今回事務局長大石氏から、今度の記念号に何かかいて欲しいとのお頼みなので、取敢ず思いついたままを書かして貰うが、私は率直にいってこの新聞は日まだ浅きに拘わらず、仲々よく出来ていると思ってる。しかも新宗教という制約もあり、その上宗教それぞれの特徴もあり、それを按配よく扱うのであるから、仲々骨も折れようが、それを克服して公平な編集振りは多とするに足ると共に、堅実な歩みを続けつつあるのは頼もしい。
熟々今日の世相を見る時、人間は余りにも物質的功利的に走り、何事も形のみに囚われる結果、社会悪は増長し、到る処忌わしい問題や悲劇が生まれているのは周知の通りであって、これが文化の進歩としたら、長大息せざるを得ないのである。成程日進月歩物質文化は益々進展し、止まる処を知らない有様であるに拘わらず、右のようであるとしたら、そこに何か欠陥がなくてはならないはずである。そうして人間最大の欲求としては、何といっても幸福の二字であろう。処が文化が進歩すればする程、幸福処か反って悩みは増すばかりである。この原因こそいわずと知れた唯物科学偏重の為であるから、これを救うとしたらどうしても精神主義、即ち唯心思想を涵養しなければならない事は分り切った話であり、その役目こそ宗教であるから、われわれの任たるや重且大なりというべきである。
そうして昔からその時代相応の幾多の聖者偉人が生まれ、尊き教を説き、一身を犠牲にしてまで救世済民に尽した業績は、今なお燦として輝いている。処が遺憾な事には時代の変遷は、いつまでも既成宗教のあり方では、どうにもならなくなって来たのは事実がよく示している。それは科学の驚くべき進歩によって、科学によらざれば何事も解決出来ないとする現代人の考え方である。そのような訳で宗教は科学に押潰されて光を失い、今日の如き無神思想瀰漫の社会となったのである。
ところが時の進むに従い、今度は科学万能の考え方に亀裂を生じ科学のみでは真の幸福は得られないことがわかり、再び宗教に求めようとするが、今更既成宗教に期待はかけられず、ここに新しい宗教に着目したのが新宗教発展の一つの動機であろう。いわば時代が新宗教を生んだといってもよかろう。この要望に応えるべく日夜心身を砕いて努力しているわれわれとしては、要するに物質的にはますます科学の進歩を促進し、精神的には宗教によらなければ安心立命は得られないという信念を植付けることである。そのように両々歩調をそろえて前進することこそ幸福を生む真の文明社会が築かれることを確信するのである。
そのような大目的達成のためには、どうしても言論機関が必要である。何よりも今日一般社会人特にインテリ層の人々は、新宗教とさえいえば無批判に頭から軽侮の念をもって見る、これが新宗教発展にどの位障礙となるかは知れないのであるから、この無理解を一日も早く一掃することであって、それには本紙の如き有力な言論機関を活用しなければならない。それは発行後一年足らずの今日、新宗教が社会的に相当認識を深めてきたのは、そのあらわれといってもよかろう。如上の意味においてこの上共ますます本紙の充実をはかり、所期の目的達成に資せられんことを望むや切なりである。
(新宗三十七号 昭和二十八年五月五日)