよいです。それは別に理窟はないが、お母さんが信仰したというのでその執着があると、すぐに処置するという事はお母さんに悪いですから。

「十一年になりますが」

十一年目になれば、もう執着はとれてますから、別に何か小さなお宮のような物をこしらえても、買ってもよいですが、其処に入れて、当分安置しておいて、一年くらいたったら処分してよいです。

「どういう処分を致しましたら宜しいのでございましょうか」

大きさはどのくらいですか。

「三寸くらいでございます」

それでは何か箱に入れて、お粗末にならない所にあげておけばよいです。戸棚でもよいです。

「仏壇の下に戸棚がございますが」

其処でよいです。

「三界万霊というのと無縁諸霊という位牌がはいっておりますが」

仏様がはいっているのですが、それは入れておいても構いません。

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「御無礼な話でございますが、御守様を便所の中に落した場合、その処置は如何致しましたら宜しいでしょうか」

上げて焼くのが本当です。分ればそうすればよいが、しかし分らなくなったらしようがないから御詫びするのです。

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「二十八才の婦人。二十五才で結婚致しました。先日子供を産みましたが、医者が言うノウスイで、福助のようになり、両眼が飛び出し、視力はないようでございます。生後一カ月でありますが、これは霊的に関係がございましょうか」 

無論霊的に関係がありますが、普通の霊的ではありません。

「主人は旅館の板場で、奥さんは同じ旅館の帳場で会計を致しております」 

これは浄霊でなおります。

「やはり頭部、延髄でございましょうか」

そうです。その吹出ている所に毒があるのですから。

「だんだん頭が大きくなっております。医者は一年以内で生命がないだろうと言っております」

これは昔からよくあります。医者ではそうなのです。しかし浄霊の方ではなおった人があります。

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「先般京都での御講演で、アメリカの機構に変化があるという事をお伺い致し帰りましたところ、信者さんが聞いて来た事でアメリカから相当な人が来て、アメリカの民主主義に疑惑を抱いた人が多いという講演をしていたようでございます。又今般の選挙の模様からゆきまして、左社が非常に進出し、二大政党という事が論議されておりますが、あのままでゆきますと左社が非常な勢力を得ますが、あれが本当のものでないという事も思いますが、そういう点につきまして御願い致します」

しかし、左社が景気が良かったのは何でもないのです。つまり日本の選挙権は女にも沢山あり、男の数よりも多いのです。それで女が多く左社に投票したのです。というのは再軍備反対は左社だけで、あとは曖昧だから、そこで自分の亭主や伜が兵隊にとられては大変だというので、それがないためには戦争がなければよいのだからして、左社に入れたのです。

「背景としてソ連、中共がすぐ隣にあるというので予想していたのもあるようでございますが」

だから左社は日本を第二の中共にしようというのです。そうすれば軍備は要らないわけです。軍備というのはソ連の侵入に対する軍備で、アメリカが侵略するという事はないのだから、そうすればこれは軍備の必要はありません。それで左社は日本を共産主義にして中共と同じように、少し有力な働きのある人間は殺してしまおうというわけです。だから怖いです。ところが女というものは大局を見ないで、まず自分の伜や亭主が兵隊に行かなければよい、あとはどうなろうがよい、という考えでもありませんが、ただ単純な考えで投票したのです。それがよく現われてます。そこで改進党が割に悪いのは再軍備を力強く名乗っているので振わなかったのです。それから鳩山派も再軍備を言ってます。それから右社の方は場合によってはしても良いと、ちょっと匂わせているのです。そこで嫌って左社ほどには行かなかったのです。それから自由党が割に良かったのは、実際にはしていながら再軍備はしないと言ってるが、そこをうまくカムフラージしているのです。そこで自由党なら割にしないから、まあよいだろうというのでああなったのです。ですから再軍備をするしないで各政党の割合がはっきりしています。だから別に立派な理窟も何もありません。ただそういう事が現われているのです。

「とに角左社というのは立派ではありませんから」

共産主義というのは没落するのです。

「昔から二大政党という事を言っておりますが、そこを目指しているようでございます」

それは何十年も前から目指してます。それで二大政党になりかかった事がありますが、それは壊れたのです。ですから出来たり壊れたりして来たのです。二大政党というのは理想です。それで二大政党になると比例代表になります。ところが日本は今度の選挙では人物本位という事を言っており、二大政党にはしないのです。アメリカのような二大政党なら、民主党なら民主党に、共和党なら共和党にという事だから、人間はどうでもよいので、その党の人間ならよいのです。だから楽です。ところが日本では、自由党の政権が良い、改進党の政策が良いと言って投票するよりか、人物本位なのです。だから今のような国民の感情であり政党の考えでは、二大政党にはなりません。一時比例代表という事が言われてましたが、これでは二大政党になるはずはありません。とに角二大政党というのは今のやり方より良いのです。アメリカの民主党に共和党、イギリスの保守党に労働党というので、アングロサクソン系だけはうまく行ってます。しかしフランスは日本と同じように出鱈目ですから、内閣も次々と変って、国家も疲弊してます。だから二大政党というのはよいのですが、日本ではどうもやらないのです。というのは日本人というのは大局を見ないのです。日本人は小乗的国民です。それでアメリカ、イギリスは大乗的国民です。どうも日本人は大局を見ないで部分的に見ているのです。だから理性より感情が多いのです。ですから政党の事でも、すべて感情です。あいつは悪い、やっつけてやれという事になるのです。今度の解散でも感情が余程混じってます。だから自由党でも、シャクにさわるから解散してやろうとなったのです。みんな金がないから困るだろうというわけでやったのです。吉田の“馬鹿野郎”と言った事はいけないという事は、感情も幾らかありますが、純粋理論としてもいけない事です。そこでみんな金がないから困るだろうから、解散でおどかしてやろうとしてやったが、あんまり乗って来ないので、それではと解散をやったのです。しかし国家的見地から言って、解散した方がよいかしない方がよいかという事は、それはしない方がよいです。そういうように自己の感じ、考えによって、大いに大局が動かされるのです。その事からゆくと二大政党が良いです。

「京劇にて、共産主義も資本主義もあべこべだという事がございましたが、具体的にはどういう事でございましょうか」

それは比べればあべこべでしょう。あべこべというのはどういう事ですか。

「真理に外れているというので」

いや、反対だからあべこべだというのです。夏と冬、夜と昼というのと同じで、それだけの事です。

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「藺草でございますが、反当り一万円の肥料を入れており、裏作として米を作るそうですが、米は一俵か二俵ぐらいでございます。そういう関係で少ないのでございますが、如何致しましたら宜しいでしょうか」

如何も何もありません。別々にするのです。米は米、藺草は藺草にすればよいのです。

「藁を切る必要はありませんでしょうか」

根本的に違っているのだから、そういう事は考える必要はありません。

「耕土を深くします事は」

深いも浅いもないので、根本が間違っているのです。両方を一つ土に作るという事が間違っているのです。だから両方とも良く出来ないのです。藺草と米を一緒の土に作ってはいかんという事を言って聞かせればよいのです。藺草は無肥料でやれば太くなります。

「熊本の方で無肥で致しておりますのは、初年目でございますが、長さは短かいが丈夫で、乾しあげた時に非常に目方がございます」

最初は短かくても、今に長くなります。そうして太くなります。それに畳にしても非常に丈夫で倍は持ちます。

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それから私は今度試してみたが、無肥料について、種にある肥毒と土にある肥毒は、土にある方の影響が多いです。種の肥毒の方が早く抜けます。だから一番良い事は、やっぱり客土です。これが一番手取り早いです。私は今度チューリップを作って、土は少しも肥毒がない所で、チューリップの球根だけが、肥毒と言っても、あれはオワイはあんまりないので、油カスというようなものだから薄いのです。一年目は小さかったが、今年の二年目では倍くらいになって、枝が分れて咲いて、二輪になったのです。今度写真に撮って栄光に出します。今までに二輪というのはありませんね。それが二百本ばかりの中に四本出ました。

「この間見ましたのは、来年の花を咲かせるというので、ツボミを切っておりました。明主様のは昨年花を御楽しみになられたものでございましょうか」

そうです。切って使ったのもありますが、大部分は立ち腐れのものです。それで去年の倍くらいで、色が萌えるようです。そうして枝から枝が出て花が咲いているのです。今度写真に出ますから、見れば分ります。ですから種の肥毒は一年で抜けてしまったわけです。

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「カーネーションの温室栽培でございますが、棚に土を五寸程度において致しておりますが、これは不自然でございましょうか」

そんな事はありません。土さえ自然ならよいのです。それで土にコヤシではないが、オガ屑とかいろいろ混ぜますが、それはいけません。飽くまでも土だけです。ですから堆肥も、本当はやらない方が良く出来ます。ただ赤土のように非常に固まりやすいのは、それを防ぐために堆肥を入れるのですが、そのうちにだんだん固まらない土になって行きますから、そうなったら堆肥は必要ありません。ですから堆肥というのは永久的な物でなく、一時的の物です。

(垂二十号  昭和二十八年五月十五日)